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唐の時代は国際色豊かだったと、よく説明されていますが
どうしてこのような環境になれたのでしょうか?

その後の中国王朝で南宋の凝り固まりや、明の暗さ、
清朝の満洲族による圧政や、現在の反日デモ吹き荒れる中国からは
とても想像できないような気風ですよね?

A 回答 (6件)

中国は昔から国際色豊かですよ。

中国は自国を世界の中心と考えていた。周辺の民族を圧迫していった。しかし、中国に降参した民族に対しては慣用的だった。人種差別せず、高位高官に任官可能だった。唐の時代に反乱を起こしたアンロクザンも目が青かったという。こうして周辺諸国を自国に取り入れていった。宋代に元に侵略されるのは宋代に武官より文官を重んじたためであり、武官の軽視が異民族の侵入を招いた。清王朝の満州族は圧政はしていません。たしかに辮髪は強要したが文化は漢文化そのものを認めたばかりが満州族自体が漢民族化し今では満州族と名乗らないと漢民族と区別がつかいない。任官も漢民族の大臣就任も認めた。そのような政治だったから異民族の王朝でも民衆は支持したのです。現在の反日運動の高まりは、長期にわたり西側諸国から圧迫された民衆がそのはけ口を日本に集中させている。経済成長を背景に自国の強さを周辺諸国に見せつけているように思います。台湾人は同じ漢民族でも日本には好意的です。
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この回答へのお礼

> 中国に降参した民族に対しては慣用的だった。人種差別せず、高位高官に任官可能だった。

これが唐の時代なんですよね。
質問文にも書きましたが、こういう気風はその後退潮していきます。

お礼日時:2013/08/27 14:40

中国はずっと漢民族の国だった仮説


この視点で見れば、唐は国際色になるの当たり前。

なぜなら、唐は北方の遊牧民族の王でもあったから。
前王朝の隋もそうですが、彼らは武川鎮軍閥の出身
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E5%B7%9D% …

北魏では各国境に匈奴・鮮卑系の名族を移り住ませ(鎮民)、その上に鎮将を置き、彼らに当地の軍政を行わせ、防衛を行っていた。
以上引用、この中の有力なものが武川鎮軍閥であり、下記の姻戚関係でわかるように、隋の王朝も唐の王朝も鮮卑の王朝と深い姻戚関係あります。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1% …

李氏自体、自称老子の子孫ですが、漢化した鮮卑族であるという説が有力であり

中華民国の学者姚薇元は唐をテュルク系高車を出自に持つ代郡李氏とする見解を示している。
以上引用
とあるように、そもそも漢族ではないという説が強い。

※ ノルマンコンクエスト以降のイングランドではフランス文化の影響を受けた国際化が・・・という言い方はしませんが、ノルマンコンクエストでフランス人が大挙してイングランドに乗り込みフランス語で生活していたのと似ていなくもありません。


さらには、中国本土では易姓革命により皇帝を名乗っていますが、北方では「北族から天可汗(テングリ・カガン)、すなわち天帝の号を贈られた。」というように、両方に足をおいていた。

この状況で、国際色豊か(≒漢族伝来の文化中心でない)というのは、当然の成り行きかと
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この回答へのお礼

そういえば、鮮卑族拓跋氏の故地である洞窟が
内モンゴルで発見されたのを読んだことがあります。
隋・唐も一種の征服王朝だったわけですが、その後の国政においては
清とは異なり、かなり国際色豊かだったわけで、なぜそのような違いが生まれたのかが
質問でした。

お礼日時:2013/08/27 14:52

まあこの手の解釈は解釈する人次第ではありますが・・・


唐代はそりゃあ南宋と違い中国の歴史の中でも国力がみなぎっていた時代です。
一方モンゴルの圧迫をうけた南宋や海禁の明清、文革で知識層をことごとく抹殺して長く国内に閉じこもってた現中国と比べて華開いているように見えてもそりゃあ当然かと思います。
なんというか、比較にしているのがどれもあまり良い時代ではありませんね。

