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「現実から逃げていはいけない」という人がいますが、それはどういう意味でしょう?「現実から逃げるな」の逃げるてどういう定義ですか?また、現実って何ですか?

現実とは一般的な社会人として、仕事を持ち、結婚をして、子供を作るという生活のリズムのことですか?
それを、ポジティブにこなしていくことでしょうか?

「それをしない」ということもかなり、大変なことだと思います。

楽をして金を稼ぎ、生活をしたいと願っていますが、そういうことは不可能でしょうか?もし、何かアイディアがあればお願いします。
ちなみに、僕は勉強することが嫌いではないんですが、それをする理由がないとなかなか動き出せないという困った性癖を持っているのです…。理由が欲しいんです。趣味は外国語学習と、海外旅行、その他いろいろなことを知ることです。

やっぱり、ある企業に一定期間勤めたほうがいろいろなノウハウを得られるという点で有利なのでしょうかね?多分そうなんでしょうけど…。

A 回答 (16件中1~10件)

現実とは



政治が作り上げた

概念

だと 思います。

つまり、

政策のために

便宜上

現実という概念を

作り上げるのです。

そして

その現実がすべてだという

思いこみをさせ

所謂 政策誘導をおこなうわけです。
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  楽してお金を稼ぐ?


  そうね、仕事観は人によって違うだろうし以外に思いこまされてるだけの節(どうのこうのいって結局国によって産業社会に貢献させられるんだろうけど)が多いと思う。経済観念があるひとはよく、時間への対価というじゃない!ちょっと悪がきっぽくヒネクッテ「苦痛への対価」というひともいる(苦笑) きれい事やかっこいいばかりのカモフラージュはいらない、 要は、生活のためのお金をどうやって手に入れるかだ。
  私なんかは、もしも天が私を幸運に導いてくれるなら、、「宝くじ」でもあたらんかなー!ばかり、心の底ではおもってるイヤなやつです。そうすりゃ、仕事なんかしないで、食いつぶします。仕事しても、宝くじよりは一生かかってもかせげないでしょう、どうせ!  つまり、仕事は宝くじが当たるまでの保証かな(笑)
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すぐに返信いただきありがとうございます。



>僕は宗教をする人には2種類あると思っています。ひとつは「まじめに教義を一字一句勉強する人」もうひとつが「自分の本来の問いと差し向かい疑問を抱き、その疑問を解決しようと哲学的に思索する人」です

>やはり老子にはレベルの違いがあるのでしょうか?

私が「Evianusさんの疑問を解いてくださる老師がおられるかどうか云々」と書いたのは、まさしく回答の御礼にあなたが書かれた上記の疑問そのものの理由からです。
老師のレベルというのは「そのお坊さんが住職なのか、出家としてのお坊さんなのか?」ということで、もちろん両方兼ねている方がほとんどですが、そのお坊さんが常にEvianusさんの問いの通り、自分で切磋琢磨しておられるかどうか?ということです。
そこに「修行があるか無いか」なのですよ。
もちろん祖師の語録や経典を読む事も大切ですが、実践が無いと何もなりません。
坐禅の本をいくら読んでも坐禅をしたことにはならないし、経典をいくら読んで意味を理解しても実践の修行が無いとダメなのです。

経典や祖録・仏教の本を読み研鑽する事と、坐禅や托鉢・作務や読経の実践は修行の両輪なのです。
そして修行に歯自分の好き嫌いははさめません。
選り好みをした時点で修行では無くなるからです。

ましてや自分自身で解決出来ない者(いや、その修行を続ける事が出来ない者)が、人を指導なんて出来るはずが無いのです。
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再登場にお許しを・・・・。



東京都内での禅寺をという事ですが、Evianusさんのお話を読んでいますと「都内に禅寺は数あれど、本当にあなたの疑問を解いていただける老師がおられるところは少ないでしょうね。」
ましては私は関西在住なんで東京はあまり知りません。
強いて言えば高輪の泉岳寺(曹洞宗)、品川の東海寺(臨済宗)くらいかな。
一番早いのは「曹洞宗・臨済宗・黄檗宗」のお寺のカンバン見られたら、飛び込んで見て下さい。
そこの住職が指導出来なくとも力量のある老師を紹介してくれると思います。

