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地理のことで分からないことがあるのですが、
1つの質問枠に対して1つの質問にしたほうがいいと思ったので連投しました。

本題ですが、下総、上総ってなんで上の北側が下総で逆が上総なんでしょうか?

城とか都に近いからと聞いたことがあるんですが、具体的に何に近いからなんでしょうか?

A 回答 (4件)

都に近いからで合っていますよ。


都とは平城京(今の京都)を指しています。

さて、それでも地図上で見ると下総の方が近いような気がしますよね。
私もちょっと調べてみました。
すると、実際には当時から海を渡る交通手段は存在していた様ですので、
陸路で東海道→下総と行くより、海路で東海道(神奈川)→木更津辺りに渡った方が早かったために、今の順番になったそうです。

ちなみに、似たようなので、新潟県は北上とともに、上・中・下越 となってますよね。


http://www.pref.chiba.jp/kidsweb/ayumi.html

参考URL:http://www.hinocatv.ne.jp/~w-suzuki/kazusa.htm
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
海路が、というので納得できました。
それに、調べてみると、陸奥・陸中・陸前、
羽後・羽前、上野・下野、越後・越中・越前、備前・備中・備後、
豊前・豊後、筑前・筑後、肥前・肥後と
全部京都に近いかどうかが基準になっていますね。
今まで恥ずかしながら知らずになんとなくで呼んでました。

それからこれは私の気のせいというか勘違いかもしれませんが、昔は上総と下総が逆だというような事を聞いたことがあります。
そんなことないでしょうか?

お礼日時:2007/06/21 10:53

千葉県民です


千葉県の伝承では
(誰だったか忘れましたが)むか~しむかしの偉い人が
#1~#3さんの仰るルートで海を渡ってやって来た為
そういう地名をつけて行ったんだとか。

誰だったか・・・、ヤマトタケルだったかな・・・?
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

お礼日時:2007/06/22 20:25

 ごくごく大筋では#1様、#2様の回答通りですが、細部で若干、私の知識と違うところがあります。


 まず、都というのは、大和時代の畿内のことですね。
 当時、東海道(うみつみち or ひがしのうみみち)は相模(今の横須賀あたり?)から安房(房総半島の先端)にわたり、房総半島を北上していました。つまり、房総半島は、先端に近い側(=上房)が都に近い側だったわけです。
 東海道という言葉には、道(ルート)のほかに、地域名という意味もありますが、江戸周辺を含む武蔵の国が、それまでの東山道から東海道に正式に編入されたのは宝亀2年(771年)で、東海道が成立してからしばらく経ってからになります。これ以降は、東海道でも陸路だけで下総・上総に行くことが出来るようになりましたが、江戸周辺は湿地帯で、通行は簡単ではなかったはずです(江戸も、日比谷湾の埋め立てなどの整備が行われたのは、家康の時代ですから)。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
微に入り細を穿つ説明ですね。

お礼日時:2007/06/21 11:07

都に近いほうからの呼び方であってます。


ただし、昔は房総半島に行く際、陸路からではなく、海から行っていたため現在のような地名になっているようです。
http://www001.upp.so-net.ne.jp/yasuaki/misc/lang …

過去の質問でも何度か見かけてますよ。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
同様質問結構ありますね。

お礼日時:2007/06/21 10:40

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