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ローマ帝国元老院統治と他国の国王統治の違いは何ですか?

A 回答 (4件)

#2です。

おれいありがとうございます。

すいません。「ローマ帝国」元老院統治でしたね。。
間違って共和政時代の元老院の統治形式を書いてしまいました。以下が「帝国時代」つまり皇帝制になってからの違いです。

まず皇帝と国王の統治の違いですが、一人の人が決済するという点においてはまったく同じです。

違うのは「その権限の依拠する正当性」と「決済に至るシステム」です。

正当性について
国王でも公君でもいいのですが、君主というものは「その人またはその先祖が権力や武力で国を統治し、それを世襲または世襲に準じた方法で統治権を移譲した人」ということになります。
つまり、誰かが「おれが王様になってこの国を治めるぜ」と言いだし、そのリーダーシップにみんなが協力すれば君主国の誕生、ということになります。

決済に至るシステム
君主は国のオーナーですので、すべてを決める権限を有します。もちろん、ある程度は学者や貴族、または大臣などと相談はしたわけですが、最終決定をするのは君主であり、その決定は君主の考え方によったわけです。ようするに独裁であるわけで、君主が裁断した以上その通りに実行される、ということになります。君主=法だったわけです。


ローマの元老院は以下のように違いがあります。

皇帝の正当性について
ローマ皇帝は以下の権限を同時に有している個人ということになります。
・執政官権限 2人いる執政官のうち、必ずその一人として選出される(後述あり)
・独裁官権限 共和時代、非常大権(ほぼ戒厳令に匹敵)で任期が短かった特例権限である独裁官に終身で就任、独裁官は同時に軍事統制権を掌握するので、この軍事指揮者のエンぺラトールがエンペラーの語源になった。
・護民官特権 護民官には拒否権があり、これに終身で選出された(後述あり)
・最高司祭  ローマは司祭も民主的な選挙で選ばれた、この役職は選出されると終身

本来は別々な人がそれぞれ就く役職であり、特に独裁官は非常時にしか設定されない特殊な役職だったのですが、独裁官しか軍事統制権を持てる唯一の役職だったので国王と同等の機能をもつためには絶対に必要なものであったといえます。

執政官は元老院において議題の方向性をリードする実質的なリーダーでした。総理大臣に近いものがあるのですが、2人制だったため、その一人に選出されるものとしていました。しかし、元老院の多数の中には「これは独裁である」と不満をもつ(というより皇帝の独裁制に気がつく)人もいて、その場合は執政官にならない時期もあったとされています。しかし、それでは議題をリードできないのでプリンケプス・セナートゥース(Prīnceps Senātūs 、元老院の第一人者の意」という元老院の名誉職にも就任しており、元老院での討議で最初に発言し最後に締める役割を得て、元老院を掌握した。ただしこれは権限ではなく名誉称号であったが、元老院またはローマ市民の多くは「皇帝とはプリンケプスのようなもの」という認識であり、実質的な君主であることにほとんどだれも気がつかなかった。

皇帝制をデザインしたのはユリウス・カエサルでありましたが、カエサルは自分の100年前のグラックス兄弟が「王を指向した」という濡れ衣で当時の元老院から排除(実質的には暗殺)された事実から、ローマ人は独裁的個人を伝統的に嫌う、ということを見抜いており、皇帝が実際には君主と同等な権限がある、ということを巧妙に隠しつつ、手続きとしては民主的な手続きで皇帝が選ばれるように枠組みを作りました。
 カエサルは途中で暗殺されますが、その後を継いだ初代皇帝アウグストスはカエサルの理想を良く理解しており、強固な皇帝制を作りだすことに成功します。

皇帝は「共和政の手続きの中で独裁を実行する方法」というのが本来の趣旨であり、そこが国王などの君主と全く違うところです。16世紀のフランスでナポレオンが皇帝を称したのは、すでに王政が廃止されていたからで、王政じゃないのに独裁をする、ために皇帝を名乗ったわけです。

さて、ローマ時代、皇帝としての機能を有するためには様々な役職を民主的な手続きで備える必要がありました。また、それを備えた後、引きずり降ろされないようにもしないと行けませんでした。なぜなら君主がもつ「君主としての正当性」がなかったからです。

