プロが教えるわが家の防犯対策術!

 第1次世界大戦のドイツに勝機はあったのでしょうか。

A 回答 (13件中1~10件)

No5、No8の回答に更なる追加です。


シュリーフェン計画を当初の予定通りに実行した場合、ドイツ軍は史実のフランス、イギリス、ベルギーに加えてオランダとも戦わなければなりません。マーストリヒト突角部にドイツ軍が侵入すれば、自動的にオランダは敵になると考えなければなりません。その上でオランダ軍を放置すれば進撃する右翼軍の側背を突かれる事になりますので、これを殲滅するか出て来られないように相当の兵力を張り付けて封鎖しなければならない事は当然です。
私もリデルハートの間接アプローチ理論を知らぬわけではないですが、以上の事を勘案すると、結局無理なものは無理と言う結論に落ち着くより無いでしょう。
補給の面に関しては当のシュリーフェン自身があまり真剣に改善しようとしておらず、それが思考の限界であった以上実行可能な対策がそれ以上であるとは考えられません。改善しようと知恵を絞った結果がモルトケ案であるとも言えます。
後知恵で可能であると判断できる事と、当時実際に可能であった事は決してイコールではありません。更に頭で考えて理論的に可能な事と、現実に実行可能な事もまた必ずしもイコールとは限りません。
何れにしろシュリーフェン計画は精緻に過ぎ、上手くいかなかった場合のフォローが準備されていない点で戦争戦略としては邪道である事は言えるでしょう。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

 回答いただき、ありがとうございました。
 お礼が遅くなり、申し訳ありません。

 こんなに詳しくかつ丁寧に回答していただき、感動さえしています。
 大変ありがとうございました。

お礼日時:2007/06/04 20:34

No4の補足です。



世界地図を見てもらえればわかると思いますが、ドイツで満足に取れる天然資源は鉄鋼と石炭しかありません。
他は輸入なのです。大陸国だからとて自給はできないんです。

一方、協商側などは制海権を保持していますから、潜水艦の襲撃で船舶が沈められようとも外国及び植民地との貿易は保たれる。
船は沈まなくとも完璧に遮断されている同盟側とは比較になりません。

だからドイツがイギリスに勝つには、
イギリス海軍の敗北=大西洋・ノルウェー海の制海権の奪取=ドイツの海上貿易路の復活
以外無いのです。
言い換えるなら、イギリス海軍の敗北=イギリス敗北、なのです。
それが果たせないからドイツに勝機は無いのです。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

 重ね重ね、丁寧な回答をいただき、大変よくわかりました。
 ありがとうございました。

お礼日時:2007/06/08 22:28

追加のご質問がありましたのでお答えします。


戦争では働き盛りの男子を兵員として召集しますから全ての分野に人手不足が生じます。
特に農業は労働力を必要としますが、女子のみで対応不可能というわけでもないので生産量が落ちても継続されるわけです。

結果として食料不足がおこります。  農作業は未熟練でも代行可能なので戦時捕虜を農家に配属して農作業に従事させる事はどの国も行っていました。
また食料の輸送は軍事輸送の為民間の需要は後回しとなり停滞を余儀なくされ食料の不足感を助長します。

燃料については当時の海軍はまだ石炭を使用していましたから、石炭の豊富なドイツでは海軍については不足するという事はありませんでした。 陸軍は鉄道輸送は石炭を使用しますが一部で実用化され始めた自動車はガソリンを使用する為、ドイツは石炭液化技術を開発してこれに当てていました。  当然民需への割り当ては窮屈となります。

航空機の活用は第1次大戦から大規模に発達しましたがこれの燃料はガソリンなので優先的に割り当てられましたが、訓練、出撃に制約を感じていたと思います。  これが航空機戦でドイツの数的劣勢の一因となったかも。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