ただEvianusさんが書いておられましたが、宗教は属するものではありません。
自分で選び自らの意志が先決です。
日本の封建時代からある檀家制度が根元かも知れませんが・・・・。
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この回答へのお礼

またまた登場ありがとうございます。
ぜんぜん気にしないでください。いろいろ教えてくださいね。

僕は宗教をする人には2種類あると思っています。ひとつは「まじめに教義を一字一句勉強する人」もうひとつが「自分の本来の問いと差し向かい疑問を抱き、その疑問を解決しようと哲学的に思索する人」です(禅問答??)。

前者は知識(英知)の伝達という意味ではすばらしいですが、人生に対する真摯な視線が欠けている分、長い年月を経て中身のない人間になっていきそうです。形式主義に陥りそうです。
後者は日々、戦っているわけですから、それは彼の血となり肉となり、時間とともに経験知がたまっていくと思います。
僕は後者のような人を尊敬します。
この場合、宗教自体も尊敬できるものとなります。

しかし、イメージとして前者のような人がより多く存在していると思います。(gokurakuyamaさんはどう思いますか?もしかしたら、僕の勘違いかもしれません。)こういう人にはあまり興味を抱けません。

gokurakuyamaさんは、>「都内に禅寺は数あれど、本当にあなたの疑問を解いていただける老子がおられるところは少ないでしょうね。」と、また>「そこの住職が指導できなくとも力量のある老子を紹介してくれると思います。」と書いてくださりましたが、これは、やはり老子にはレベルの違いがあるのでしょうか?また、僕の疑問をあなたはどのように分析していますか?

よろしければ教えてください。
回答本当にありがとうございました。

お礼日時:2002/07/20 11:15

Evianusさん、こんにちは。



全部一通り読ませていただきました。
ズバリ、あなたは出家してお坊さんになられたらいいと思います。
住職ではないですよ。
あくまでも『出家としてのお坊さん』です。
このちがいに興味があったらお近くの「禅寺」を訪ねてみて下さい。

あなたは「自分を見つめたい」と思ってらっしゃるようですから、坊主が一番です。
なぜなら『自分の生き方を見つめながらいろんな師に出会う事も出来るし、自らそれを知る事も出来る。又、それを人に説く事も出来ます』
ただし、それには普段から自分が何を考え、どう行動し、どう生きているか。もっとシビアに言えば『生きざまそのものの指針』があるかどうかが問われるのですから。
あなたにはピッタリだと思いますが。
決してハッタリや冷やかしではないですよ。

その道をとっている私は心からそう思います。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

ふむ。禅宗ですか。興味があります。

はじめに、僕は現在いかなる宗教にも属してはいません。そして、これからも多分、属することはないでしょう。そうする必要性をあまり感じないからです。

しかし、宗教に対し特別悪い感情を抱いているということではありません。一部、昔から殺戮を繰り返している悪名高いキリスト教に強引な印象を覚え、また、近頃流行っている新興宗教の類のものにはその浅さや独善的嗜好を感じ好きになれません。

しかし、宗教と一言ですべてをいっしょに扱うことはできませんよね。

僕は昔から東洋の思想に関心を持っています。
禅などとても興味深いですね。昔はよく、禅の修業を夢見たものです。本当ですよ。かっこいいと思ったりもします。
もしよろしければ、もっと詳しく禅のことを教えていただけないでしょうか?

東京新宿周辺で禅寺といったらどこがあるのでしょうか?

