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清代に科挙に受かった状元は、どのような出世コースを歩むのでしょうか。

A 回答 (2件)

お礼をありがとうございます。

NO2です。追記をさせていただきますが、少し横道にそれた話から。今バンコクにいますが、定宿にしているホテルの近くに、野菜の炒め物や水餃子などが本当に絶品で、値段も安く、日本人も多数来るという反面、ウエートレスがヤル気がないというか、働かないというか、ちぐはぐな中華のレストランがあります。その名前が状元食堂(正確には養生堂)といいます。大分前にこの食堂を知った時に、先祖に状元がいて、記念して食堂の名前にしたのかとも思いましたが、調べてみると、現代の状元はNO1の意味で広く使われていて、NO1食堂くらいの意味かと思いますが、その時に科挙や状元などについて少し調べ直しました。
その時に分かったことで今回に関連することは次の事柄です。上記しましたように、今海外ですので、再確認していませんし、記憶があいまいな面もあることをお断りしておきます。
まず、清朝時代に状元になったものは凡そ100名。軍機大臣が150名内外であったと記憶します。そして、状元で軍機大臣まで至ったのが多分3名か4名という数だったと思います。あまりに少ないので驚いた記憶があります。
次に、状元が翰林院修撰に任命されない例は清朝の初期にみられ、清の官制が安定していなかったからではないかと思います。特に初期においては郷試に合格した挙人を官僚に採用している例が多く見られ、異民族出身の清に仕えることを潔しとせず、科挙を受けない読書人層があったことが知られますが、このために優秀な官員の不足が背景にあったのではないかと思います。
次に、状元出身者に官歴に目立った傾向は少なかったと思うのですが、一つの傾向として皇帝や皇族の侍読・師となる者が多くいたことです。特に皇帝の師(複数名)は、帝師と呼ばれて尊重されます。また、文人としての名声を持つ者も多く、官人としてより学者・文化人の傾向が強かったように思います。また、早目に官を退く傾向もあったように思います。
次に、「科挙で第二甲以下で合格した人たち」の質問にも関連しますが、会試(清の時代はその前に挙人履試、後に会試履試がありますが)の合格者である貢士は、続く会試履試、最終の殿試では基本的には落ちることはなく、進士と呼ばれることもあります。それなので殿試は進士の順位付けの意味が強かったとされますが、殿試を終了して正式に科挙に合格して進士となり、原則的には全員中央・地方の官に就きます。その進士の中で、状元・榜眼・探花以外で将来有望とみられた者が選ばれて、翰林院の庶吉士という職に就き、2年か3年?の期間で翰林院に残る制度がありました。期間終了後も優秀なものは更に翰林院の別の職(多分、榜眼・探花出身者と同じ扱いではなかったかと思いますが)に移り、翰林院に残り、その他は他の官庁に移るようになりますが、この庶吉士出身者は官界で出世した者が多く見られます。官界での出世コースと考えるならば、状元よりも庶吉士に注目した方が良いと思います。
なお、この庶吉士の選考基準がよく分かりません。成績優秀であれば状元・榜眼・探花に続く者を選べばよいわけですがそうでもなく(進士になるほどの人物ですので優秀ではあるはずですが)、官僚としての資質・師弟関係・地縁・血縁などが要素としてあるのではないかと思います。
ともかくも、翰林院は状元・榜眼・探花だけではなく、庶吉士などを含み(進士合格者以外はいません)、人材のプールの役割を果たしたといえます。

再確認をしていませんので、参考程度に。
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この回答へのお礼

詳細なご回答ありがとうございますm(__)m

バンコクとはいいですね!(^O^)私の父も友人もバンコクに行ったことがあるようですが、料理が絶品だったと口を揃えて言っています。私もいつかバンコクに行ってみたいです。

>状元で軍機大臣まで至ったのが多分3名か4名という数だったと思います

そこまで少ないとは、びっくりしました!
状元になっても順調に出世するわけではないのですか……。

状元が翰林院修撰に選ばれない例は、清朝初期にあったのですか。
たしかに、相当文化の異なる異民族の立てた王朝ですし、初期の頃では官制も定まっていなかったでしょうから、いろいろ混乱があったことは予想されます。例外についても教えてくださり、ありがとうございます。

>特に初期においては郷試に合格した挙人を官僚に採用している例が多く見られ……

初期に起きた官僚にまつわるエピソードの数々を教えてくださり、ありがとうございます。郷試に合格した挙人を採用するとは、科挙を受けない読書人層がかなりの数でいたみたいですね。

>一つの傾向として皇帝や皇族の侍読・師となる者が多くいたことです。

状元が侍読や帝師になる例が多いことを教えてくださりありがとうございます。官界での出世をあまりしないところを見ると、状元になる人は学者肌が多く、官界での出世をあまり目指さない人が多かったのでしょうか……

>官界での出世コースと考えるならば、状元よりも庶吉士に注目した方が良いと思います。
 
私のほかの質問にも詳細なお答えをいただき、ありがとうございます。
たしかに、官界での出世コースとなれば、状元よりも庶吉士のほうが目覚しく昇進する例が多いみたいですね。拙いながら調べてみましたが、清朝の歴代大臣も庶吉士出身が多いようです。
庶吉士で出世した方となると、膨大な数になりますね……。

>なお、この庶吉士の選考基準がよく分かりません。……官僚としての資質・師弟関係・地縁・血縁などが要素としてあるのではないかと思います。

私もよくわかりませんが(汗)、庶吉士選抜のための試験は、一応、論・詔・詩・疏?といったものがあったようです。(パソコン調べです)しかし、「全部受けなくてもいい、得意分野だけ受ければいい」という向きもあったようで、やはり選考基準は、よくわからない、となります(汗)。
fumkumさんの仰るとおり、実力だけ重視というわけではなかったのかもしれません。実力以外にも政治的な要素が絡んでいたと思います。

>ともかくも、翰林院は状元・榜眼・探花だけではなく、庶吉士などを含み(進士合格者以外はいません)、人材のプールの役割を果たしたといえます。

翰林院、気になります。とくに日本語で詳しい資料が見つからないので、また翰林院関連で質問をすることになると思いますが、その時はまたよろしくお願いいたしますm(__)m

ほかの質問にあわせてご回答いただきましたので、fumkumさんのご回答をベストアンサーとさせていただきます(^O^)。

お礼日時:2012/12/24 15:59

科挙の試験の中の殿試一位の「状元」のなると、最初に翰林院修撰に任命されます(例外はあります)。

翰林院は皇帝の秘書的な役割を持ち、詔勅の起草などの仕事を通じ、政治・行政の実際をしていくという機能を併せ持っていました。翰林院を「貯才の地」とも称されました。その後は特定のコースがあるのではなく、状況に応じて中央・地方の官職に任命されます。中央に残った人材の方が軍機大臣や内閣大学士などの宰相職に至る傾向がありますが、地方の官職を転々とする例も見られます。また、「状元」だから宰相職に至るという傾向もみられません。要は人脈・運も必要ということなのでしょう。
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この回答へのお礼

早速のご回答ありがとうございます(^O^)
どの状元も、まずは翰林院修撰からはじまるんですね。
例外があるというのも、また気になります。

>また、「状元」だから宰相職に至るという傾向もみられません。

状元だから必ず宰相になれるというわけでもないんですか…。

>要は人脈・運も必要ということなのでしょう。

今の時代でもそうですね。

改めて、ご回答ありがとうございます。(^O^)
 

お礼日時:2012/12/21 16:49

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