 大変よくわかりました。ありがとうございました。

お礼日時:2007/06/08 22:29

NO.6です。

1914年の西部戦線の回答について、さらなる追加を・・・

私はシュリーフェン計画の原案通りに実施すれば、勝利の可能性があったと主張している訳ではありません。その様な事は書いていません。
シュリーフェンの参謀総長の離任は1905年であり、大戦が始まるまでの国際政治、経済、技術、兵力の増減等の諸条件の変化により、計画が改良されるのは当然の事です。
そうした意味において、計画を研究し練り上げる過程において、モルトケが右翼軍の旋回を、原案よりも小さいものにした事は当然だと判断しています。
シュリーフェン原案自体ならドイツ軍内でジギスムント・フォン・シュリティンクやフリードリヒ・フォン・ベルンハルディが反対したように、私も反対します。また、ゲルハルト・リッターがその著書「シュリーフェン・プラン」の中で、その計画を「柔軟性に欠け、あまりに危険すぎる」と論じたのにも賛成しますし、逆に作戦の成功の見込みは非常に低くなったでしょう。
ただ、私が過去2回行った回答で主張しているのは、よく読めばわかる通り、主にその兵力配分と運用に問題があったと主張しているのです。
モルトケが旋回を小さくしても作戦の根幹は変わりません。左翼軍に敵を引き付け国内に引きずり込み、その間に主力となる右翼軍が回り込み包囲殲滅する計画です。その為には右翼軍にもっと兵力が必要であり、その兵力を削りすぎた事と、左翼軍が作戦に反して攻勢に出て、作戦の意図を崩したと言っており、そこが改悪されたと主張しているのです。
この事は多くの研究家が指摘している事であり、戦後に作戦を分析した英国軍でも言っている事です。
さらには、モルトケが右翼軍に送る援軍を左翼軍に送ったり、左翼軍の指揮官の暴走を許し攻勢を許すなど、戦争に確固たる信念がなく、前線部隊の指揮官に最終的な指導を行えない等、その能力に問題があると言っているのです。これは多くの研究家も言っている事です。

確かに理屈と実戦は違います。後からなら幾らでも言う事ができるでしょう。しかし、シュリーフェン計画が実施されるまでに行われた64回にも及ぶ研究・改良において、左翼軍への兵力増加や、右翼軍の兵力削減については懸念が表されたり、作戦がはじまってからの右翼用増援部隊の左翼軍への転用には反対した人もいるのです。ましてや、左翼軍指揮官の暴走を許すのは統帥の問題でしょう。これらの事は決して変えられない事ではなかったのです。
リデル・ハートはゲルハルト・リッター著書の「シュリーフェン計画」の英語版に序言を寄せていますが、そこには「西部戦線の失敗はモルトケがシュリーフェンの計画を間違って実施した事にある」と記述しています。私も全く同感です。
防衛省戦史部主任研究官の石津朋之氏は次のように述べています。
「いかなる欠陥を抱えていた作戦にせよ、実際に遂行されたドイツの戦争計画は西部戦線では、もう少しで成功するところまで行き、東部戦線でドイツはロシア軍に圧倒的な勝利を収めた」
欠陥があっても、もう少しのところまでいったのです。その欠陥の幾つかを取り除く事ができたなら、正に勝利できる可能性はあったでしょう。

そもそも最初から勝利を確実に保証する作戦計画などありません。勝利したフランスにしても、その「第17号作戦」は失敗していますし、ロシアの「第19号計画」も同様です。理論と実践は違うものでありそれは当然です。その論で言えば、現地調達の補給はできないと判断していた参謀本部鉄道局長のグレーナーの考えはいい意味で間違った訳です。多くの食料を敵地で確保しているのですから。また、モルトケも東部戦線でタンネンベルクのような勝利を得るとは予想もしていなかったのです。これもいい意味で判断が間違っていた訳です。そして「補給戦」の著者のクレヴェルトの主張も一つの理論であり、彼が言う通りにならない可能性も当然ある訳です。

そもそもそうした事は当然すぎる理屈です。だから私もどんな回答で絶対勝てるなどとは書きません。だから「・・・かもしれないのです」「可能性がある」と文を結んでいるのです。戦争に絶対はありませんから。しかし、だからこそドイツ軍にも勝利の可能性があったと言えるのです。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

 回答いただき、ありがとうございました。
 お礼が遅くなり、申し訳ありません。

 こんなに詳しくかつ丁寧に回答していただき、感動さえしています。
 大変ありがとうございました。

 

