プロが教える店舗&オフィスのセキュリティ対策術

まったくのシロウトですが、釈迦は苦行を否定していた記憶があります。
そこで話題になっている天台宗の「堂入り」です。
「堂入り」は釈迦の方針に反してはいないのでしょうか?

A 回答 (12件中11~12件)

こんにちは。



 自分もド素人なのですけど・・・

 苦行を「否定」というよりは、「苦行のみでは悟れませんよ」という意味合いかと思います。

 ひとつの「過程」としての難行苦行というは、有用なのではないでしょうか。
 堂入りや回峰行は、いま見られる行としては強烈な荒行のような印象ですが、それもまた「過程」とすることで行者やより高次の理論と実践の階梯へ進めるのだろうと思っています。

 卑近な話で申し訳ないのですが、理屈は知っていても「何事もやってみないと解らない」ものかと。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

les-minさん回答ありがとうございます。

>苦行を「否定」というよりは、「苦行のみでは悟れませんよ」という意味合いかと思います。

なるほど。そういう意味合いですか。勉強になりました。

ただ、あくまでもWikiに書いてあったことですが

「行者は途中で行を続けられなくなったときは自害する決まりで、そのために首をつるための紐と短刀を常時携行する。」

これは過剰な気がします。荒行に失敗しても、それも悟りへの重要な過程になると思うんですよ。失敗や苦しみにも修行の意味があるというか。
それなのに無茶な修行に失敗したら自殺しろってのは釈迦的にはどうなのか?と思いました。

お礼日時:2007/10/14 16:37

苦行をしたということは事実のようで


否定したと言うより
過ぎたるは及ばざるが如し
ということなのではないでしょうか。
この行為は解脱に至るに必要ないものであったとは
本人でも言えないことなのではないでしょうか。
さとりとか解脱とか釈尊が伝えたものは
自らが生きていく中でその身体を通して経験し
学び、哲学していった全過程の結晶化なのだと思います。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

henokuappaさん回答ありがとうございます。

>過ぎたるは及ばざるが如し

堂入りは9個間も水も飲まないとか「過ぎたる」に当たるような気もしますが・・・・。

お礼日時:2007/10/14 16:23

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!