中国最初の皇帝が秦の「始皇帝」であることは、多くの人が知る有名な事ですが、中国最初の皇后って、一体誰だったのでしょう。
記録上では、たしか、漢の高祖の正室だった呂后だと思います。
しかし、13歳で秦の国王に即位し、50歳まで生きた始皇帝が、その生涯で正室を一度も迎えなかったというのも、なんか、腑に落ちません。
もし、正室がいたとしたら、その女性こそ「始皇后」と呼ぶにふさわしい人物であるかと思います。もっとも、始皇帝が皇帝と名乗る前に亡くなっていれば、生前はもちろん、死後も追尊を受けなければ、皇后とはならないでしょうが、いまの私の知識では、一生懸命調べても、そんな女性の存在すら感じられません。
ちなみに、秦の2世皇帝、3世皇帝の皇后についても、まったくわかりません。彼らは若年だったかもしれませんが、即位後にそういう正室がいてもおかしくないと思います。
「始皇后」の存在について、何かしらの知識をご存知の方がいらしたら、ご教授願えませんでしょうか?また、私と同じくご存知でない方でも、この場で情報交換しませんか?
No.1ベストアンサー
- 回答日時:
項羽と劉邦の時代―秦漢帝国興亡史
講談社
藤田 勝久
この中で、藤田氏は、始皇帝の嫡男であった扶蘇に関して、その母親を楚の王家出身ではないかと推測されています。
同書では、項羽に関しても、女性関係、有名な虞美人ですが、これが、急に出てくると指摘されています。
劉邦の呂皇が、イレギュラーに女性として目立った、あるいは、劉邦の出身が悪かった(一族がいなかった)のに対して、呂家がそれなりの力を持った家だったというのが、その後の漢王室で、皇后の出身一族が発言権をのばすことができた一因かもしれません。
早速のご返答、ありがとうございます。
楚の王室出身だとすると、始皇帝の正室にふさわしい身分だったかもしれませんね。
しかし、王室出身の正室であれば、秦の公式記録に残ったでしょうし、彼女の陵墓も、どこかにあるでしょう。
始皇帝という人は破天荒な人ですから、成人して親政するようになってからは、正室を重く見なかったのかもしれませんが、幼少の頃に即位しているので、その頃の後見人によって婚約が決まり、実際に輿入れしている正室は存在していただろうと思います。
ご教示いただいた本、今度、図書館で借りて読んでみます。
No.3
- 回答日時:
No.2です。
お礼から色々考えたので、もう一度答えます。あまり自信はないですが・・・正室とか第一夫人というのは、政略結婚の産物です。隣国の王の娘を貰うことでその国から攻め込まれない、つまり同盟がわりです。つまり大事な女性ですから、他の妾とは違う格が必要になるのです。始皇帝は中国を統一した世界で一番偉い人物との自尊心があったのですから、ヨソとは対等な立場になる必要は無い、自分に従うか潰すだけという考えで、他国とのバランスを取る意味での正室は必要なかったのでしょう。
質問者の仰るとおり、古今東西の歴史は自分を正当化するために敵対者や前任者をとにかく悪者にする傾向があります。しかし、始皇帝に関しては考古学的物証から見ても世界一豪華な始皇帝陵を建設したことからみても、人民に苛政をしいた暴君だったのは明らかです。
万里の長城の建築で夫と別れた美人の妻が、白骨化した夫を探し当て、そこを通りかかった始皇帝が自分の妾になれと言うと、「死んでもあんたの妾になるか!」と恨みを言い、たじろぐ始皇帝を前で夫の骨を抱きしめたまま長城から飛び降りて自殺した、
という悲しい歌があります。
まあ始皇帝の妾たち全員も、彼の暴政の犠牲になってしまったのでしょうから、100年経とうが誰もが思い出したくなく名前も封印したくて、記録や資料もなかなか出なかったのかもしれません。
また、司馬遷が史記を編纂した当時は紙や墨が発明されてません。木簡にうるしを含ませた筆で記述していましたが、手間がかかり保管も大変なものでした。また、史記は漢にとっても都合の悪い記述があったので、遷が娘に史記を残す時誰にも見せないようにと念を押してます。ですから、史記は必要最低限の記載しかできなかったので、歴史とは無関係な女性の名前は省かれてしまったとも思われます。史記には政争などの事件以外で女性の名前が出るのはあまり無いですね。
ありがとうございます。
「正室とか第一夫人というのは、政略結婚の産物」という見解は、自分も思いつかなかったですね。なるほど、そうだったのかもしれません。
