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哲学を専攻している方は、まず始めに
習ったり考えさせられる事だと思いますが
皆様は心とは何だと思いますか?

私は哲学を勉強した事はありませんが大学の哲学の講義に
出た時にこの話題があり、どうも二言論的な考え方が理解
出来ませんでした。
私は基本的に心とは物理現象と考える事で全て解決出来ると
思います。
例えば「熱い」と思うのは皮膚に何かが触れたことで
脳が反応し、この脳の反応があるから「熱い」と言う感情が
生まれると思います。
この様に基本的に脳の反応があるからこそ感情が生まれるわけで
「心と脳は同じである」と普通に結論付けられる気がしますし
身体を動かすそうとするのも「脳が身体を動かせ」と命令するから
身体を動かしたいと言う感情が芽生えるのであって脳の働きが心を
作るのだと思っています。

ただ私は格闘技などが好きですが良く「身体が勝手に動いた」
と言う話を聞きますが人間の行動に限って言えば、この場合本人
に「身体を動かした」と言う意識(心)がないわけですから脳と心
とは別であるとも考えられますし、あるいは脳の働きだけで
「あの人は綺麗だ」「この歌は良い曲だ」と思うメカニズムが
物理学的に証明出来ないので心と脳は別のものであると考えられる
わけですか?
それでも私は「心とは脳の働きから生まれる物理現象である」
と考えるのが合理的な気がするのですが、やはり間違いなんで
しょうか?

本を読んでも難しくてさっぱり分かりません。

A 回答 (16件中1~10件)

Q:《心とは何だと思いますか?》


A:ものごとを記憶し 記憶と照合して新しいものごとを知解し また旧いものごとを知解し直し さらにこれらの知解内容について 意志するかしないかを考え取捨選択し そのことの当否・成否・是非などを判断し 決定する行為能力であり 能力行為です。

《基本的に心とは物理現象と考える事で全て解決出来る》かどうかは わたしには分かりません。ただ 《「心とは脳の働きから生まれる物理現象である」と考えるのが合理的》かどうか もしそうであるなら いちいち《心とは何か》という問いを出す必要もないようには思われます。

《二元論》とは 身心の二元論のことを言うのだと思いますが これは ありえません。身体と精神との二つの要素があると言うだけです。心で思うことに 体がついて来られなかったり 体が求めるものを心が拒むこともあったりします。ただそれだけのことを言っています。《元》というのは 誇張です。

《根元》というのなら 身体および精神の経験世界のほかに(あるいは その根底に あるいはそれを超えて) 人が その想像力を逞しくするときに見つけた超自然の領域です。(何とも その正体が分からないので 霊あるいは空と言ったりしますね)。

いづれの内容(つまり神だとか無神だとか)を 想定しても すべて この領域を根源として――その表現現実にかんする限り―― 一元論に立ちます。それ以外にありえません。(たとえば 汎神論や多神教は そういう名での一元論です。想像が ちょいと溢れ出過ぎています)。

このような一元論は 経験合理性にとっては 虚構です。そして この虚構の想像についても 《脳の働きから生まれる物理現象である》と解明されれば あなたの勝ちです。

人は 無意識のうちにでも なんらかの一元論としての――けっきょくは――信仰に立っていると わたしは見るのですが すなわち言いかえると このいわば非経験の領域とそしてこの世界の経験領域とから成るのが おおきく人間の現実だと見るのですが そのこころは 次のようです。

自然科学は みづからの科学行為の対象とする領域を 経験世界に限定し 非経験の信仰の領域からは 禁欲しているということ。いま 禁欲していると表現しましたが それは 我田引水であるかも分かりません。無い そんな非経験の領域などいっさい無いという見方からすれば 欺瞞に映ると思います。

そこで さらに そのこころは おそらく考えるに 自然科学は 自らの対象とする世界以外の領域に対して 閉じる必要はないし 閉じては むしろ いけないし 何も言わずに窓を開けておくことだけをしておくのがいいのではないかということ これです。

《物理学的に証明出来ないので心と脳は別のものである》と主張するかたちとは微妙に異なって 証明できるか出来ないか わからないことだから 想像力をはたらかせ 非経験の領域へと向かうことがあります。

というよりは その志向性じたいが 心の問題なのですから 言い直してみると わたしたちは もともと こころの領域へと こころ自体を わづかに――たしかに まぼろしの如く――差し伸べる動きを持つ動物であるように思われます。

まとめたかたちで もっと簡単に言えば 《「心とは脳の働きから生まれる物理現象である」》というのも 無神論という信仰に立つということ。つまりそのような心の働きによっているのだし そのように・そのような形で 心の領域をゆたかにしようと努めている・・・のではないでしょうか。

窓を開けているということは 互いの差異を それこそ科学的に認識し 認め合うということ これが わたしたちの第一の課題であるように考えます。
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心とは何だ