さて唐の時代の国際色という話ですが、この時代までは東アジアの中では明らかに中国が圧倒的に文化が進んでいます。
そして周りの国々も文化が芽生え、それで先進地域の中国に文化を学びに来た時代です。
その結果東アジア各国の知識人・職人の超エリート層がすべて唐に集まり、それが国際色豊かな文化として華開いたのだと思います。まあまずは時代的なタイミングですよね・

あとはこの手の話で必ず出てくる朝貢です。
これは唐の周りの各国が唐に臣下の礼を取り貢物を献上することで、その何倍もの贈り物がもらえる制度です。
この結果周りの国々はこぞって中国に朝貢し、各地の特産品をささげます。その折にさきほど書いた各国の知識人が唐に学びに来るわけです。この朝貢貿易を唐代では積極的に受け入れていたため、国際色豊かになったのだと思います。
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この回答へのお礼

> なんというか、比較にしているのがどれもあまり良い時代ではありませんね。
とすると、中国は唐以降は1300年くらい良くない時代が続いていることになってしまうという。

漢代以降、三国、五胡十六国、南北朝と分裂が続いていた中国を
隋・唐が統一して、東アジアに安定がもたらされて国力が充実し、
政策的には朝貢と羈縻政策による緩やかな支配、科挙による人材登用で
国際色豊かな環境になった。

これが宋になると西夏や金に圧迫され漢人意識が高揚、
元ではモンゴル帝国は国際的な広がりを持つけど、モンゴル人、色目人、漢人と差別政策、
明は鄭和が航海するがすぐに海禁に戻り、清は満漢偶数官制に文字の獄で厳しい思想統制、
西洋列強に圧迫された近代中国は排外主義へ・・・
と、大きな流れではこんな感じですかね・・・

お礼日時:2013/08/27 15:14

 日本では中国人街のことを「中華街」と呼びますよね、


でも、中国語でそのような街のことは 「唐人街(タンレンジエ)」 というんです。
というほど「唐」 の時代というのは文明開化、世界とのつながりが出来た時代だったのですね。
。。。英語だといずれにしてもチャイナタウンになってしまいますが(笑)


(tips)外人と中国の話をするときに唐のことを「とう」と言っても通じない、「タン」 ダイナスティなんです。



私が思うに、国とか文化とか、産業とかにも 「我が世の春」 と呼べるような 「開花」 の時代があるのです。
例えば日本では 「生糸産業」 とかが我が世の春の時代があったでしょう。
そして「造船業」 の時代もありましたね。バブルの時代は証券、不動産。
日本の国としての春は「高度成長時代」なんでしょうか。

という訳で、中国ははるか2000年前「唐」の時代に文明的にも「国」としても開花して我が世の春だった。
ということなんだと思います。
高度な文化を持ちながら交通の便もちょうど通じた時代ですね。

いま?
やがて春が終わり冬の時代も来ると。
でも、終わらない冬はないのです。
なんて感じます。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
国の盛衰を人の一生や四季に例えるのはよく見かける表現ですね。
たしかにそのようなものがあると感じる時があります。
イブン・ハルドゥーンも「歴史序説」で、田舎者の集団が都市を征服するが、
質実剛健な気風が華美贅沢に溺れ、やがて衰退すると言ってます。

さて、中国は唐の時代は国力最高で国際性も豊かだったわけですが、
これから2050年にはアメリカを抜いて覇権国になるかもと言われ
また中国に春が訪れそうな気配です。その時、中国の環境は
どのようになるのかを過去からの延長で考えてみたい、
唐代の阿倍仲麻呂のように活躍する日本人は果たして出るのかどうか
というのが質問の動機でした。

