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今では、国名の変更は「勝手に変更」できますが、例えばビルマ→ミャンマーのように。昔はそうは行きませんでした。特に東アジアでは「中国」の承認が必要でした。

663年の白村江の戦いでの倭国軍の敗戦により、唐は使者を倭国に遣わし、唐と倭国の戦後処理を行っていく。

『唐暦』には、702年に「日本国」からの遣使(遣唐使)があったと記されている。この時の遣唐使によって「日本」という新国号が唐(武則天、大周)へ伝えられたとの記述がある。
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則天武后(武則天)(624年 - 705年)(在位期間690年 - 705年)

称号や尊号、都市の名前など、人や事物に対して、伝統的に使用されてきた呼称に改変を加えることを非常に好んだ。

1.皇帝と皇后をそれぞれ天皇と天后とした。

2.地名の改称の例は洛陽を神都とした例や、自らの出身県である文水県を武興県と改めた例などであり、武則天の思想を反映するとともに、皇帝である自身の権威を高めることや、あまり家格の高くなかった生家の武氏の権威を高めることなどを意図したものが見られる。

3.武則天は漢字の改変も行い、則天文字と呼ばれる新しい漢字を創っている。その数は20字程度であり、今日使用されることはほとんどないが、「圀」の字は日本で徳川光圀と本圀寺に使用されている。

4.武則天はまた元号も頻繁に変更した。
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則天武后は「伝統的に使用されてきた名前を変える事が大好きな人」だったのです。

ですから、702年に日本から使節(遣唐使)が来て、国名を「日本」に変えたいと願い出て来た時、則天武后にとっては「我が意を得たり、望むところ」だったのです。

則天武后は705年に生前退位しますから、もし日本からの使節が3年遅れていたら、則天武后に会う事が出来ず、日本の「国名変更願い」が受け入れられたかどうか分かりません。日本にとっては幸運な事でした。

702年から、現在2020年、1318年間、日本という国名は続いています。こんなに長く同じ国名が続いている国は他に有りません。

則天武后は洛陽を神都と改名しましたが、今では洛陽は洛陽で、神都とは呼ばれてません。結局、武則天が変更した主な地名で、今も変更後の名前で呼ばれているのは「日本」だけです。
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もう一つ、則天武后が日本の「国名変更願い」を受け入れた理由は、当時の日本の政治状況も関係していたと思います。

702年、当時の日本の天皇は文武天皇でしたが、後見として祖母・持統上皇(史上初の太上天皇)が付いていました。実質的に政治を行っていたのは女性である持統天皇でした。

つまり、女性で有りながら、実質的に政治を行っていた則天武后と持統天皇は似ていたのです。女性である則天武后にしてみれば、同じ女性である日本の持統天皇に共感し、持統天皇の願いを聞き入れてやろうと思ったのでしょう。
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持統天皇(じとうてんのう、645年 - 703年)(在位:690年 - 697年)。天武天皇の皇后。史上三人目の女性天皇。

持統天皇は、筑後国上陽咩郡(上妻郡)の住人大伴部博麻に対して、

「百済救援の役でその方は唐の抑留捕虜とされた。その後、土師連富杼、氷連老、筑紫君薩夜麻、弓削連元宝の子の四人が、唐で日本襲撃計画を聞き、朝廷に奏上したいが帰れないことを憂えた。その時その方は富杼らに『私を奴隷に売り、その金で帰朝し奏上してほしい』と言った。

そのため、筑紫君薩夜麻や富杼らは日本へ帰り奏上できたが、その方はひとり30年近くも唐に留まった後にやっと帰ることが出来た。自分は、その方が朝廷を尊び国へ忠誠を示したことを喜ぶ。」と詔して、土地などの褒美を与えた。
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持統天皇は唐の則天武后が日本に攻めてこないか警戒していました。そこで、あえて則天武后に「国名変更願い」の使者を送ったのです。もちろん、則天武后が「地名変更大好き」なのを知った上です。

持統天皇の作戦は成功し、まんまと則天武后から国名変更の約束を取り付けました。これによって日本の安全は確保されたのです。なぜなら則天武后は日本の「名付け親」に成ったからです。名付け親が、自分が名付けた国を滅ぼすはずがないからです。

「則天武后(武則天)は、何故日本の「国名変」の質問画像

質問者からの補足コメント

  • HAPPY

    「国名変更の通知」なんか、唯一の帝国を自称する中国の皇帝は受け取りませんよ。自分は通知する方であって、通知される方ではないと思ってますから。

    ですから、日本側としては、あくまでも下手に出て「是非とも日本の名付け親に成って頂きたい」という形でしか受け入れられなかったでしょう。

    607年に小野妹子が遣隋使として派遣され、その時の国書が「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無しや、云々」

    これを見た隋帝は立腹し、外交担当官である鴻臚卿(こうろけい)に「蕃夷の書に無礼あらば、また以て聞するなかれ」(無礼な蕃夷の書は、今後自分に見せるな)と命じた。

    則天武后の時代が千載一遇、唯一のチャンスだったのです。それも663年に白村江で日本と唐が戦った直後は無理で、白村江から39年経ち、702年に成って、やっと国名変更が許されたのです。

    No.2の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2020/02/09 12:04
  • >倭国から日本への国号変更が皇帝の承認を経てなされたものなら、このように理由も由来もあやふやで何やら疑わしい、というような書き方にはならないのではないでしょうか?