お礼日時:2002/07/19 12:53

>ちなみに、僕は勉強することが嫌いではないんですが、


>それをする理由がないとなかなか動き出せないという
>困った性癖を持っているのです…。理由が欲しいん
>です。

質問と回答を一読しましたが、問題の根底は、ここ(↑)に
あるんじゃないんですか。

「俺はこれがやりたいんだ!」
って目標がしっかりしている人間は、あれこれ悩みません。
悩みがないわけではないですが、自分の進路についてそれ
ほど迷いはもたないでしょう。

大学でいろいろ勉強しても、企業に勤めて仕事のノウハウ
を身につけても、それが自分の目標にマッチしなかったら
あなた自身にとって、さほどの意味を持たないのは明白でしょう。


>楽をして金を稼ぎ、生活をしたいと願っていますが、
>そういうことは不可能でしょうか?もし、何かアイディア
>があればお願いします。

アイディアはありますけど、それを教えてもEvianusさん
自身が、自分の人生の目標を見つけなくては、楽して金を
稼いだところで、さほどの意味はもちませんよ。無駄遣い
して終わりです。だから、今は教えません。

まだ大学生だから時間はあるでしょう。
本を読み、多くの人と交わり、時には孤独な環境で黙想して、
自分がこの世に生まれた意味を探してください。

日本を離れて海外を放浪するような経験もいいでしょう。
はっきり言って日本の社会はぬるま湯で、特に学生生活は
ぬるま湯の極地です。
日本を離れて日本を見つめることで、何かしらの発見ができる
可能性は多いにあります。

現実とは何か。あなたの人生そのものではないですか。
人生には意味があるのでしょうけれども、あなた自身がそれ
を見つけなくてはいけませんよ。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
cse_ri2さんがどのような感想を持ってこの生意気とも取れる文を読んでくださったのかはわかりませんが、回答の内容に僕はやさしさのようなものを感じ取りました。

【前半部分】は、半分納得というところでしょうか?
僕は大学に入るときに「絶対映画監督になる」と決めて(まぁ、思い込みだったのですが)この大学しか選びませんでした。しかし、さまざまな人生経験の浅さを経験し、自分の浅さを思い知りました。そのときは閉塞感に押しつぶされそうでもう死にそうな感じだったので、「オリジナリティのない繰り返しをする」よりも自らの可能性を広げることを考えて生きていこう(簡単にいうと:楽しく生きていこう)と目標設定を変更し、今にいたる次第です。
「目標設定がしっかりしている」という前提に当てはまっていないかもしれませんが、でもそのときは確固たる自信をある程度の行動をしていました。でも、もう悩みに押しつぶされ元来の目標の変更にまでいたってしまったのです。

>大学でいろいろ勉強しても、企業に勤めて仕事のノウハウを身につけても、それが自分の目標にマッチしなかったらあなた自身にとって、さほどの意味を持たないのは明白でしょう。

の部分ですが、直接的にはそうかもしれませんが、でも人生どう転ぶかわからないので、人生を歩みながら身に付けたさまざまな術は血となり肉となり、その人の人生に影響を与えつづけていくと思いますよ。

【後半部分】教えてくださいーー(T。T)
今の時点で僕が判断し、自分の人生に意味をなさない方法だなと思ったら、ちゃんとお断りしますからー(T。T)
(今のところは卒論も書かなくてはいけないし…。でも、夏の旅行のために今なら何でもやるかも!!)自己投資しまくります!

海外一人旅放浪は僕の得意分野です(過去の投稿参考)。
(といっても、まだ3回、4ヶ月くらいですが。東アジア、東南アジア、欧州、北アフリカ)
実は長期の旅行の計画を今練っています(実現するかはわかりませんが…)。

もし、また何かありましたら返答お願いします!!
回答ありがとうございました。

お礼日時:2002/07/17 17:32

> 現実って何ですか?


哲学的に「現実」を問う場合、その答えは、たぶん、とってもムズかしい
ことになってしまうと思います。
でも、世の大人は大抵「テキトー」な現実感をもって、したり顔で
説教とかして生きています。「現実から逃げる」というのも、
そういう文脈でられるコトバでしょうから、そういう程度の意味合いだと
捉えるのが妥当でしょう。

でも、失礼ながら、本当の問題はそこに「ない」ような気がします。
> 現実って何ですか?
と問い、
> 楽をして金を稼ぎ、生活をしたいと願っています
と言っているくらいですから、より問題なのは、ひょっとすると
「現実感自体がない」ということなんじゃないでしょうか...?