お礼日時:2007/06/04 20:34

NO.6です。

1914年の西部戦線の回答について追加を・・・

シュリーフェン計画に当時の技術で無理があった事は事実であり、それを改良するのは当然の事です。しかし、モルトケのした事は改良ではなく改悪でした。

マルヌ川にまで到達したドイツ右翼軍の兵力が弱体化し、兵士達が疲労困憊していた事は事実です。そしてマルヌ会戦で敗れた直接の原因は、右翼軍を構成するドイツ第一軍と第二軍の間隙を突かれたからです。
こうした事は兵力不足が全ての原因でした。
絶え間ない戦闘による損耗と占領地の拡大・補給路の守備の必要は、兵力を減少させます。そして兵力の減少は残った兵士達に、さらなる戦闘と行動の増加を求める事となります。
モルトケも右翼軍の兵士達の疲労は承知しており、マルヌ会戦が始まる前に、右翼全軍に休息をとらせようとしますが、前線の状況がそれを許さず、第三軍のみが休息をとれただけでした。
右翼軍に兵力が足りなかったのは、モルトケが左翼軍を強化した為でした。最初のシュリーフェン計画よりも左翼軍を強化し、さらには左翼軍が危機にないにも関わらず、右翼軍へ配属予定の増援部隊も左翼軍に送ったのです。
最初のシュリーフェン計画では、右翼軍は左翼軍の八倍の兵力を持つ筈でした、しかし実際にはモルトケは三倍の兵力しか持たせなかったのです。この結果、右翼軍は兵力が足りなくなりました。
必ずしも八倍の兵力が必要とは言えませんが、削り過ぎたのは明らかです。もし、右翼軍にもっと兵力があれば、交代で休息がとれ、戦線に間隙を作らなくてもすんだかもしれないのです。

補給にしても同じです。「補給戦」の著者クレヴェルトはモルトケについて次のように記しています。
「彼はシュリーフェン計画に多くの修正を施した。もっぱら兵站的視点から言えば、これらの修正のあるものは有用だったが、ほとんどは害をもたらした」
鉄道についても占領地の鉄道網は敵に破壊されているであろうと予測しながらも、それを補修する部隊の人員はわずか2万6千人でしかなく、結局は手不足になり民間会社に支援を要請します。しかも、それはマルヌ会戦が終わった後という対応の遅さでした。
この他にも補給について事前に準備・改善できた筈であろう事は数多くあるのです。もし、そうした事が成されていたら補給も状況が変わったかもしれません。

そして、ドイツ左翼軍が当初の予定通りフランス軍主力を引き付けていれば、戦況は大きく変わったかもしれないのです。この事について「戦略論」の著者リデル・ハートは次のように記しています。
「もしもフランス軍の左翼がローレンへさらに深く推進してゆく事が許されていたとすれば、このようなフランス軍諸師団の左翼から右翼への転用は実現不可能であったであろう」
フランス軍が転用できたのはドイツ左翼軍の攻勢を自国の要塞地帯で釘付けにする事ができたからです。もし、ドイツ国内に引き込まれ、ドイツ軍が眼前にいるとなれば、速やかな転用など難しかったでしょう。

つまるところ、ドイツ右翼軍にもっと兵力があり、補給も事前の準備がよくなされ、そしてドイツ左翼軍が最初の計画通りに動けば、ドイツにも勝利の機会はあったと思います。そして、これらの事は、当時、可能であった事ばかりなのです。
    • good
    • 0

