プロが教えるわが家の防犯対策術!

 神様が、兄カインの貢物は受け取らず、弟の貢物は受け取ったので、カインがアベルに嫉妬して殺してしまったと言いますが、なぜ神様はそんなことをしたのでしょうか?

 そんなえこひいきをするから悲劇が生まれたとしか思えないのですが・・。

A 回答 (8件)

カインとアベル、二人の生業がミソです。


カインは農業、アベルは遊牧でした。
つまり、アベル=ユダヤ民族、カイン=他民族なのです。

旧約聖書は、ユダヤ民族のためのものですから、当然神に愛されるのは、ユダヤ民族、ということになります。
現代の感覚で見ると、えこひいきに見えますが、昔の宗教というものはそういうものです。

ことにユダヤ民族は、戦争によって自国を失った寄る辺のない民でしたから、民族としての統一感を守るためにも、
強く男性的で、しかも自分たちユダヤ民族のみを愛してくれる神が必要だったわけです。
    • good
    • 22
この回答へのお礼

ありがとうございます.

お礼日時:2007/07/12 16:37

アダムとイブも素直に謝ればよかったものを


あんまりお腹が減っていたのでつい。。。
御免なさい。
って。
罪は罪だけれども。

カインも素直に言えばよかったものを
アベルのだけじゃなく
僕のも召し上がってみてください。
って。
素直な自然の発露の言葉には心に響くものがある。

それでも受け入れられなかったら
その時は
自分で自分を
その心ごと抱きしめてやれ。

誰にも知られなくても
神にさえ知られなくても
誰も見ていなくても
神でさえ見ていなくても
私は私を知っている。
私は私のことを見ている。
自分の心はごまかさない。
自分の心はごまかせない。
それが道。

アベルはアベル
カインはカインである。
二人が逆に扱われたらどうなっていただろう。。。
血筋と育ちで同じことが起こったかもしれないし
アベルは踏み止まるかも知れない。
誰にも解らない。
悲劇と言えば悲劇。
運命と言えば運命。

そのような中にあって自らはどのように生きようとするのであろうか。
ユダヤの民も。
    • good
    • 18
この回答へのお礼

ありがとうございます.

お礼日時:2007/07/12 16:33

ユダヤ教は神からの背きの教本みたいだ。


神の姿に似せてアダムとイブをつくった。
アダムとイブ。
神の後を継ぐものであった。
その途中の段階で蛇の力に負けて邪な道に知恵を使ってしまい追放される。
カインとアベル。
如何に切り離されたかに感じても神を見失ってはならなかった。
その境目で人は天秤にかけられる。
カインも一子相伝として全てを受け継ぐものであったと考えられる。
悲劇と言えば悲劇
運命と言えば運命
能力の限界と言えば能力の限界
自己の選んだ道と言えば自己の選んだ道
それを見抜けなかった神が悪いと言えば神が悪い
神のせいにしていると言えば神のせいにしている。
カインはカインであった。
    • good
    • 11
この回答へのお礼

ありがとうございます.

お礼日時:2007/07/12 16:34

えこひいきではなく、兄カインの心の持ち方です


アベルとカインの貢物に対する心の違い
カインは土の実りを主のもとに献げ物として持って来た。
アベルは羊の群れの中から「肥えた初子」を持って来た。
(つまりアベルは選んだと言う事)

もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか
どうでしょうか?私たちもありますよね
あいつのために私は・・・・
あいつさえがやっていないなら・・・

カインが正しいと思うなら別に殺す必要もない

ただカインは主に言った。「わたしの罪は重すぎて負いきれません。 」ここがポイントでその後
主はカインに言われた。「いや、それゆえカインを殺す者は、だれであれ七倍の復讐を受けるであろう。」主はカインに出会う者がだれも彼を撃つことのないように、カインにしるしを付けられた。
    • good
    • 12
この回答へのお礼

ありがとうございます.