世間で語られている「現実」も、実際に目の当たりにする大人の「現実」も
とてもウソ臭く、自分の将来として身近に思い描くことができない。
でも、その一方で、大学生活をちょびっと気楽に(失礼)生きている
自分にも、確として信じられる現実感がない。
逃げるも逃げないも、始めから、微妙に「現実」自体から遊離している
ような気がするのです。(見当外れでしょうか?)

でも、これは別に責めようってわけではありません。

私は、独身のサラリーマンですが、たぶん、すでにお察しの通り、
私のもっている現実感も、その8割くらいは会社によって出来ています。
辞めれば、きっと大部分が崩壊することでしょう。
そういう意味では、私にも「本当の現実」、信じるに足る現実は
見えていないと言えます。

逆を言えば、Evianusさんも会社勤めをすれば、その「現実」を「着る」
ことになるだろうと思います。
そこには「したり顔で語れる」ような、厳しいと同時にお手軽な
「現実」があります。
もっとも、本当はそれほど「お手軽」ではなくなっていますが。
(失われた神話の世界を迷いながら生きているって感じかな)

大人が「テキトー」に言っている現実とか現実感というのも、おそらく
所詮はそういうものでしょう。
だから、逃げるとか逃げないとか、ということにあまり惑わされては
いけません。それは、まずくすると、徒に他人の現実感に従わされる
ことになってしまいます。

重要なのが「自分」であることは、たぶん、間違いないと思うのです。
「現実」という幻想は、自分で感得するものです。
(それは、他人と一緒になる/ならないには関係ありません)
逃げる逃げないは、それからの話であるべきだと思います。
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この回答へのお礼

>大抵「テキトー」な現実感
そうかもしれませんね。みんな見ている現実というのはそれぞれのフィルターによって違うものになっているはずです。

>「現実」を「着る」
「したり顔で語れる」ような、厳しいと同時にお手軽な
「現実」があります。

とてもわかりやすいです。
そうですね。「現実」というのはある一定の思考のパターンなのかもしれません。それを絶対として、それに従わないような行動をするものを、排除する傾向にある?

僕は、楽をして金を稼ぎたい。という欲求をおろかだとは思いません。だって、楽をして金を稼いでも自分にそれを使いこなすだけの教養やヴィジョンがなければその「お金」の価値も変わってきますし、また、楽をしてという要求だけを文字通り追っていくと、とても卑しい職業についてしまうかもしれません。僕はそういうものをあまり好みません。なぜならそれをすることによって他人から、さげすまれるような目をされた場合、それは元来の目的の楽しく生きるが損なわれてしまうからです。
ある程度の名誉ある「仕事」をし、それにより満足感を得、しかもお金ももうけたい。
みな思っていることですよね。

がむしゃらにその人の与えられた現実を生きるのもいいですが、それではその価値観に拾われなかった多くのものが損なわれる可能性があります。それに、少しでも気をつけて生きていきたいと思っています。

で、ちょっぴりおいしく;)

お礼日時:2002/07/17 17:17

この質問を読み、皆さんの回答とそれに対するEvianusさんのお礼を読んでいましたら、まさに今のEvianusさんは「現実から逃げています」。

つまり、現実から逃げるというのは、自分が生きていく上で、あるいは日常生活の中で、自分の責任として自分がしなくてはならないことをせずに他のことにかまけることを言うのです。

というのは、今、Evianusさんは試験中なんですよね。とすると、そこにおいてしなくてはいけないことは試験勉強であって、ここに質問し、一つ一つの回答に対してお礼をつけることではないはずです。ところが、現にそのようなことをして試験勉強をするという現実から楽な方へ逃げているわけです。きっと、こっちの方が楽しいし楽なんでしょうね。
(質問のなされた日時に対して約3日たっていますから、もう試験は終わりましたか?とすると現実から逃げる必要がなくなりましたから、お礼もつかないかもしれませんね)

