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戦国時代にまつわる質問です。
元々徳川家の家臣だった石川数正ですが、のちに豊臣家へと鞍替えしましたよね。
私が思うに、「スパイとして豊臣家へと移籍」したのではないかと思えるものがあります。
豊臣家の主たる秀吉は、家康公からしてもライバルであり、ライバルの動向を探らせるために(数正を)出奔させたのではないかと…。


 実際に、どうなのでしょうか?

A 回答 (4件)

石川数正は、徳川家康とは親戚筋(数正の親が家康と従兄弟)であり、出奔以前の主従関係も極めて良好でしたから、もし数正が豊臣秀吉に仕えた後も家康と通じ、何らか功労があったとすれば、石川家はそれなりの扱いを受けて然るべきと思います。



でも実際には、ちょっと石川家の扱いが酷いと言いますか。
石川数正の子らは、豊臣秀吉の没後、関ヶ原の戦いでは東軍に属し、再び徳川家に仕えることになるのですが。
徳川方に復帰後の石川家は「外様」扱いで、全く厚遇されておらず、むしろ没落傾向なんです。
その結果、数正の子らの世代以降は、歴史上もほぼ登場しません。

従い、恐らく石川家は、最高権力者を渡り歩いた家柄として、肩身が狭かった可能性が高いと思います。
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この回答へのお礼

左様で…。元々親戚関係となっているならば、本来であれば【親藩】となっていた頃でしょうけど…。

お礼日時:2023/02/13 10:40

昔からある説のひとつですが根拠は薄いように思います。


数正は、秀吉との交渉役で元々家康家臣団の中では秀吉の内情に通じていましたが、彼は基本的に和睦派の中心でした。
そして彼の出奔・秀吉への帰属以後に、急速に両家の和睦→家康の臣従が進んでいます。

家康家臣団の中では、和睦派は家康の嫡男で織田信長の強い要求で切腹させられた信康の側近団で数正が中心だった岡崎派であり、抗戦派は酒井忠次などを中心とした家康側近団の浜松派という対立軸がありました。

しかし、小牧長久手の際も、地震と大雨で徳川領が飢饉に見舞われている最中でありながら、数正は合戦を阻止できませんでした。
小牧長久手後にようやく和睦を成立させることに成功したものの、再び、さらに巨大化した秀吉勢が徳川征服の準備を終えつつある確実な情報が多々あるにも関わらず、浜松派が徹底抗戦を曲げないために家康説得を諦めざるを得ない状況に陥ります。
それで出奔を決意し、今度は自分の逃げ道を塞いだうえで、文字通り必死の覚悟で何とか秀吉を和睦の方向で説得しようとしたのではないかと思います。

そして出奔直後に、何の因縁か、運命の不思議と云うか、今度は秀吉領で天正大地震が発生し、秀吉の大軍を支えるはずだった兵糧・武器弾薬などの軍需物資を大量に運び入れた大垣城も崩壊。秀吉は夥しい被災民の救済復興に全力を尽くさねばならず、家康討伐どころの話ではなくなり、家康とは数正の和睦案で手を打たざるを得なくなりました。

私は、数正出奔の理由はさまざまな要因が絡んでいるとは思いますが、結果からみれば、以上の理由が一番ありそうな説ではないかと思います。
スパイ説的要素も数正の心の中だけにはあったかもしれませんが、本筋ではないと思います。少なくとも、家康と密約を交わしての行動ではなかったと思います。
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「数正は三河勢の軍事的機密を知り尽くしており、この出奔は痛手であった。

以後、三河勢は三河以来の軍制を武田流に改めることになった。」これが事実ならスパイとして移籍は、代償が大き過ぎるので有り得ないのでは?
 出奔の理由には、多くの説があり、どれが真相なのかは不明です。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E5%B7%9D …
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なるほど、そこまでは考えていませんでした。

。。。。
可能性的にはありますね。

因みにそれが正解なら、秀吉の死後、石川家の子孫はどうなりましたかね?

それが、問題を回答に導くのでは・・・・・・・・・・・・・
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