No5です。

追加で回答させて頂きます。
小モルトケが指揮官として無能であったかどうかはともかく、当時の技術的限界を無視する要素がシュリーフェン計画にあった事は否定できないでしょう。
確かにマーチン・ファン・クレフェルトは「一九一四年の八、九月の両月では、ドイツ軍が物量不足の為に戦闘に負けた例はどこにもなかった。」と著書「補給線」に記していますが、「しかしながら戦闘がドイツ軍に有利に運んだとしてもその進撃力は尽きたであろうと信じる理由はいっぱいある。そのおもな要因は、部隊の前進に歩調を合わせることができない兵站駅、かいば不足、それに疲労困憊のためだったであろう。」とも述べています。
シュリーフェンは右翼軍に、戦闘した日も含めて一日二十五キロメートルを越える進撃速度を要求しており、これは当時の戦闘部隊が全く車両化されていない状態から考えると「無理」としか考えられません。モルトケ案では進撃距離がかなり短縮されましたが、それでもマルヌ会戦時の右翼軍は攻勢限界に達していたのですから、シュリーフェン案は達成不可能だったと判断してよいでしょう。鉄道は加速度的に消費量を増した弾薬を輸送するだけで手一杯なので利用出来ず、モルトケが整備したトラック部隊も同様です。早晩右翼軍の進撃は停止せざるを得ない状況に陥ったであろう状況を考慮すると、どっちにしろマルヌ会戦に近い状況の戦闘が行われたと思います。仮に左翼軍の攻勢を抑えフランス軍主力を誘引出来たとしても、右翼軍の進撃が停滞すればフランス軍には兵力を抽出して反撃するチャンスが無いとは言えません。
こうなると何れ戦線は史実のように膠着状態になると考えるのが常識的ですし、膠着戦になった後アメリカが参戦せずに潰し合いの消耗戦をやったらどこまで戦えるか、と言う方向性の思考になると思いますが、そうなった場合海上封鎖の効果も考えますと当初兵力や工業生産力で優位にあったドイツでも勝てるかどうかは怪しいでしょう。決着せぬまま両者息切れと言う事態が最も想像し易いです。他の重要な要素としてロシア革命が起こるかどうかによっても状況が大きく変わるでしょうし、簡単には判断できませんが、明確にドイツが勝利を得る状況は想像し難いです。
    • good
    • 0

ナポレオンのフランス・一次大戦のドイツ・二次大戦のドイツには、英国本土までは攻め込めなかった・海を封鎖されていた・ロシアとも戦い勝てなかったと言う共通点があります。


その中で一次のドイツの最大版図が最も小さく、その分だけ「大負け」は防げていますが、相手に勝ちきれない二正面作戦になった時点では勝ち目は無かったですね。
ただ、一次大戦は双方の意図とは別に拡大していったものなので、途中の外交次第では、日露戦争の様に優勢なうちの講和と言う可能性はあったでしょう(当時まではとことん決着を着ける戦争自体は珍しかった)。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

 回答いただき、ありがとうございました。
 お礼が遅くなり、申し訳ありません。

 ドイツはフランスをたたいてから、ロシアをくじいて、講和を考えていたのでしょうか。

お礼日時:2007/06/04 20:27

アメリカの参戦前であれば勝機はあったでしょう。


短期決戦で普仏戦争のようにフランスを降伏させるという事であれば。

当時のドイツの国力は、そう連合国に劣ってはいませんでした。1917年のアメリカ参戦前の時点まで、工業生産高では連合国の水準に並ぶか時には上回っていました。そもそも開戦前の鉄鋼生産高では、ドイツの生産量はイギリスの2倍もあったほどです。しかし、それもアメリカの参戦で国力の差は圧倒的に開く事になったのです。
人口としては、イギリス、フランスを合わせて約8千数百万人に対し、ドイツは6800万でしたが、開戦前までに軍事訓練を受けた人数では逆にドイツの方が多い状況であり、軍隊の質という点では、フランス軍より優秀でした。
ロシアは人口1億五千万にも及ぶ大国でしたが、あまりにも国内に問題を抱え込んでいました。無理な工業化を推し進めた結果、経済が停滞し国民の不満は高まり、反乱が多発し軍が鎮圧に出動してばかりいました。その軍隊の錬度も装備も決して良いとは言えないものでした。
こうした要因があるので、開戦当初においては、一方的にドイツが国力的に不利だったとは思いません。

1914年の開戦当初の機動戦が行われていた頃なら、作戦次第では勝利もありえたと思います。モルトケの作戦計画・指揮の拙さが勝利を逃したと思います。
モルトケは「シュリーフェン計画」をあまりにも改悪しすぎました。もともと、この計画では、ドイツ左翼軍に敵の主力を引き付け、その間に右翼軍が大胆な機動を行い、敵を包囲殲滅する作戦でした。その為、右翼への兵力の集中が必要だった訳ですが、モルトケは当初の計画よりも兵力を削り他の地点に兵力を回します。
しかも、左翼軍の司令官の攻勢発起要求を飲んでしまいます。その結果、左翼軍は攻撃してきたフランス軍を叩き要塞地帯まで退却させてしまいます。フランス軍は要塞地帯を固守するとともに、軍の再編成を行い、危急を告げる事になった味方を救援するため、有力な部隊をドイツ右翼軍に向かわせるのです。そして、このフランス軍部隊が正にドイツ右翼軍の攻撃を阻止したのです。
本来なら左翼軍は攻勢などおこさず、後退してでもフランス軍主力を引き付ける筈でした。もし、当初の計画通り、フランス軍主力を引き付けていたら状況は変わったかもしれません。マルヌ会戦などおこらず、計画通り、フランス軍を包囲殲滅できたかもしれません。
他にも誤謬としか思えないような事をモルトケは幾つもしています。
モルトケはシュリーフェンの意図と計画を崩し、中途半端なものにしてしまったのです。