そのために利用されたのが、終身特権である最高司祭、これで権威を身に着けることができ、さらに護民官特権により「法からの保護」を得ることができました。護民官は今の現役議員などと同様の不逮捕特権を持っていたからです。さらに護民官は元老院の決定に対抗できる「VETO」つまり拒否権をもっていたため、常に元老院よりも強い立場を維持しました。実はこの護民官は終身ではないのですが、アウグストスが元老院と取引して執政官を毎年はしない代わりに、護民官の特権(VETOと不逮捕特権)を終身で得られるようにしたのです。

これらを組み合わせることで、事実上国王と同様の独裁的な国家運営ができるようになったのが皇帝:インペラトールです。
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この回答へのお礼

天才やな

丁寧な説明ありがとう御座います。武力統一は、世界共通ですが、その後のシステム構築がまるで違うマヤとエジプトは、象形文字で貴族独占。欧州の帝国精度は、非常に変ですグラディエイター「奴隷から皇帝」面白い古代史は、特に面白いですね。

お礼日時:2017/04/14 00:04

質問の簡単さにあわせて簡単に答えたんだけどねぇ.



ちなみに「帝国」というのはもともと政治体制を表したものではなく, 「大規模」「複数の文化・文明を含む」という意味を持っています. なので, 共和政だった時代のローマも (特にポエニ戦争以降は) 「帝国」です.

あと細かいことをいうと「国王」の選び方もさまざまで, 選挙で選ぶという国もあります. 実際, いくつかの国では元首の被選挙権が血統に依存しています.
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簡単に言えば君主制か民主主義かという違いです。



国王統治もいくつか種類がありますが、基本的には国王に絶対的な権限があって、すべて国王の承認の元に政府が運営されるものをいいます。だから国王が「隣の国と戦争する」といえば戦争をしましたし、「○○は処刑」といえば処刑されたわけです。もちろん、国の運営の細かいところまでは目が行き届かないので、具体的な運営は法律を作って官僚組織が運営していましたが、重要な案件はすべて国王が決済していたわけです。

元老院統治というのは、この決済部分を元老院の採決で行うことをいいました。

元老院というのは、まだローマが君主国だったころに貴族たちが王の決済の前後に助言を与える機関として発展したものです。この点では日本の幕府の老中職によく似ています(ただし、人数が全然違います)
ローマは王を追い出して元老院がすべてを決定する最終機関にしたもので、これを共和政と呼びます。また貴族と言っても厳密に身分が貴族階級だったわけではなく、没落した貴族を除名してその代りに新しい平民のお金持ち(影響力のある金持ち)を引き上げたり、ローマが侵攻して新しい部族がローマに加盟するとその部族長などの指導者を元老院に招き入れたり、と当時としては画期的なほど民主主義であったといえます。

また平民には護民官を選出する権利があり、護民官は元老院に参加して拒否権(VETO)を使うことができました。
このような仕組みから「民主主義的である」とされています。

また、元老院は執政官を毎年2人選び、国王の代わりの代表者としています。国王の承認と同様の承認は執政官の一人が行えばよく、また戦争が起きると執政官を指揮官として派遣し戦争継続や和平などの全権を前線にいる執政官の仕事としています。そのため執政官は2人で、戦争があちこちで起きている場合は、執政経験者を全権大使指揮官として現地に派遣したりしました。
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この回答へのお礼

助かりました

ローマ皇帝カリギュラは、性格も精神も異常なのに元老院は、何もしなかった。
またネロがキリスト教徒を、今のバチカン市国で火あぶり、その光で夕食、ローマ市民も嫌悪感を抱き皇帝ネロは名を残す。元老院は、残虐行為に口出し出来ず。
元老院統治下の皇帝は、名前残らず。このような帝国で有りながらギリシャ式民主主義が、約1100年間続き不思議ですね。どうもありがとう御座いました。

お礼日時:2017/04/13 15:19

字面通りに解釈すると


統治主体が元老院なのか国王なのかが違う
ということになるけど... それでいい?
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この回答へのお礼

簡単過ぎ!

お礼日時:2017/04/13 15:05

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