また、後半の問いに対しては、与えられた(目前の)仕事を誠意を持って遂行し、不満を持たずにその仕事を楽しめば、楽をしてお金を稼ぎ生活していくことができます。つまり、心の持ち方次第だということですね。

あ、それから最後に「理由がなければ勉強しない」というのは勉強が嫌いな人の言う台詞です。本当に勉強が好きな人は、自然と勉強していますし、ふと気がついたら自分は勉強していたというぐらいに他のことを忘れて勉強するものです。
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この回答へのお礼

こっちのほうが楽しいし楽です…。

>あ、それから最後に「理由がなければ勉強しない」というのは勉強が嫌いな人の言う台詞です。本当に勉強が好きな人は、自然と勉強していますし、ふと気がついたら自分は勉強していたというぐらいに他のことを忘れて勉強するものです。

あ、そうですねぇ。確かに、勉強は…。好きなんですけど、嫌いという、矛盾したところがありますねぇ。何でだかわからないんですが、昔から学校の勉強てなんだか手がつかないんですよね…。ちょっと病かもしれません。大学入試とか、その他のもの事を覚えたりするのは得意なんですが…。でも、何とか最低限はがんばりたいと思っています。

心の持ち方とおっしゃいますが、そういう心をもつにはどうしたらよいのでしょう。
また、与えられた仕事の意味を考えず不満を待たずにその仕事を楽しむということに危険を感じませんか?もしあなたの仕事が後に多くの人々を殺す可能性のある大量破壊兵器の製造に関わった仕事だとして、それを上司から教えられず、ちょっと仕事中に生じた疑問を殺して仕事を続けるということですよね。
こんなに大げさでなくても、その仕事が他人の幸せを奪っているかもしれない。与えられた課題をただこなすというのは物事を考えない分従順で幸せを感じるかもしれませんが、少々危険をはらんでいるような感じもします。
文部科学省がこれから望んでいる人材(ものを考えず、命令に忠実に従う多くの人々)だとも感じますが…。

いや、でも確かにaminouchiさんの言うことにも一理はある。僕も勉強せねば!okwebてけっこう楽しいんですよね。

最後にaminouchiさんは専門家ということですが、何の専門家なのでしょう?

お礼日時:2002/07/16 15:36

初めまして、こんばんは。


まず最初に・・・
頑張っている人を馬鹿にしていませんか?
「40代くらいのいいおやじがへりくだって無理に笑顔を作り、無理に楽しそうにしているさまを見るとなんだか絶望的な気分になったりするときもあるのです。」と書かれていますが、そのおじさん達だって懸命に生きているんですよ。
「楽して生きたい」「頑張るには理由が欲しい」と思われるのは個人の勝手ですが、他の人を絶望的な気分で見たりするのはいけないと思います。

では、本題に・・・
「現実から逃げるな」という風に使う場合、現実とは目の前にある辛い事ではないでしょうか?
そして逃げるというのは、楽な方へ流されることではないかと思います。
楽なほうへ流されることは、一概に悪いこととは言えませんが世間では悪いことと見なされるんでしょうね。
仕事のことですが、仕事しないと好きな海外旅行へ行くお金も得られませんしね。
そのくらいに考えればいいんじゃないですか?
まだ21歳ですし、いいですよ。
若いとはそういうことです。
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この回答へのお礼

はじめまして。

まずはじめに、もし僕の文がkuma68さんおよびこの欄を見てくださった多くの方を傷つけてしまったらごめんなさい。この場を借りて謝りたいと思います。僕の出した例はとても特別な例で、笑顔で楽しそうなおじさんをすべて嫌っているわけではありません。というより、基本的に僕は自分より年上の人を尊敬使用という姿勢をとっています。自分より少しでも長く生きている人はその人の能力や性格がどうであれ、そういう判断から外れた部分で教えられることが多いと感じるし、できるだけそういう態度で人に接しようとしています。
でも、その特別な人は大企業だったし、ちょっと見た感じも卑しいというか、なんともいえない嫌な感じを受けてしまったのです。すごい作り笑顔がうまくて、話術の豊富な人など、いつもはこの人は根っからの商人なんだなぁ、とか人間関係に気を使っているんだなぁ。とか、いろいろ経済的にも大変なんだな、また生きるのが大変な人なのかな。と感じますが、この人の場合は違ったのです。インパクトが強かった。だから、この前引用してしまったのかもしれません。
わかりきったことですが、僕は20代前半世代の代表として話をしているわけではないので、どうか先の失礼は忘れてください。

