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反董卓連合に参加していた孫堅が洛陽を制圧して、董卓が長安に遷都したとき
献帝が逃げ出して、その献帝を孫堅が確保していたら
その後は、どんな展開が考えられたのでしょうか?

A 回答 (4件)

たぶん、三国志演義を読んでの質問かと思います。



小説だけ読むとわかりにくいのですが、後漢は特定の家柄でないと出世できない一種の貴族社会でした。
三国志の前半で、袁紹・袁術が活躍するのも、袁家が三公と呼ばれる最高級の大臣を何人も出した名家であるからです。

仮に董卓との戦いで史実以上の戦果を上げたとしても、地方の田舎豪族にすぎない孫堅は、やはり袁術の配下になっていたと思われます。(献帝を袁術に譲り渡して、その代わりに官位か土地を得る)

そうなると、曹操ではなく袁術が献帝を確保することになりますので、曹操の代わりに袁術が台頭し、さらには袁紹との間で親戚どうしの戦いになるかもしれません。

この回答への補足

しかし、まだ董卓が長安に健在なのは史実と同じですが
このあたりは、どうなるのでしょうか?

補足日時:2007/10/31 10:31
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「その献帝を孫堅が確保していたら」


そのような史実が存在しないので、回答は不能です。

以下は余談になりますが、No1さんが指摘されるように、後漢の社会では「出自」というものが非常に重視されました。例えば、孫権の下で周瑜が活躍したのは、彼自身の勝れた能力と共に、周家が、三公を輩出する「名家」と自他共に許す家柄だったからというのが大きく影響しています。

曹操も、宦官の孫とは言え、「漢の創業の功臣の子孫を称し、自分の父(夏候氏出身で宦官の養子となる)が三公の地位に上る」という、「一応の名門」です。「土豪」に過ぎない孫堅より遥かに地位が上となります。

ただし、曹操は、「成り上がり者」で「名門出身者に軽蔑される宦官の孫」ですから、「ホンモノの名門」である袁家や周家には大きく見劣りしますが。まあ、曹操の祖父が宦官になったと言うのは、「漢の創業の功臣の子孫かどうかは知らないが、子供を宦官にするほど貧窮していた」わけで、その父(曹操の曽祖父)は「貧民」といえる境遇だったと思われます。

そして、中原を制して後漢皇帝を保護し、魏公の地位を得た曹操の参謀と言われる人たちには、曹操の力が強くなるほど「名門」の出身者が多くなっています。代表例は楊修で、やはり三公を出した名門の出身です。

呉にも、中央の混乱を避けて土豪である孫家の支配地域に逃れ、その参謀になった「名家」出身者が何人かいます。張昭は、確かそのような人だったはずです。

諸葛亮孔明の一族は、魏や呉でも有名になった人を何人も出しています。三公を出すほどの家柄ではありませんが、「琅邪郡の諸葛家」は、「名家」として広く認知されていたようです。

長くなりましたが「土豪に過ぎない孫堅が後漢皇帝を保護したとしても、それだけでは何もできなかったろう」という結論はNo1さんと同じです。

この回答への補足

孫堅が献帝を確保しても無意味だったということですか?

補足日時:2007/10/31 18:15
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「曹操でなく、孫堅が献帝を確保したなら?」という質問なら、史実と違った展開があったでしょうけど


質問者様の前提では、史実とあんまり変わらないと思います。

理由ですが、質問者様の前提ですと反董卓連合軍(ゲームっぽい書き方ですが)は解散されていない状態ですよね?
そうなると、対董卓戦は反董卓連合軍の勝利となり、袁紹を執政とした後漢王朝の再建となったんじゃないでしょうか?
また、董卓陣営は献帝を失ったことで、呂布と董卓の訣別はなかったかもしれず、呂布を従え西涼の一勢力として存続したかもしれません。
献帝が洛陽にいるという事で、長安の民は洛陽に戻ったかもしれません。

そして、質問者様が本題とされている孫堅(孫家)ですが、論功行賞である程度の評価は得れるでしょうが、結局は江南の一勢力である事は変わらないと思います。
袁術との遺恨もありますので、その後の劉表戦もあるでしょうし、江南の歴史は史実どおりの流れになるかと。

この回答への補足

孫堅が献帝を擁立するのは不可能だったのでしょうか?

補足日時:2007/10/31 18:17
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>孫堅が献帝を擁立するのは不可能だったのでしょうか?



まあ無理だったでしょうねえ。全体から見れば孫堅は中小勢力です。反董卓勢力で一番家柄も実力もあるのは袁紹ですから、袁紹から「献帝をよこせ」といわれたら逆らうのは難しいと思います。そのほかにも袁術でさえ孫堅より勢力が上ですから、野心にまみれた連中が献帝をつけねらったら維持することは不可能だったと思います。
そもそも当時において献帝がどの程度利用価値があったのかがちょっと不透明ですよね。もし献帝が詔勅を出してみんながへへーっとひれ伏すならそもそも後漢があれほど乱れることはなかったのですから、献帝には実質的な価値は皆無だったといえるでしょう。曹操は優れた政治家でしたから、献帝を存分に利用することができました。これは日本の織田信長もそうですよね。足利義昭は信長に追放された後毛利家を頼りましたが、それ以降歴史の表舞台に立つことはありませんでした。毛利家に行った後もお手紙はあっちこっちに出していたみたいですがもう誰も相手にしなかったんですね。
それと同じで、仮に孫堅が献帝を確保したとしてもそんなに大きな影響はなかったのではないかと思います。袁紹に力量があったら官渡の戦いで曹操に勝っていたと思うので、いずれ曹操が献帝を確保したような気がします。

この回答への補足

孫堅が献帝を擁立するのは不可能だったということであれば、献帝を処刑するという選択もあったのではないでしょうか?
董卓の傀儡だったということは、暴政に対して共犯ということにすれば
献帝を処刑する口実もあったのではないでしょうか?

補足日時:2007/11/02 09:27
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