しかし、私は、中国の思想では、陰と陽があって、陽(表)の世界の君主が皇帝であるのに対し、陰(裏)の世界の君主が皇后であると認識していました。そして、皇帝の下に三公九卿といった臣下がいたのに対して、皇后の下に位階を持った多くの側室がいたわけです。まぁ、実際には皇帝のほうが主で、皇后はその下位であることには変わりないのですが…
ともかく、皇帝と臣下、皇后と側室たち、このペアで天下に君臨するという思想から、始皇帝にも皇后は不可欠な存在だっただろうとも思っていたので、今回、質問してみました。
たしか、史記か漢書か忘れましたが、漢代の史書では「漢の後宮の制度は秦制に倣う」と表記してあるので、じゃ、秦の皇后の存在は? という疑問が湧いてきたのです。
おっしゃるとおり、秦は中国で最初の本格的な「帝国」であり、その制度にはすばらしいものがありましたが、短期間で急激に推し進めたため、人民を疲弊させるものとなり、その不満が乱世を呼び、天下統一からたった15年程度で滅亡したのでしょう。
(もっとも、始皇帝が人格破綻者だった可能性は否定できませんが…)
だから、西漢は、高祖の「法は3つだけ」に代表される「無為」の思想を持ち上げ、儒教と法家思想を混合させて、徐々に帝国を築いていったのです。その成功に対して、失敗した秦は、いつまでたっても悪逆の帝国として罵られ続けていきます。
ただ、西漢の高祖劉邦も、東漢の光武帝劉秀も、唐の太宗李世民も、明の太祖朱元璋も、始皇帝クラスの悪逆な一面をもっていたと思います。やはり、彼らは、後世の子孫たちがその汚い面を隠してくれたから、始皇帝より明らかに人徳のある君主のように思われているのだと思います。
No.2
- 回答日時:
始皇帝のお母さん(名前がない)が、とんでもない人物でしたからね・・・。
自分自身の出生疑惑も重なったトラウマのためか、女性を「もの」扱いにしか見ていなかったのでしょう。始皇帝の息子・娘は長子・扶蘇と2世皇帝・胡亥の間には数十人の兄弟姉妹がいたようですが、その母親ですら不明のままです。胡亥は宦官・趙高のたくらみで、放蕩三昧な生活だったと伝えられられていますから、正室と良好な関係では無かったでしょうから資料が無いのでしょう。
3世皇帝・子嬰やその一族は項羽によって皆ごろしにされて、歴史に登場したのはほんのちょっとの短い間だけだったので正室に関する資料も無かったのでしょう。
ご回答、有難うございます。
確かに、始皇帝はたくさんの側室を置いていたようですから、子供全員が正室の子でない可能性もありますね。しかし、始皇帝の正室と、2世皇帝になった胡亥の生母の記録くらいはあったはずだろうと思います。他の子の母親たちは、始皇帝死後に胡亥と趙高によるジェノサイドで、死刑になったり、既に亡くなった者については、墓が暴かれ、記録が抹消されたのかもしれません。もしかしたら、始皇帝の正室もジェノサイドの犠牲者になって、陵墓すら残らなかったのかもしれませんね。そうなると、皇后位も剥奪されたのでしょう。
2世胡亥、3世子嬰の生母や正室をはじめとする後宮の記録ついては、まず、項羽による子嬰一族虐殺と同時に抹消されたのだろうと思います。しかし、胡亥のものであれば、後の西漢王朝が、必要以上に悪逆の君主として、記録抹消をそのままにしてもおかしくありませんが、子嬰については、高祖が一度は助命しているので、むしろ、子嬰を虐殺した項羽を必要以上の悪逆の君主に仕立てるため、子嬰をある程度の明君として記録を復活させようと考えていたのではないかと思います。
それでも、「史記」に載っていないのは、司馬遷が武帝に対する恨みからか、ひそかに西漢皇室の祖である高祖の品位を落とし、項羽に同情的に書いたような節があるからかじゃないかと想像しています。しかし、最後は、当の武帝の気まぐれで、中書令という、宦官だが絶大な権力を握る高官ともなったのですから、体制側の人間として、この問題をどう考えていたのでしょうか?
ただ、始皇帝の時代と司馬遷や武帝の時代は、たった100年程度しか離れていませんから、綿密に調査すれば、まだ、どこかから記録や証拠は出てきたのだと思います。「始皇后」の問題をはじめとする秦王朝の記録は、この西漢王朝時代に整理分類され、捏造すらされた可能性が大きいと思います。
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