お礼日時:2007/07/12 16:34

2つの説があるようです。



「時を経て、カインは土の実りを主のもとに捧げ物として持ってきた」
「アベルは羊の群れの中から肥えた初子を持ってきた」
(新共同訳)とあります。
これにより、肥えた初子と言えば最上の捧げ物だから、単に「土の実り」を捧げたカインとは違うことが判ります。
そして、「羊の群れの中から肥えた初子」の部分のヘブライ語を直訳すると、「彼の羊の初子を、そして肥えたものを」となります。
ここでの「そして」を「しかも」の意味にとり、「彼の羊の初子を、しかも肥えたものを」と理解すれば、
神がアベルに眼を留めたのは、最上の捧げ物を捧げたからだ、と説明することが出来ます。

「アベル」という名前の為。ヘブライ語ではアベルは「ヘベル」であり、
「息、はかなさ、無価値」と言う意味の言葉です。
古代では名前がその人の本質を示すとされ、アベルは「無価値なもの、弱くはかないもの」と見られていたのであり、
神はそのような小さい者に目を留めたと言う解釈です。

ご参考までに。
    • good
    • 8
この回答へのお礼

ありがとうございます.

お礼日時:2007/07/12 16:35

私もかつて「どうしてだろう」と調べたのですが、これ という決定的なものは見つけることはできませんでした。




ですので推測の域を出ないのですが。

アベルは育てた作物の初物を神に捧げ、アベルは育てた羊の初子を神に捧げた。



・イエスは神の初子とされ、殺された。

・アブラハムは神殿において神に対する信仰を示すために、自分の初子であるイサクを殺し、神に捧げようとした。

・創世記ができたのは、バビロン捕囚の頃で、その地には生贄の儀式があり、神の再生を願い神を殺すという風習があった。



神話伝承辞典より
【ほとんどのアジアの神々は、サンスクリット語でヒラニヤガルバという子宮の初子を意味する添え名があった。

どの聖職者も自分の神が創造女神の初子であるように望んだ。
最年長の子は、他の子に対して生まれながらの権威を振舞えたからである。

初子になれるのはただ一人の神だけだったから、学者たちは添え名を用い、それぞれの神が太母神が処女のときに生まれた初子の一人であると主張した。

典型的な例は釈迦牟尼で、多くの化身となって生まれたが、その都度、女神の現世の姿である神殿乙女すなわちdevadasiの初子として生まれた。
初子は神の子であるが、釈迦牟尼の場合は「万物の神」ガネーシャの息子であった。】



みたいにインドあたりにこのような概念があった。
これが後に習合されてイエスは神の初子で、再生のために神の初子を殺す必要があった ってなったようなんですね。



【最古の時代から、神のもうけた初子はサケル すなわち特別な運命のために最初から選び抜かれた者たちと考えられていた。
この時代には、あらゆる種類の初物の果物が、それらを当ててくれたと思われる神に捧げられた。
初めに生まれた息子は神の姿を写し、神になり、神に捧げられた。
エジプトで大量の初子が生贄にされたことが、ユダヤの律法学者によって旧約聖書に記録されていた。

律法学者は、自分達のヤハウェがエジプトのこどもたちの殺戮の責任があったと主張するために、伝説に手を加えた。(出エジプト記)

事実、エジプトの初子ー生贄には大変に古い伝統がある。
死者の書には「初子を小さく刻む日に・・・・天界の力ある者たちは、初子の大腿が積み上げられた大なべに火をつけた」とある。

後期の王朝になると、これが動物の生贄に変わったかもしれないが、「大腿」の象形文字は動物ではなく、人間の足を示していた。

聖書はヤハウェがエジプトの「天界の力ある者たち」の行為を真似て、祭壇でアロンの息子たちを焼き滅ぼす火を送ったと述べた。(レビ記)】

私の推測では、これは訳の問題で、、、殺したというより、穢れを清めるために火の儀式をしたって意味じゃないかと。(浄化)



【エジプトの神のように、ヤハウエは聖職者達に言った。
「全ての初子、すなわちすべての初めに胎を開いたものを、人であれ、獣であれ、みな、わたしのために聖別しなければならない。 それはわたしのものである。(出エジプト記)

代わりに子羊を捧げて、子供を贖うことを聖職者が許可しはじめるまでは、最初に生まれた子たちはヤハウェの祭壇に捧げられた。(出エジプト記)

