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私は死刑についてかなり奇抜な考えを持っております。
それで、その考えを友人に話したのですがかなり引かれました。
やはり私の思想は少しおかしいのでしょうか?
どうか感じたことを教えてください!

まず、私は基本的に死刑否定派です。
ただその理由は「どんな理由でも人を殺してはいけない」という類のものではないのです。例えば殺人犯の被害者の家族が犯人を死刑にしてやりたいと言うとします。
ここで私は「殺されたから罪を償わせるのにその犯人を殺してしまったら結局してること同じじゃん」と思うのです。
つまり殺されたという理由を付けて殺している・・・というのでしょうか?
死刑にしてしまったら憎くて堪らないはずの犯人と結果的に同じことをしていると感じるわけです。
だからそれはおかしいだろ、と・・・。

勿論それは私が実際に大事な人を殺されたことが無いからでしょうし、ただ理屈をこねているだけでしょう。(もしご覧になられている方でご家族を失くされた方がおりましたら、わかったようなことを言って、本当に申し訳ありません。)

ただ、もし誰か私の大切な人が殺されたとしたら、私は犯人に死ぬより辛い苦しみを与えたいと思うと思います。
例えば爪をはがすとか、足に釘を打つとか、まぁいわゆる拷問ですね。(勿論認められないでしょうが)。
そしてその後一生苦しんで欲しいです(苦しめたいというより苦しんで欲しいです。心であれ肉体であれ何かしら痛みを感じて欲しいです。)

私本来は基本的には、(例えば)デスノートで言うならキラ派なのであくまで死刑自体に抵抗があるわけではなく、「殺人に対しての憎しみを殺人で晴らさせるのはどうかと思う」と言うことです。


長々と駄文を読んでくださったみなさま、ありがとうございます。
生意気でわかりにくいことばっかり書いて申し訳ありませんでした。

A 回答 (8件)

私は別に法学を専攻していたものではありませんが、死刑については


関心があるので私なりに諸物を読みました。

考えかたではないでしょうか?目には目を歯に歯をではなく、
矯正の余地があるか否かです。刑務所は罪を償うところと考えられて
おりますが、それと同時に矯正するところでもあります。
間違いで罪を犯した者が裁判所で確定された刑期で矯正し、
また社会復帰をしていく。
しかし、死刑囚の方の犯した罪は矯正の余地がないので、
極刑をもって裁かれると言う考え方はいかがですか?

自分の大切な人間が殺されたりして誰も冷静ではいられません。
確かに容疑者が極刑になっても失った者は帰ってきません。
だれでもわかってると思います。しかし大切な人間が殺されて、
懲役15年とか打たれて、15年後にまた塀から出てきて同じ事件を
繰り返さないと断言できないのではないでしょうか?
外国のように懲役200年とかっていうのもあるようですが、
その200年間、私達の税金で食事したり、テレビ見て笑ったりしている
のです。それは許せますか?
私は許せません。極刑をもってとまでは言いませんが、
極刑と同等の苦しみや反省をさせる方法で償うべきです。

ある残酷な殺人事件があって、犯人が未成年という事で少年刑務所に行きましたが、たかだか数年でを出所し、
被害者の家の近所で高級車に乗り、また暴力事件で逮捕されたと言う
事件がありました。
そういう人間を見ても死刑否定はできません。
つまりは刑務所でも矯正しきれていないのが現状のようです。
全ての人間に人権があるという事ですが、被害者の人権は無視され、
殺されたのです。
…難しい問題です。私は否定も肯定もできませんが、どちらかと言えば
肯定かな…と
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法哲学を大学で専攻した者です。



全然、過激じゃない(笑)!過去の哲学史で、議論しつくされたテーマです。

私は、死刑にも反対だし拷問にも反対です。

理由は簡単です。まず、「目には目を、歯には歯を」に代表されるような、被害者による加害者への復讐という要素が入っていると、復讐の連鎖という問題を引き起こす可能性があります。AさんはBさんを殺した、Bさんの父であるCさんはAさんを殺して復讐した、Aさんの父であるDさんはCさんを殺して復讐したという連鎖になってしまうからです。近代法の大原則のひとつは、復讐の連鎖を断ち切ることです。

次に重要なのは、近代国家においては、刑罰を課す機能は、国家のみに集中しているように法設計がなされている点です。刑罰の執行権を国家ではなく被害者遺族にも認めてしまうと、私刑(リンチ)が増え、収拾がつかなくなります。かつてはヨーロッパにも日本にも、国家の法が通用しない場所が残っていて、例えば日本では駆け込み寺という制度があり、犯罪者をかくまうことをしていました。ヨーロッパでも同じ思想のアジールという制度があったし、大学の中には国家の法は通用せず、学生どうしが決闘をしても罪に問われることがないばかりか、決闘は学生の特権であるという、なんだか良く分からない制度もありました。こういう、国家法が及ばない分野を全廃することによって、初めて「法の下の平等」が確保されるのです。「法の下の平等」が重要原理であることは分かるでしょう?これを守るには、刑罰を課す機能を、国家に集中させ、刑法における拡大解釈を禁止するしか手段がないのです。