シュリーフェン計画を疑問視する人もいます。「補給戦」の著者であるM・クレヴェルトは兵站面から見て、実効不可能だったと語っています。しかし、その著書の中で「兵站面から見て実効できたかどうかの疑問について明確な答えを与えようとしても情報不足に悩まざるをえない。・・・多くの重要な要因については正確な資料がない」とも語っています。つまるところ彼の判断は、全ての正確な情報に基づくものではなく限られた情報から引き出されたもので、私としては決定的なものとは判断していません。またクレヴェルトはこうも語っています。「モルトケはこの点に改善に力を尽くした。だが、結局のところ、それは注意深い準備に基づいたものではなく、急いで即席で行った改善であった」
補給にしてもモルトケがもっと注意深く準備していれば、戦況はもっと楽になったと思われます。

戦争では将の器量が勝敗を決する事が少なくありません。東部戦線で指揮官を代えてタンネンベルクでドイツが完全勝利したのが、いい例です。モルトケでない人物が最初から戦争を計画・指揮していたら状況は変わったかもしれません。

また、ドイツが連合国の植民地の現地人を煽動して、大きな反乱などを起こさせる事ができたなら、もっと状況は変わったでしょう。植民地の物資と兵力は連合国に大きな力を与えたのです。この点についてドイツはあまりに動きが少なすぎました。

アメリカが参戦するまで、ドイツは東部・西部戦線の両方において敵国内に戦線を維持していました。イタリア戦線も有利に展開していました。ドイツのUボートはイギリスに大きな打撃を与え、イギリス海軍内に敗戦を思い浮かべる人間が出たほどです。
それを考慮すれば、決して勝機が無かったとは思いません。
特に開戦当初の1914年には充分にあったと思います。
    • good
    • 0

マーチン・クレフェルト著「補給戦」に依りますと、シュリーフェン計画の変更は兵站上の観点では適正な判断だったようです。

寧ろシュリーフェンの計画案は当時のドイツ軍の兵站能力を超えた大風呂敷で初めから実行不可能だったようで、小モルトケの案は改良案と言っても良いようです。
マルヌ会戦に史実以上の兵力を投入する事は現実の輸送力からして無理であり、マルヌ会戦で敗れ、フランス軍の包囲分断に失敗した時点で当初の戦争戦略が破綻した以上、国力的に見てもこの時点で戦争自体が失敗したと言えるのではないでしょうか。その後の事は惰性と言っても差し支えないでしょう。
    • good
    • 0

北海をイギリス海軍に海上封鎖され続けている以上、ドイツに勝機はありません。


封鎖が何年も続けば、ドイツはそれだけで滅びます。

WW2においてパリ陥落であっても連合国側が講和しようとも思わなかったのも、封鎖し続ければ「いずれ勝てる」からです。
よって西部戦線の状況は戦争の勝敗にはあまり関係ありません。
まずイギリス海軍をどうにかしなければならなかったのですが、戦力が違いすぎて、どうしようもなかったのでしょうね。
出撃しても負けちゃうから海軍主力は港にヒッキーだったとか、仕方ないから一部艦艇が通商破壊という「単なる嫌がらせ行為」しかできなかったことを見ればわかるかと。

又、海上封鎖はイギリス海軍だけでも十分なため、「アメリカ参戦で勝敗が決した」ということもありません。
あと、対ロシア戦がなくとも海軍力が殆ど増えない以上やっぱり負けます。

つまり、「どこでどうやってもドイツ(同盟側)敗北は免れない」でしょう。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

 回答いただき、ありがとうございました。
 お礼が遅くなり、申し訳ありません。

 たしかに第2次世界大戦のことでパリが陥落しても連合軍が戦争をやまなかったことを考えると、なるほどと思います。
 
 ありがとうございました。

お礼日時:2007/06/04 20:24

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!