こういう問いの場合、#7の人も言われていたのですが、その言葉の使われた状況が大事ですね。

回答ありがとうございました。

お礼日時:2002/07/14 20:20

まぁ、普通、大人達が言う「現実から離れるな」という言い分は、


自立せよ。という意味合いが多いと思います。つまり、通常、
自立とは、自分で稼げて、食べて行けることを言います。
それがクリアされていれば、取りあえずは、他人からとやかく言われる
筋合いはありませんでしょう・・・。

しかし、せっかく哲学の項目に投稿されたのですから、哲学的なことを一つ
私見として述べさせて頂きますと、偶然に産まれたものには、
存在目的が最初からありませんから、存在価値もあり得ません。
コップは、それが存在するようになった目的があり、はじめて価値があります。
存在している価値があります。しかし、存在するようになった目的は、
コップ自身にはありませんでしたよね。

このように考えると、偶然に産まれてきた人間に、存在目的もありえないし、
故に、本源的な存在価値もありません。創造目的=存在目的=存在価値です。
これが哲学する時の最重要な真理です。ですから、人間が自分の意思で
産まれてきたのではない以上、我々は、自分の為に産まれてきたとは、
決して言えませんし、又、偶然に産まれてきたのなら、存在価値がないのですから、善も悪という価値観もあり得ません。
尊厳性もあり得ません。自分は価値がある、自分は価値がある、と何回言い聞かせ
てみても、自慰行為でしかありませんね。

自分で価値があるかないかは、自分が決められるものではありません。
価値の尺度、ものさしを、自分自身がもっていたら、自己中心にならざるを
得ません。ですから、自分の外になければなりません。
そうなると、人間の善悪を論じるとき、又、幸福論を論じるとき、
すべて、それは、押並べて「存在価値論」なのですが、それには、人間の外に
価値基準を置かねば成らず、又人間の創造目的がなければなりません。
つまり、人間を創造した創造主を考えない限り、人間の価値論を論じても
ナンセンスだということになります。結論が永遠に出ないということになります。
十人十色になってしまいますからね。

だから、外国の憲法(基本法)の前文には、ほとんどすべて、神又はそれに代わる
創造主なる言葉が挿入されています。それでないと、人間の尊厳性を謳うことが
論理的に不可能だということを、諸外国の先人達は、知っていたからではない
でしょうかね?

そう考えてまいりますと、「現実を離れる」という場合、それは、あなたに、
人生の目的があるかないかで測られるべきものです。

あなたに、何らかの「人生の目的」(一番良いのは神の人間の創造目的に合致して
生きることなんでしょうけど・・・)があるとすれば、そこから外れた時、
「現実から離れる」ことになるのでしょうし、目的がなく生きておられるのなら、
最初から現実もないし、そこから離れるということもあり得ません。

ましてや、親ならともかく、あかの他人から、とやかく言われる筋合いは無い
でしょうね。要は、目的があるかないかです。目的が全てです。
「目的」がなければ、幸福もないし、喜びもないし、現実もありません。
私はそう思いますが・・・。
乱筆・乱文お許し下さい。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

>だから、外国の憲法(基本法)の前文には、ほとんどすべて、神又はそれに代わる
創造主なる言葉が挿入されています。

そうなんですか!知りませんでした。
でも、論理的に考えるとそういう感じになりますね。

外部からしか価値は決められない。

その神の役割が最近科学に取って代わっているようですね。科学の正確性を人間の外部に位置付け、それにより人間存在に価値を与えようとするらしいです。
これが最近の科学の偏重の原因らしいです。
これはちょっと間違っていると思うのですが、代わりになるものが現れない以上しょうがないですね。

お礼日時:2002/07/17 15:05

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