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まったくのシロウトですが、釈迦は苦行を否定していた記憶があります。
そこで話題になっている天台宗の「堂入り」です。
「堂入り」は釈迦の方針に反してはいないのでしょうか?

A 回答 (12件中1~10件)

苦行をしたということは事実のようで


否定したと言うより
過ぎたるは及ばざるが如し
ということなのではないでしょうか。
この行為は解脱に至るに必要ないものであったとは
本人でも言えないことなのではないでしょうか。
さとりとか解脱とか釈尊が伝えたものは
自らが生きていく中でその身体を通して経験し
学び、哲学していった全過程の結晶化なのだと思います。
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この回答へのお礼

henokuappaさん回答ありがとうございます。

>過ぎたるは及ばざるが如し

堂入りは9個間も水も飲まないとか「過ぎたる」に当たるような気もしますが・・・・。

お礼日時:2007/10/14 16:23

こんにちは。



 自分もド素人なのですけど・・・

 苦行を「否定」というよりは、「苦行のみでは悟れませんよ」という意味合いかと思います。

 ひとつの「過程」としての難行苦行というは、有用なのではないでしょうか。
 堂入りや回峰行は、いま見られる行としては強烈な荒行のような印象ですが、それもまた「過程」とすることで行者やより高次の理論と実践の階梯へ進めるのだろうと思っています。

 卑近な話で申し訳ないのですが、理屈は知っていても「何事もやってみないと解らない」ものかと。
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この回答へのお礼

les-minさん回答ありがとうございます。

>苦行を「否定」というよりは、「苦行のみでは悟れませんよ」という意味合いかと思います。

なるほど。そういう意味合いですか。勉強になりました。

ただ、あくまでもWikiに書いてあったことですが

「行者は途中で行を続けられなくなったときは自害する決まりで、そのために首をつるための紐と短刀を常時携行する。」

これは過剰な気がします。荒行に失敗しても、それも悟りへの重要な過程になると思うんですよ。失敗や苦しみにも修行の意味があるというか。
それなのに無茶な修行に失敗したら自殺しろってのは釈迦的にはどうなのか?と思いました。

お礼日時:2007/10/14 16:37

天台宗の開祖は真言宗の開祖に自分が伝授されなかった経典を見せてくれと頼んだが断られたとか


頭は良かったみたいですが。。。
弟子達に何を伝えたんでしょうね。
いわばピラミッドのようなかたちであるなら
弟子が師匠を超えることはあるのでしょうか。
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どんな立場で何の目的で質問しているのか判りませんが


必要ないと思えばしなければいいことのではないですか。
心が向いていないなら荒行しても無駄なような気もするし

余計なことですが個人的には
ぼんとひぼんという感じで
直感的に高野山の方が惹かれるものがありますが
人それぞれに好みや向き不向きもあることですし
それにいくら入門を希望しても
希望すれば受け入れてくれるというものでもないでしょうから。

釈尊は正式に何かの宗教の門下に入りそこでさとりを啓いたのでしょうか。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

>釈尊は正式に何かの宗教の門下に入りそこでさとりを啓いたのでしょうか。

それでも天台宗の修行僧は皆、釈迦の門下ということになりますよね?

お礼日時:2007/10/16 01:36

「堂入り」というものを よく知らないのですが 確か釈迦は 苦行のあとスジャータという娘から 


牛乳かスープをもらって体を癒した後 苦行の非をさとった、という感じではなかったかと思うんですが 
基本的には苦行を否定してると思うんです。ただし その否定は 解脱できないということではなく 
広く民衆を救うにはやさしいやり方でなければならない という事だとおもうんです。またやさしい
やり方で目的を達成できるというのは 理にかなっているともいえると思います。

道元禅師は 座禅は安楽の法門なりと言っていますし 法然 親鸞は 念仏による よりやさしい解脱の道を提示していると思います。このような大乗仏教に対して 苦行による解脱を目指した小乗仏教(上座部仏教)は 苦行に耐えうる意志力の強い人たちに提示されているのだと思います。山を登るのに ガケを登って近道を行くか 誰でも登れる登山道を行くかの違いのような気がするんですが・・・。 
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

天台宗は大乗仏教とWIKIに書いてありましたが・・・大乗仏教でも苦行を目指す宗派もあるんでしょうかね。

お礼日時:2007/10/16 01:40

釈迦の方針に反してはいないのでしょうか?