お礼日時:2013/08/27 15:27

多少の差はあるかもしれませんが、中国は今も超国際色豊かです。



中華の国が周囲の蛮族をリードするという姿勢は今も変わりません。
時代がすすむにつ、中華が拡大していきましたが、唐の時代は、中華の部分が小さく、国の面積が大きければ中華でない部が相対的に大きかったことで、結果的に国際色豊かになったのです。
それに唐自体が中華の国ではなく夷の国だったそうですから。当然と言えば当然です。
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この回答へのお礼

唐の時代は、それまでの中華・夷狄、農耕民族と周辺の遊牧民という枠を越えて
ペルシャ人やインド人がわんさか来て、西方からいろんな宗教も流入して、
日本人の阿倍仲麻呂も政界で活躍、空海は秘伝を伝えられ、
李白もソグド人だったかもしれないみたいな、かつてない広がりが生まれるんですよね。

モンゴル帝国では欧州・ロシア・イスラムに直接接触してさらに広がりがありますが、
中国は元で圧迫されて、その後も明清、近代中国と続いて国際色豊かとはならないですし。

お礼日時:2013/08/27 15:42

「中華」の意識が後世ほど強烈ではなかったからだと思います。



そもそも「中華」という言葉は「世界の中心に位置する文明国家」という意味です。
「中華」にせよ「GreatBritain」にせよ、自国の名前を誇らしげに表記するのはどこの国でも同じことですからこれだけならそれほど問題になるものでもありません。
ちなみに歴代のアジア諸国家諸王朝も、多くの国が「大」を付けていますね。「大唐」「大明」「大韓民国」「大日本帝国」etc。これらはみな自国の誇称・美称です。

また、中国は清代になるまで、明確な「国境」の概念はありませんでした。
中華民族(征服国家民族)の住む地
 >正朔(暦と元号)を受け入れ「王化」に浴する民族の居住地
   >漢字と儒教経典くらいは受け入れる民族の地
     >文明も受けれない民族の地
ぐらいで、国家としての境界「線」をはっきり策定したのは康熙帝の時代のネルチンスク条約が初めてくらいなものです。
(長城はあくまでも単なる防護壁であって、境界とは言えません)

異民族に対する明確な危機意識が誕生するのが、南宋です。
南宋は、初めて中華の国土を異民族に征服された時代と言ってもいいでしょう。
北宋の時代から、「異民族に燕雲十六州を奪われた」という意識は、漢民族の中に渦巻いていました。
しかし今回はそれどころか漢土の半分を「漢の王化を受けない夷狄」に奪われた。そこで初めて、漢民族の知識人は異民族に対する対抗意識というものを持ち始めます。
朱子学が「華夷の序」を強調しだすのもこの頃です。

話(&時代)を唐以前に戻しましょう。
・漢……匈奴は戦争相手でしたが、同時に交易・外交の相手でもありました。王昭君の物語も後世の潤色がかなり多いようです。
・魏晋南北朝……北朝諸民族は、ほとんどの王朝が漢化政策を実施していて、明確な異民族征服とは言えません。事実異民族支配に対する意識も宋ほど激烈ではありません。

そして唐
……帝室の李氏は、自らを老子(李耳)の子孫と称していますが、実際は鮮卑の貴族だったようです。楊貴妃が寿王の妃から玄宗の妃になったのも、騎馬民族にありがちなレビレート婚とみる研究者もいます。
そのような経緯からか、歴代王朝にはまれなほど、唐王朝は民族融和策をとっています。
辺境政策も、羈縻という直接支配に近い形をとっていますが、現地の民族をその地の長官に置くなど、抑圧的な無理はあまりしていません。

結論として、李氏の出自にまつわる「民族」問題が、異民族をさほど見下さない風潮となってあの開放的な雰囲気になったのではないかと思います。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
朱子学と、西洋発の「国民国家」「民族主義」が合わさって
今のような漢族中心の中華意識になったと理解しました。

お礼日時:2013/08/31 19:48

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