何だとは何だ。。。

空だ


五蘊皆空
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仏教的には心は五感と意=六根だと言われています。



そこにその人の性質体験などにより「良い」「悪い」「どっちでもない」に分けられます。「良い」ものに執着が生まれ「欲」が、「悪い」に執着が生まれ「怒り」が生まれます。

自己を五蘊であらわすものもあります。

結構深いですよw

参考URL:http://www.j-theravada.net/
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いわゆる心が物理現象であるという合理性を貫くと


人間の意識を完全にシュミレートしたコンピュータが作れるということでしょう。
このコンピュータが真に自意識を持っているかどうかを客観的に完全に証明することは不可能で、生体脳にこれを直接接続し、その生体脳が認識できて初めて可能になると思います。
そうなれば、哲学、思想、心理学、ひいては物理学の革命となり、生死の問題でさえ大きく変わらざるを得ないでしょうし、その方向に向かっていることは確実だと思います。

しかし、物理現象・・時空間、物質、光、エネルギー・・・
崩壊する素粒子(陽子でさえ)と重力でグニャグニャになる空間、そして同時性を否定された時間・・・・

これら不確定な現象の中に発生した意識や心を物理現象と言い切ってもその物理現象そのものが理解されない限り、未だ、心とは何かの問いには十分に答えられていないことになるのではないでしょうか。
そこが人間知性の限界と言えるのかも知れませんが、前述の人工脳や生体脳同士の有機的接続によって、この限界を突破する可能性は否定できませんね。
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>それらは人間の知識(脳の知識)があるから物理と見なす事が


出来るとは考えられませんか?

とのことでしたが
まあ考えることは出来ます。
出来ますがあくまで完全実証に至らないといったところでしょうか
基本的には意識外領域と意識の連動で物事は考えられています。
ここまでは理屈として当たっていますが意識外領域が脳であると理論
立てているのは何しろ我々人間でありそれを理解するのも人間である
ので100パーセントとはいかないと思いますね
ただ要素としてはあるのではないかと僕は思っています
様は
意識外領域=未解明
意識=心的次元
であるということしかわかっていないのです。
個人的には二元論が可能性が高いと思いますが実証論では精神一元
論を超えることは難しいと思われます
個人見解でいけば意識外領域は今までの科学的見解も含んでいると
は思いますがそれ以外にも在ると思います
脳というのが意識とリンクしていることは認めますが脳は仮説であり
意識はあなたの仰る物質次元には存在していないと思われます
心的次元でしか物事考えられないのだからそれ以外は不可能でしょ?
というのが私の言いたいところです。
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これが正しい、なんて説明はできることではないですが、参考になれば、ということで。



No.10さんがプラトンとかイデア界に触れられています。イデア界とは、いわゆる霊界のことです。全ての人はこの世に生まれる前に、霊界で生活しています。ですので、「美」「醜」「真理」などについて、「心」にほぼ共通の価値観を持っています。「ほぼ」って限定的なのは、やっぱり霊界でも、国別・民族別そして、「宗教別」とか魂のレベル別に生活しているので、「美」などの感じ方は、やっぱり差があるわけです。真理についても、やっぱり若干の相違は出るわけですね。

ですので、「国別」「民族別」「宗教別」に生活ってところから予想されるように、その間には、差異が生じるわけです。その差異が許容範囲を超えてしまうと、いわゆる「争い」になります。「霊界では、みんな仲良し」ってことは、ないのですね。霊界の人々は、分かれて生活しているので、直接に争いの原因は発生しません。でも、自分の応援する国で生きる人々が、別の国の人々によって痛い目を見させられていたら、「なにすんだよ!」って怒りが沸くわけです。

で、過去、ソ連・中国とアメリカやイギリスなどが、本体どうしで戦争すると、核ミサイルが飛び交ったりして危ないので、朝鮮半島、ベトナムなどで代理戦争をやったように、霊界で生活する人々は、「この世」の人間を使って代理戦争を行い、最終的に決着をつけます。

ですので、イラク戦争にしても、直接の原因は、ブッシュが中東の石油利権を狙って、フセインを罠にハメて、クウェート侵入を誘導し、そして出てきたところを「しめしめ、罠にハマった!!」って叩いたわけですが、霊界では、「キリスト教」と「イスラム教」の戦いの結果みたいです。

というふうに、心が別次元って仮定すると、こういう説明のやり方もあるわけですね。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

確かにその可能性も考えられますね。

お礼日時:2007/10/23 00:02

では、心が感じる反応は全て外界からの刺激によって、成立したものであると断定できますか。

心とは何か、と論じるならば、例えば既に述べていらっしゃるように、

>「あの人は綺麗だ」

とすでに考えているように、美とは何か?ということを考えてみてください。万人に共通する(しない場合も多々ある)美という感覚は「肉体的な刺激のみで生成されたのか?」と言えるでしょうか。