    『旧唐書』東夷伝は、則天武后が亡くなった後に書かれたものでしょう。則天武后が亡くなった後、中国の歴史では良く有る事ですが、前任者の功績が否定される事が有ります。

    No.3の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2020/02/11 16:16

A 回答 (3件)

武照さんは、


武則天として中国史上空前絶後の女帝として君臨しました。

しかし、死後は何もかも歴史が書き換えられて、
周は唐に、武則天は則天皇后に、
存在すら消される運命をいかんともしがたかったのです。

自分の存在が歴史に残ること、
外国、日本の国名の名付け親になることを
望んだのです。

それしか、
歴史に自分を刻めることができなかったのです。

そのように、
私は、考えています。
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質問者さまは誤解されているようですが、隋の煬帝が無礼だと激怒したのは「日出ずる処」という箇所ではなく「天子」を自称していることに対してです。

「日出処」「日没処」というのは仏教用語で、方角として東と西を表しているに過ぎず、国名ではありません。『日本書紀』推古天皇十六年九月辛巳の記事にも「東の天皇、敬みて西の皇帝に白す」とあります。
また『旧唐書』東夷伝には「日本国は倭国の別種なり。其の国日辺に在るを以て、故に日本を以て名と為す。或は曰ふ、倭国自ら其の名の雅ならざるを悪み、改めて日本と為すと。或は云ふ、日本は旧小国、倭国の地を併せたりと。其の人、入朝する者、多く自ら矜大、実を以て対へず。故に中国焉れを疑ふ」とあります。
日本という国号の由来について、倭国を併合した小国の名とする説を含む諸説を挙げたうえで、この国の使者の態度は尊大かつ不誠実で信用できないと評しています。倭国から日本への国号変更が皇帝の承認を経てなされたものなら、このように理由も由来もあやふやで何やら疑わしい、というような書き方にはならないのではないでしょうか?
この回答への補足あり
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何か勘違いをされているような気がします。


蘇我馬子が実権を握っていた推古天皇以降、国号を「日本」に定めた天武朝当時の日本が目指したのも対等外交であって従属外交ではありません。
「国名変更願」ではなく「国名変更の通知」をしたのです。

中国人の学者を雇って「日本書紀」を記述させたのも、日本が蛮族ではないことを中国に対して証明するためであったことを忘れてはなりません。
ただ「日本」という国号を伝えたのではなく、中国人に認めさせるには何が必要かを調べたうえで、皇族と蘇我氏が一緒に周到な準備を長い長い年数をかけて周到な準備を積み重ねたうえで、中国人に認めさせたということです。

当時の中国人が認めたくなければ、今の韓国のように「天皇」を「日王」と呼んだり、「日本」と呼ばずに「倭国」とか「日帝(大日本帝国の略で日本を今でも軍国主義犯罪国家であると位置づけたいときに使う)」と呼んでいたでしょう。
しかし中国人はそこまで姑息ではなかったのでしょう。きちんと理解して日本の通知を諒解し、現在に至っています。
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この回答へのお礼

「国名変更の通知」なんか、唯一の帝国を自称する中国の皇帝は受け取りませんよ。自分は通知する方であって、通知される方ではないと思ってますから。

ですから、日本側としては、あくまでも下手に出て「是非とも日本の名付け親に成って頂きたい」という形でしか受け入れられなかったでしょう。

例えば、遣隋使、推古朝の時代、倭国(俀國)が技術や制度を学ぶために隋に派遣した朝貢使。600年 - 618年の18年間に3回から5回派遣。

第二回は、『日本書紀』に記載されており、607年に小野妹子が国書を持って派遣された。隋の煬帝に宛てた国書が、『隋書』「東夷傳俀國傳」に「日出處天子致書日沒處天子無恙云云」(日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無しや、云々)と書き出されていた。

これを見た隋帝は立腹し、外交担当官である鴻臚卿(こうろけい)に「蕃夷の書に無礼あらば、また以て聞するなかれ」(無礼な蕃夷の書は、今後自分に見せるな)と命じた。

則天武后の時代が千載一遇、唯一のチャンスだったのです。それも663年に白村江で日本と唐が戦った直後は無理で、白村江から39年経ち、702年に成って、やっと国名変更が許されたのです。

お礼日時:2020/02/09 11:57

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