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人間に普遍性というものがあるのでしょうか。私は人間に普遍性はないと考えますが、それから導き出されるのは自然法は存在しないという結論です。もしあるとすれば次の実験(現実には問題があって実施できないでしょうが)をやったらどういう結果になるでしょう。

あらゆる人種、民族、性別、年齢の人間を集めます。それに多種の心理学的なテストをさせるのです。当然、皆違った結果になるでしょう。つまりそのレベルでは普遍性はないわけです。
次に脳の一定の場所を破壊するのです。そして同じテストをさせます。これを繰り返してもし同じ結果をだしたとしたら、そこが人間の普遍性のレベルだと思います。

本当に普遍性のレベルが存在するのか、存在するとすればどこなのが、との中枢に存在するのか、この実験はどういう結論になると思いますか。

A 回答 (4件)

ロボトミーのような脳の前頭葉破壊による人格改造が、人間の原始的な状態への退行をもたらす可能性はあると思います。

私は特に言語系の破壊という視点から以下に助言を行ってみたいと思います。

猿の惑星という映画では、猿が人間の声帯に手術をし、言葉を喋れない状態にしています。

言語学者のチョムスキーは、「言葉をもたない人間は人間でない」、「言語系が破壊されたなら、あなたはもはや人間ではない。言語は人間存在の核だから-」と述べています。

実際の症例として、狼少年症候群があります。
それは、迷子になった子供が文明社会から隔絶された環境におかれ、言葉が喋れないまま大人になるような場合です。(他にも、虐待された子供における症例もある)彼らには、言葉以外にも極端な知覚の剥奪、多くの機能不全が起こっているみたいです。

チョムスキーは、言葉を失えば人間でなくなるという立場から、ミニマリスト(最小限度)計画という研究が行われています。彼は普遍文法が人間には備わっていると考えているようですが、人体実験ができない以上、証明は困難だと思われます。
共産圏の国や、プルトニウムの人体注入実験やMKウルトラを行ったアメリカが、秘密裏に行うことは、可能かもしれません。言語機能をもつ人間に対して、人体実験がゆるされるのならば、多くの謎が解けると思いますが、倫理的に私はその一線を越えてはならないと思います。

社会学は、科学の衣をきた似非科学だと私は思っています。イデオロギーによる犯罪は、ニコライ・ベルジャーエフ、ハイエク、ケインズによって警告されいます。最近では、セン教授がおりはりますわ。
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4492312 …

参考URL:http://www.himatsubushinotodai.com/mailmag/66.htm
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自然法は社会科学の演繹的結論です。

その分野をSCNKさんが自然科学的に論破しようとするところにそもそも無理があります。

たとえば、フランス革命前夜(アンシャンジューム)において、人間的な活動を希望する市民が、上流階級から非独立・不平等・不自由・疎外という現実を社会的システムによって強制され個人の力では如何ともし難いわけです。

これを打破するため「独立・平等・自由・友愛」という旗印を掲げて市民が立ち上がり戦い勝利を収めました。この旗印は世界各国の自然法の明確な根拠として認められています。

逆にSCNKさんに訪ねますが、アンシャンレジュームに心理テストや脳の一部の破壊は何か意味を持ちますか?

改めてホッブス「リバイアサン」・ロック「統治論」・ルソー「社会契約論」を読んでみてください。(もっとも分かりやすいのが沼正也「民法の世界」です。)
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 人間という動物としての普遍性を所有していると思います。

つまり、遺伝子として共通なものです。
 また、無意識下にも普遍性を所有していると思います。つまり、霊感的な、心霊的な、第六感という感覚でです。
 さらに、意識の中にも普遍性を所有していると思います。ただし、これを追求するには、言語、風俗習慣、既製概念、文化、宗教などといった、地域的・民族的な障壁を越えて、共通項を探さなくてはならず、面倒な作業と言えそうです。
 たとえば、母の愛、は動物的な遺伝子的な要因が大きいでしょう。しかし、人間社会が作ってきた歴史を通して形成された無意識下の普遍性もあるでしょう。さらに、人類共通として意識でき、共有できる普遍性もあるでしょう。
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>人間に普遍性というものがあるのでしょうか。



私はあると思いますよ。
地球上には、さまざまな人種・民族が存在します。
下世話な話ですが、どの人種・民族間でも、結婚し、性行為
をして子孫の繁殖が可能です。
このことは、ヒトという生き物が様々な人種・民族に分か
れていても、根本的に一つの種であるということの証明で
はないかと。

言語についてもそうです。数多くの言語が使用されていま
すが、言語間で微妙なニュアンスの違いはありますが、
基本的に異なる言語間でも、意志の疎通は可能です。
このことから、表現に使用する言語は異なるとはいえ、言語前
の思考には、大きな違いがないと考えられます。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。種に関係するということになると、本能部分が普遍的ということになりますね。
マズローの5段階欲求を思い出しました。
言語前の思考というのは難しいですね。言語といえるのは恣意性を獲得してからのことですから、ゼスチャーやボディーランゲージは含めないということですね。
参考になりました。

お礼日時:2002/07/08 19:53

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