その通りですね。釈迦の方針から完全にずれておりますね。
苦行にも楽な生き方にも悟りは得られないということですね。悟りは「静かに考えて正しい智慧を得、智慧の力で一切の束縛から解脱する」ことですから、肉体を鍛えても考える時間がないと悟りようがない、パチンコや飲み屋などで遊んでも考える時間がないと悟りようがない」ということですね。こもって水だけで9日もいるとお腹はすくし、意識はもうろうとしますから正常な思考はもてませんね。悟りはないでしょう。でも精神力は強くなるんでしょうね。仏教修行ではなく仙人修行ですね。念力も強くなれば役に立ちますしね。
参考程度に
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この回答へのお礼

mmkyさん、回答ありがとうございます。

>こもって水だけで9日もいるとお腹はすくし

本当かどうか分りませんが、水もたつそうです。

お礼日時:2007/10/16 01:33

>それでも天台宗の修行僧は皆、釈迦の門下ということになりますよね?



そうなんですか?
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この回答へのお礼

仏教徒は皆、釈迦の弟子というわけじゃないんですか?

お礼日時:2007/10/19 22:01

ANo5です。

天台宗、確かに大乗仏教でした。とすると、大乗仏教なのになぜ苦行があるのか 
という疑問が残るんですが、勝手に解釈するとすると 天台宗の苦行は 自分のためだけの悟りの
行ではなく あくまで目的は 衆生の救済であり、悟りによって菩薩となって人々を救う、一刻も早く
人々を救うには苦行もいとわない、と こんな感じではないかと思います。

懐に持つ短刀の意味は 自分が悟れなかったから死ぬ、と言う小我の思いではなく、衆生の救済の
ためには命をかけることもいとわない、と言う決意の表明、大我の想い、とみることができると思います。     
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この回答へのお礼

衆生を救うための悟り、そのための苦行ですか。
うーん、なんか僧の方は悟ることには興味があるように見えても
衆生を救うことに感心があるようには、あまり見えまえん。
何というか、ほんとうに苦しんでいる衆生を救うことが目的というより、自分が悟ることが本当の目的みたいに感じます。

お礼日時:2007/10/19 22:08

 確かに通俗的仏教解説書では、「釈尊は苦行を否定した」と表層的にだけ記述しています。

ただしそれは決定的説明不足なのです。
 まずインドでは生命体は永遠に生まれ変わり死に変わりの「輪廻」という時間軸で生き続け、そこには苦楽が二面的に備わっている。だから「現世で苦しみを味わえば、来世は安楽な天人の世界に生まれ変われる」。よって肉体をいじめ抜く極端な苦行・禁欲を行う。

 しかし釈尊は、例え現世で肉体を苦しめて来世に天人に生まれ変わっても、根本的な「苦」の怪傑にならない。輪廻という永遠に生まれ変わり死に変わりするという時間軸の概念からの自己の解放、つまり解脱を目指された。そこで”生天のための「苦行」”を否定したのです。 

初期仏教でも釈尊の前世譚で「飢えた老人を救うために、火に身を投じた兎」の話などのように、自らの命を捨てて他者を施すという精神は存在し、特に他者の救済を尊ぶ大乗では、『法華経』の焚身供養や『金光明経』の捨身飼虎など、一見すると苦行としか目に映らない話があります。また大乗においては地蔵菩薩や不動尊のように“他者の苦しみを自らが請け負う”という代受苦という思想があります。それもひとえに己と同時に他者を利するという精神の表れです。