プラトンは美を、イデア界という目ではとらえられない世界と数学的に定義しましたが、これは肉体的な反応から美意識が生じているという事を指していませんね。

以後、他の回答者が言うように、カント的な考えから自由意志や脳科学がありますが、合理的な検証のみで「心=脳」と断定することは科学的な解釈に過ぎません。科学は哲学の道具として万能ではありません。人間が魂の入った肉の器というふうに分解して科学的に証明され、合理的に多くの人間が納得しても、「合理的」とは理性を疑う姿勢ではなく、思想足り得ませんよ。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

>感覚は「肉体的な刺激のみで生成されたのか?」と言えるでしょうか。

それも、まずは視界から脳に情報が入り、その物体を万人に共通
とは言えませんが、その人なりに物体を認識すると思います。
その後、美しいとかって思うのは脳の記憶が働き何らかの物理現象が
再度、瞬時に起こり「美しい」と思う感情が生まれたとは考えられま
せんか?

人によってある物体に対するイメージの感情の違いは
脳の記憶に関係があり物理現象として現れるとは考えられませんか?
多分、考えられないんでしょうけど、どうなんでしょうか?

こんな事を言ってますが私も心身二言論の方が夢があって
好きなのですが…

お礼日時:2007/10/23 00:00

二元論であっていると思います。


逆に物質があるかどうかが疑わしいです。
目の前にあるものだって何かしら意識化されているわけですよね
そうするとそれは心的次元であって決して物質次元ではないことを
意味しますよね
そう考えると逆に物質であると考えるほうが変ではないかと思います
また物質であると決めているのは我々の心であって我々の心無くしては
物質と定義することすらでません
心というのが科学的に脳の働きの0.何秒か後に意識が働くという
事も分かってきていますがそれも結局意識の世界で起こっていること
を科学的に検証したに過ぎないわけであって結局心の世界から解き放
たれないという現象に至ってしまいます
そう考えると二元論というのも疑わしく精神一元論の方が絶対であって
二元論というのは仮説でしか過ぎない事になります
無論質問者さんが仰る物質一元論はそう考えると不可能理論と言う
事になると思います
あくまで我々は外界に何か在るだろうという仮説で行動しているに
過ぎないのです
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

>また物質であると決めているのは我々の心であって我々の心無くしては物質と定義することすらでません

それらは人間の知識(脳の知識)があるから物理と見なす事が
出来るとは考えられませんか?

無知なばかりに見当違いな事を言ってたらすみません。

お礼日時:2007/10/22 23:49

>「心とは脳の働きから生まれる物理現象である」と考えるのが合理的



心は抽象的概念ですが、包括的に物理現象であると推定できますし、合理性も見いだせます。しかし、各論として集合的深層心理、共時性を脳内の現象として推定できる根拠は、見いだせていないでしょう。

それに、心とは何かを問うに当たり、脳内の物理現象であると結論づけても、「心とは?」の問いには答えていないように思いますが・・

心は物理現象なのだから、いわゆる精神的現象ではないという合理性を貫き通すのでしょうか・・
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

申し訳ありません。
あまり詳しい言葉をわからないのですが集合的深層心理
と言うのはフロイトの言う無意識領域の事ですか?
だとしたら無意識領域が原因となれば本人が意識がなくても
物理現象として何らかの動作や言葉を発する事は出来ると思います。

>心は物理現象なのだから、いわゆる精神的現象ではないという合理性を貫き通すのでしょうか

対して勉強もしてない私が言うのもなんですが今の所
そう考えても問題はないのかなと思っています…

お礼日時:2007/10/22 23:44

脳でない場所にある心なんて、たとえあったところで「私の」とは言えないので関係ないです。

過去の症例や実験から、脳に記憶があることは確実ですし、脳が破壊されれば記憶は物理的に失われます。そうなると、「脳にない心」は「記憶」と切り離されざるを得ないということになり、必然的に自分のものとは言えなくなります。(名前や言語などが失われますから)

ここで背後世界を作り出すのはナンセンスです。心で脳を動かしている、心で脳の動きを感じているとすれば、その心は何によって心を感じ、動かしているのかが次の問題になります。これが解決したとしても、さらに心の心は何によって…と続くことになり、以下は無限背進。

つまり、仰るように「心とは脳の働きから生まれる物理現象である」と考えるのが最も合理的でしょう。たとえ心が脳を動かす側のものだとしても、物体である「脳」を動かすためには、エネルギーのやり取りが必要であり、それができるのは物理現象だけです。

我々の体は物体である、ということに注目していれば、それを動かす側も物体でしかありえないと容易に結論付けられるかと思います。よしんば科学力不足でいまだ知りえない物理現象だとしても、それがエネルギーを備えているのは、「仕事をしている」(この「仕事」は物理学で言う「仕事」です)ことから明らかです。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

私も物理現象として考えられる気がします

お礼日時:2007/10/22 23:39

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