(通常、民法では拡大解釈を許容しますが、刑法では拡大解釈は禁止事項です。これは罪刑法定主義と言って、ドイツで作られた原理であり、日本はこれを厳格に守る国です。刑法に拡大解釈を認めると、国家権力が都合のよいように反対勢力を恣意的に逮捕・処罰できるようになってしまい、思想の自由が確保できなくなります。ナチス刑法に拡大解釈を許容する一般条項があったという点を見るだけでも、刑法に拡大解釈を許容することの恐ろしさが分かります)。

最も重要なポイントとしては、近代国家では刑罰は復讐であるという古い原理は捨て去られており、判決は本質的には被害者・加害者間の和解であるという思想が存在することを挙げることができます。これについては、日本ではおそらく異論が多く、犯罪者に対する刑の厳罰化や、法廷で被害者が発言する機会の確保や、死刑制度の存続を求める声のほうが多いと思われますが、私個人としては、このような傾向は正しいことだとは思っていません。そもそも、復讐の連鎖という現象はヨーロッパだけのものだけではなく、仏教にも、親の因果が子に影響するという悪循環は断ち切らなくてはならないという思想があるのですが、どうも、大多数の日本人は、これを忘れているような気がします。

なお、現在の懲役刑は、もともとイギリスで始まったもので、「労働者が足りない!」という状況の中で、受刑者に労働を課すようになったのが始まりです。現在の日本の懲役刑は、基本的には同じ思想で出来ていますが、受刑者を強制労働に投入するのではなく、犯罪者の社会復帰をささえる職業訓練に労働の性格が変わっています。これは日本人として誇ってもよいことで、日本ほど刑務所の待遇がよい国はまれだと思います。イスラム教徒のために、わざわざ食のタブーを回避した特別食まで出してくれるのです。

結論:
(1)死刑制度は復讐の連鎖という過去の遺物の生き残りであり、早急に廃止して、別の刑罰に変えるべきである(例えば、懲役200年、とか)
(2)懲役刑は罰を与えると共に、犯罪者の社会復帰を支える制度である。この理想を、日本は見事に実現しており、変更の必要はない
(3)拷問は絶対に反対。これも復讐の連鎖のひとつであり、かつ、刑事罰を課す権利を国家に集中させるという近代法の原理に反している

ひょっとして、世間的な常識から言えば、私のほうが過激なのかな?でも、日本の法制度は、理論上は、こうなっているのです。少なくとも、ドイツやフランスの影響下にある学者の間では、これが常識です(イギリス、アメリカ、オーストラリア等の法律は、別の原理で出来ています)。
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はじめまして。


期待していたほど過激ではありませんね(笑)。
8839さんが何歳なのか分かりませんが、ひとつご忠告申し上げるとするなら、死刑についてでもなんでもいいですがを人と話をするときに「考え、論理、思考、感情、思い、思想」などの言葉をごちゃまぜに使用すべきではないと思います。
何かを述べたいときにはそれが自分の(或いは誰かの)感情なのか、理論的帰結なのかをよく自覚してしないと、混乱が生じますよ。

さて、犯罪者の行う殺しと国家の刑罰としての殺しは同じく悪だと感じる、又は考える人というのは割とたくさんいると思います。ゆえに私はおかしいとは感じません。いくつか議論はできますが。
私の意見ではありませんが、
殺人を犯した者は、被害者を殺した。
一、その時点で加害者の彼/彼女は他の人から自分が殺害されることも認めねばならないはずだ、というもの。
二、彼/彼女にそんな決定を下す権利は皆無である。国は、社会をよりよく維持管理するためにその脅威に対処することができる。よって死刑は是、殺人は非。
三、被告人は裁かれ死刑に処された。そう、同じ殺人であり、国家はつきつめれば犯罪者と本質的に同じことをしている。目的と主体と裏付けによっては容認される殺しがある、というだけのこと。どこか変?
たとえば、このような論理に8839さんはどう返します?
ま、感覚的な「おかしくない?」には論理でたちむかえませんので、それはどうしようもないですが。

生意気でもわかりにくくもないですよ。ただ、文脈が前後で随分混乱してますね。デスノートでキラ派、というと「社会全体を向上させるためには一人の傑出した人物の裁定によって犯罪者を社会からずばずば殺し消すも是である」という考えだ、と私なぞはとるのですが、これだと8839さんの感情にも考えにも合わないのでは?「殺人に対しての憎しみを…」と「殺されたから罪を償わせるのに…」も、論点として別の話ではないでしょうか。
配慮のある文を書こうとなさっているのは、とても良いことだと思います。
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死刑を考えるとき、幾つかの側面を持ってみるべきです。


