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織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の有名どころは戦場での肉弾戦も強かったのでしょうか?

A 回答 (8件)

そんじょそこらの雑兵と比べたら強かったのは間違いないと思いますが、先陣切って突っ込むタイプの武将と比べるとどうでしょうね。


でも家康は〇〇流みたいな武術をいくつも修めてたって話しもあるので強かったかもしれない。
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上杉の同時代史料には謙信が一騎討ち仕掛けたなんて記録は無いですから。


江戸時代に「甲陽軍鑑」に対抗して湧いて出た与太話。
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この回答へのお礼

記録がないだけだろ?お前は学者じゃなくただの歴史好きなんだよ。

お礼日時:2023/04/10 23:14

上杉謙信が最前戦で自ら戦ったというのは後世の創作。


川中島での一騎討ちも、武田での「本陣に突っ込んできた坊主頭は誰?」「さー?坊主頭といえば謙信じゃね?w」という話を江戸時代になって知った上杉家が大いに誇張した与太話です。
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この回答へのお礼

ま〜あんたが見たわけでないから何でも決めつけるのは信憑性ないけどね。

お礼日時:2023/04/10 21:09

南北朝時代、新田義貞が足利尊氏に「大将同士の一騎討ちで決着をつけよう」と呼びかけたのに尊氏が反応して立ち上がると、周囲の家臣が「一騎討ちなど匹夫がやる事。

大将はドッシリと腰を据えて、下々の者に指示を出していればいいんです。」と押し留たという話があります。
大将が最前戦で槍を振るったり弓矢を射たりするのは物語や映画やドラマの世界だけです。
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この回答へのお礼

上杉謙信は?

お礼日時:2023/04/10 20:42

お礼について〈秀吉は足軽経験者だし家康も人質時代は肉弾戦してないですかね?〉



してるかどうか存じませんが、秀吉は武勇で伸し上がった人物じゃありませんし、家康は人質時代とはいえ、三河衆を率いた大将としての出陣でしょう。

家康については、信玄との三方ヶ原に戦いで陣を崩され敗北が決定した段階で、いち早く馬で逃げました。その敗走の途中で、敵を騎射しながら浜松城まで逃げたという記録はありますが、肉弾戦はどうでしょう。そのほか領内の一向一揆で負傷したという記録もありますが、肉弾戦で武勇を振るって強さを見せつけたという記録は無いと思います。
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この回答へのお礼

前田利家と本田忠勝は強えっすよね?

お礼日時:2023/04/10 18:34

戦場に赴く以上、それなりの鍛錬はしていたでしょうけど、大将が肉弾戦に巻き込まれたら終わりです。


普通は武芸に達者な旗本や馬廻り衆など、大将の直轄親衛隊が万一肉弾戦になったときに対応していたわけです。

中国でも、例えば三国時代の劉備の親衛隊長は趙雲でしたし、曹操の場合は典韋、典韋の戦死後は許褚が親衛隊長でした。典韋は降伏した張繡が突然裏切って曹操本陣を急襲した際、曹操を逃がすと自分は陣門に踏みとどまって張繡軍と壮絶な防御戦を繰り広げた末に戦死しています。
大将が肉弾戦でいくら大活躍しても、死んでしまえば何にもなりません。

アレキサンダー大王は騎馬隊指揮官を兼務して、常に部隊の先頭を切っており、敵陣のスキを見つけ出しては、真っ先に突撃するタイプの司令官でしたが、そのために傷が絶えず、そのたびに部下から真っ先に突入するのはやめて欲しいと諫められています。
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この回答へのお礼

秀吉は足軽経験者だし家康も人質時代は肉弾戦してないですかね?

お礼日時:2023/04/10 18:16

信長と家康(若い時)は、1対1の戦闘でもそこそこ戦えるでしょうが、秀吉はダメ。

だから、戦闘以外の手法、水攻めや包囲戦などが多いです。
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織田信長は、中くらいの背丈で、華奢な体躯であり、ヒゲは少なく、はなはだ声は快調だったそうです。


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B9%94%E7%94%B0 …
 豊臣秀吉は、身長が低く、また醜悪な容貌の持ち主で、片手には6本の指があった。目が飛び出ており、シナ人のようにヒゲが少なかったそうです。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%8A%E8%87%A3 …
 徳川家康は、「彼は中背の老人で尊敬すべき愉快な容貌を持ち、太子(秀忠)のように、色黒くなく、肥っていた」そうです。下腹が膨れており、自ら下帯を締めることができず、侍女に結ばせていたとされるが(『岩淵夜話』)[159]、そのような過度な肥満を裏付けるような家康の甲冑・衣装は確認されていない。家康着用の辻ヶ花染の小袖は、身丈139.5cm、背中の中心から袖端まで59cmの長さがあるため、身長は155cmから160cmと推定される。家康は、「大将は戦場で直接闘うものではない」と言っていたそうです。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D …
 三人共、大男/巨漢では無く、極端な肥満でも無かった様です。たぶん、力も強く無く、肉弾戦なら負けて相手に組み伏せられていたと思います。
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