このように過ぎ越しの祭りの伝説に登場する過ぎ越しの祭りの子羊は本当に息子の代用品であったのだ。

これはヤハウエの祭壇でイサクに入れ替わった雄羊が、人間から動物の生贄へ意向を表していたのと同じであった。(創世記)

イサクと雄羊の話は、恐らくボイオティア神話にある王の初子のウリクソスの話をまねたものだろう。
プリクソスは祭壇で生贄にされるところだったが、金の羊毛の雄羊が身代わりとして奇跡的に現れたのだった。】



というわけで、エジプトあたりの概念(風習・儀式)がそうだったからじゃないかと。
それがメソポタミア方面に伝わり、ユダヤ人に伝わった、と。


エジプトのラーは神の初子とされ、エジプトには勢力が衰えた王を殺して、また力を復活させるという儀式があった。

何故太陽神の誕生日が12月25日かというと冬至は1年で最も日が短く、そこから長くなっていくので、誕生とか再生という意味で12月25日になった。

で、エジプトには血の中に魂があると信じられていた。
だから、もしかして殺した王の血を飲んでいたかもしれない。


キリスト教のその名残が残っています。
「これは私の肉である 食べなさい。 これは私の血である飲みなさい。」

という儀式の文句。
生贄を食って自分にその命を取り込むって儀式なわけです。


それが倫理問題からのかアテン教の影響なのかわかりませんが、創世記のその部分をバビロン捕囚の時に作るとき、バビロンのような人間を生贄にする儀式を否定し、動物にするべきだとして、アブラハム イサク物語を他の神話からもらって名前を変えて、ユダヤ教の中に取り込んだんじゃないかと。



せっかく動物が人間の生贄にかわったのに、キリスト教ができたとき、また生贄が復活。
王(神)を殺して食うという儀式の復活です。



教会次第では、「これを理由無き、根拠無き神の選びを表しており、このことに不服を思うなど神様に対してなんと恐れ多いことをカインはしたのでしょう。 神の理由なき差別に不服を言ったためカインは兄弟を殺すことになった」と教訓として教えているところもあるようですが、、、、


違うなぁ・・・

カインが兄なら初子はカイン。
生贄の血は大地に流さなければならなかった。
初子のカインではなくアベルの血が大地に身代わりとなって流れた。

どういう意味でしょうねぇ・・・・。


ま とにかく根拠はあるはずですね。
何を捧げたかではなく、何故アベルが大地に帰還したのかも意味があるのかもしれません。

双子だったら、、、、、 どうなんでしょうね。
    • good
    • 3
この回答へのお礼

ありがとうございます.

お礼日時:2007/07/12 16:35

《狭いながらも楽しい我が家》とか《雪の降る夜は楽しいペチカ》とか言います。

《家やペチカ》が楽しむわけではなく そこにいる人びとがです。

表現の問題というのが 一つの要因だとは思います。

《ねたむ神 怒る神》と言います。《神》が怒ったり嫉んだりするという解釈もありましょうが 別様に 神のもとにあって ありながらも その人びとが嫉んだり怒ったりしているとも解せられるのではないでしょうか。きれいごとに堕していますでしょうか。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
カインは主に言った。
――わたしの罪は重すぎて負いきれません。・・・わたしに出会う者は誰であれ わたしを殺すでしょう。
主はカインに言われた。
――いや それゆえカインを殺す者は 誰であれ七倍の復習を受けるであろう。
(創世記4:13-15)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

もっとも 《風は気ままに吹く / わたしは自分が憐れもうとする者を憐れみ 慈しもうとする者を慈しむ / わたしはヤコブ(弟)を愛し エサウ(兄)を憎んだ》などともあります。

最終的な答えとしては 申し訳ありませんが 口をつぐまねばならないと今は思っております。つまり おっしゃるように 《えこひいき》です。(答えになっていませんが)。
    • good
    • 2
この回答へのお礼

ありがとうございます.

お礼日時:2007/07/12 16:36

神は人の行動と心の中を良く見ておられます。


カインとアベルの捧げ物がどのように違ったのか良く読んでください。
カインの心は、その前からゆがんでいた事もすぐに推測できるはずです。
創世記4章3~5節
    • good
    • 2
この回答へのお礼

ありがとうございます.

お礼日時:2007/07/12 16:37

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!