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そもそも集合について不案内ですので おしえていただければさいわいです。

落合仁司がその著《〈神〉の証明――なぜ宗教は成り立つか》(1998現代新書#1392)で いわゆる神の受肉は 数学的に説けると言っています。

わたくしの理解では。――無限集合にも 全体と部分とがあり また全体とベキ集合とがある。部分集合もむろん無限だが 全体集合に対して 大きさで差異化される(つまり より小さい)。ベキ集合は 全体集合より大きい しかも 両者は――そして上の部分集合も含めて三者は―― 無限としての本質において 同一である。
子なる神は 神なる無限集合の部分集合であり それゆえ――というのは 父なる神との差異化があることによって―― 人間イエスと成ったということは 合理的であり 受け容れられると言います。

よく把握できていないかも知れないのですが そうは言っても結局 部分だろうが差異化されようが 無限は無限ですから その無限が有限〔なる人間存在〕となったとは どういうことかと疑問は尽きないのですが。はて どうしたものでしょうか。 

A 回答 (2件)

カントルの(無限)集合論の画期的な成果として、「無限にも階層がある」という認識に到達したことが挙げられます。


1つ、2つ、3つ、...と数えていける無限(可算無限)と、それとは1対1に対応しない要素を持った無限(非可算無限)があること。また、ある集合の冪集合を考えると、冪集合の濃度はつねにもとの集合の濃度(有限集合の要素の個数を無限集合に拡張して考えた場合の「要素の個数」に相当する概念)よりも大きい、従って、無限に大きな濃度の集合が存在すること等、まさに驚くべき認識を得たのです。

冪集合は、ある集合の(可能性としての)部分集合すべての集まりですが、個々の要素は必ずしも(有限記述の観点からは)個別に取り出せるとは限らないので、具体的にイメージするのは凡人の能力では難しいのではないでしょうか。あくまでも非常に抽象的な(数理)論理の中での話しだと思います。カントルが精神を病んで神学に深入りした思想の深淵は容易には見極められないのでしょう。(それは、歴史的にも論理的にも、カントル以後の集合論がたどった道程に集約さています。)

そのような概念を 日常言語で記述された神学や哲学の一部として取り込むには、通常の表現では無理があります。それが、さも日常言語の記述形態内で可能であるかの様な理屈を述べる「哲学者」は、ほとんど信用できませんね。「高等駄弁」と断定したことには自信があります。

近頃「似非科学」あるいは「似非哲学」が多く見受けられるのは、現代の「哲学者」の問題意識の薄弱さ、あるいは欠如にあるというのが、当たらずとも遠からずの情況認識ではないかと....
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この回答へのお礼

ありがとうございました。重ねて感謝もうしあげます。

勉強になりました。個数として取り出せるような要素ではないので 大きさではなく 濃度というのですね。これは 分かりました。

でも結局 無限が有限になったということの証明が あたかも個数として取り出せるという前提から出発しているようですので この前提の証明が 必要でしょうし その証明は はじめの問題と同じような内容を課題としているように思われます。それが証明されて初めて ベキ集合の話に移るようですし・・・。

落合氏は その後 必然的無限なる神が 可能的無限という一つの世界における人間の可能性としての姿において 受肉したと説明しようとしていました。でも やはり 無限は無限であり 有限は有限であって 互いのあいだに 接点はあるかも知れないけれど そして前者が後者を含むことはあるだろうけれど 前者がそっくりそのまま後者になるといういう事態は わからないように思います。

これで一つのステップが踏めたかと思います。ありがとうございました。(集合は 必須科目なんだそうですね。)

お礼日時:2007/06/02 21:50

「いわゆる神の受肉は 数学的に説ける」などという言説は高等駄弁以外の何者でもないような...


大体、そのような関連性は、比喩として把握したときにのみ解説可能なものなので、主観的に、そういうことだ、と言われれば、別に「ああ、そうですか、そんな解釈も可能ですか」という程度のことでしょう。実証も出来なければ、反証も出来ない命題をこねくりまわしているだけなので、ポパー流に言えば「似非科学」です。
こんな高等駄弁に真剣に付き合う必要ないのでは?それほどヒマですか?

カントルが集合論を始めて、いろいろな苦境に遭遇し、最終的な心の拠所として神学(無限の基礎付けとしての神を論ずる)に進んで行ったのとは、時代も、動機も、境遇も、まったく異なります。彼の場合は壮絶な当時の学界からの批判と嫌がらせに対抗して生きていくための糧として神学に至らざるをえなかったという悲しい事実があります。だからこそ、彼の数学的業績は偉大であり画期的であったのです。

それに比べたら、神学テーマと集合論を絡めた駄弁を書き連ねている「哲学者」は、ここの質問に見られる様に哲学を学ぶ人を迷わせるばかりで、どのような新しい価値を提示しようとしているのか大きな疑問ですね。

【結論】
現在においては、無限集合論と三位一体説との間に何らかの真摯な関係を認めることは困難でしょう。
集合の「大きい」、「小さい」は集合の「大きさ」をきちんと規定しないと何の意味もありません。「ベキ集合は全体集合より大きい」というのはあくまでも 集合の「濃度」という視点からです。
つまらない高等駄弁の言説にいちいち悩む必要はないのでは?健全な哲学生活をおくるうえでも大切なポイントかと思います。
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この回答へのお礼

回答をありがとうございます。

少し後悔しています。解説を聞いても分からなかったらどうしようと恐れていたことが起きてしまいました。

《濃度》という視点から《より大きい》と言われても 残念ながら まるっきり分かりません。そもそも《無限》なら 濃度も大小も超える超えないも ないようにしか考えられません。

こういう疑問はどうでしょう?集合と言っても 無限集合のばあいには その《元》というのでしょうか この元が 一個二個と数えて言って ...,n, n+1,...のごとく摘出できたりできるのでしょうか。あるいは別の集合とそれらが対応(《単射・全射》とか)するというのもです。 そもそも 部分に分けられるというのも納得がいきません。

でも ありがとうございました。出なおします。しばらく置いてから締めます。 

お礼日時:2007/06/02 17:57

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