 日本に仏教が根付く過程として、日本古来から存在した信仰観・死生観と融合してきた部分があります。そこには“罪や咎を償うために苦しみに耐え、善事を行う”というものがあり、多くの祖師も多かれ少なかれ、苦行を実践してきました。特に千日廻峯行は修験的な、日本古来の信仰観と仏教思想が融合して生まれた修行形態です。
 そこで“死を決意して行う堂入りは苦行か”と問われれば苦行です。ただし、それを“来世で安楽な生活がしたいから”と望んで行えば釈尊の教えと反しますが、前述したような大乗菩薩行の一環、精進波羅蜜の実践として行うのであれば、一律に反しているとはいえないでしょう。

(もちろん、それを“反する”という考えの修行集団も存在するでしょうね。そのようにして長い年月を掛けて部派・学派の相違が生まれ、現在の「宗」へと発展していったのですから)
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この回答へのお礼

>そこで”生天のための「苦行」”を否定したのです。

なるほど、生天のための苦行の否定。
そして苦行のみでは悟れない、という意味での否定ですね。理解できました。

それで堂入りは、生天が目的ではなく、悟るための修行のあくまでも一部の苦行ということですね。

ただ、それが代受苦というのがちょっと?という気がしました。誰の苦の代わりも受けてないように見えるので。
単に悟るための修行の一つと言われたほうがスッキリします。

お礼日時:2007/10/19 22:16

スルーするつもりでしたが簡単に述べましょう。



輪廻転生の“輪”から抜け出ることにより解脱するのであって、天上界に生まれようとする考えは大乗仏教はもちろん初期仏教でも、それは仏教ではありませんので、回峰行者が生天のために苦行することはありえません。また、輪廻の思想は釈迦以前からあるので釈迦は特に否定せず、方便として用いたにすぎません。
さらにまた、善因善果の善因とは苦行のみをさすわけではなく、善果が苦しみであったりもします。つまり、苦行によって地獄に堕ちるということもありえるのです。

本題に入ります。

釈迦は難行苦行だけでは悟れないことを難行によって悟ったのであって、難行を全否定したわけではありません。難行を完全否定したら難行だけでは悟れないという難行による悟りを否定してしまいます。

>行者は途中で行を続けられなくなったときは自害する決まりで、そのために首をつるための紐と短刀を常時携行する

これは回峰行に対する心構え(信念)の現れであり、行中に亡くなる(成仏)者はあっても本当に自害した者はいません。そもそも、途中でやめたいなんて意志の弱い者に千日回峰行は許されません。つまり、“死”以外に途中で行を続けられなくなることは無いのです。
九日間の断食断水(ホントに水も絶ちます)は死の体験であり、堂入りの前に実際にお葬式をします。これは、それだけの信念があるからで、回峰行の本尊である不動明王に守られている行者は不動明王そのものであり(感応同交)、一般には難行苦行と思われるようなことも「過ぎたる」に当たらないのです。
もっとも「過ぎたる」も諸法実相です。

回峰行は京都大回り以外はあくまでも自行ですが、自行即ち化他行、化他行即ち自行です。

修行とは“行い”を“修める”ことであり、行者はやりたいからやっている(行う)だけで、堂入り“だけ”で「悟る」と思ってる行者はいませんが行者なりに修めます。また、来世得作仏が目的ではなく現世が即ち浄土であることの自覚が肝要です。

つまり、『法華経』の精神では堂入りは悟りのひとつのかたちです。

もっとも、大乗では煩悩即菩提ともいいますが。




……やったこと無い人にはわからないことです。

余談ですが、人間は水を飲まないと食欲を感じなくなります。
断食断水が進むと感覚が敏感になり、線香の灰が落ちる音が大音量で聞こえ、二百メートル離れた井戸の水(ご本尊さまに供える)の臭いがわかるようになります。
回峰行は、なかなか合理的に組みたてられているのです。




このへんでやめておきましょう!
え、もちろんやったことありませんヨ!!
それではゴキゲンヨウ!!! (^^)v
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この回答へのお礼

生天のための苦行は否定。修行の一部としての苦行は否定してない。ということですね。

回答ありがとうございました。

お礼日時:2007/10/19 22:19

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