私なりに考えてみました。以下の側面に着目しました。

一つ目は、人権という側面です。
二つ目は、冤罪(あるいは刑が実際より厳しすぎたり緩すぎたりすることもある、つまり裁判官の裁量の問題)などの側面です。
三つ目は、復讐の妥当性です。
四つ目は、経費の面です。

一つ目が最も肝心なところでしょうが、私は人間に生存権がある限り、死刑は矛盾し続けると考えています。

二つ目は、裁量のぶれや冤罪により、もともと死刑には当てはまらない人間が死刑にあう可能性を示唆するものです。これは死刑と終身刑あるいは無期懲役は何が違うのか、この境界線がはっきりしない限り、よく考えなければなりません。

三つ目は、そのものズバリですが、死刑が復讐であれば、復讐に関与した人も罰する必要があると考えられます。復讐は負の連鎖を呼び起こすことは、古来より知られており、復讐をすれば、国家権力は何がしらかの刑罰を復讐者に対して与えてきました。また、マイナーな意見ですが、上記を満たす場合に限り復讐権を認めるべきという意見もあります。

四つ目は、残酷なことをして死刑に匹敵すべき人を寿命が尽きるまで、生かしておくことははっきり言って税金から無駄金を払っているようなものです。これは一つ目、二つ目の論点とつながるところですが、死刑に匹敵すべき人間に生存権を与え、国に生命の安全と獄中での安住を権利として与えることが果たして妥当であるかという点にも課題があることになるでしょう。

よって、一~三では、死刑を否定的に捉えましたが、四つ目で死刑をある程度肯定しなければならなくなりました。

つまり、死刑は現状では否定できないが、軽々しく死刑を下すべきではないという状況なのでしょう。

世界では、死刑廃止国とともに死刑が刑法に記載されているが長期間死刑執行を行っていない国もあります。

少なくとも、死刑を執行する際には、一定の考えの下行われるべきではないかと私は考えています。死刑執行には法務大臣等、関係する行政期間の判断で行われており、つまり行政により判断されています。法務大臣の考え方や、担当者の考え方次第で随分違うものだと思っており、ここにはやや問題があるのではないかと私は考えています。
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>死刑にしてしまったら憎くて堪らないはずの犯人と結果的に同じことをしていると感じるわけです。


これが理由の死刑否定派なら簡単です。
法律では人を殺してはいけません。殺人犯は法を犯しています。
死刑は法によって処されます。どこが同じなのでしょう。感情論は関係ありませんが。
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私も以前は、質問者さまと全く同じ考えでした。


でも、人生の折り返し地点を過ぎた今では、死刑肯定派です。

遺族してみれば、最愛の人はこの世にいないのに、犯人は生きている・・・。
犯人と同じ空気を吸って、遺族自身も生きていかなければならない・・・。

生き地獄を味わい、生きて償って欲しいと考える遺族もいると思います。
でも犯人は生きている限り、恩赦で刑が軽くなったり、病気で治療が
施されたりと、状況が変わる可能性があります。

死ぬより辛い苦しみ・・・だれがそう判断し、誰が実行するんでしょう?

『極刑=死刑』だと思います。
死をもって償わなければならないほどの罪を犯したんですからね。
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なんというか、過激と言うよりも幼稚な感情論に見えます


たぶんお友達もそれが理由でドン引きしたのでしょう

たいそうな事と考えてそれを示したのでしょうが、内容があまりに未熟であり
無責任な感情にまかせた論法ですよね

死刑制度を廃止している諸外国の例をよく調べてみましょう
一般社会と永遠に隔離されることを死刑の代わりに行なっています
たぶん「目には目を、歯には歯を」で有名なハンムラビ法典を引き合いに出される方もいらっしゃるでしょうが
これは犯した罪と同じだけの罰で相手を許せと言う意味合いがあります
人を殺めたのであれば死を以って償うのではなく、死を以って社会から追放されるべき
と意味を考えているようです
死ではなく追放の部分に重点を置いていますね


自分は、拷問で全てが許されるような刑なんてあっちゃいけないと思うんだ
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法律論ではないので参考意見です。


私個人は、

>ここで私は「殺されたから罪を償わせるのにその犯人を殺してしまったら結局してること同じじゃん」と思うのです。

これには同意見だったりします。後述の通り理由は違いますが。
後の拷問云々は同意しかねますが、「結局、国家権力を頼みに殺し合いをしているだけでしかない」と考えているわけです。
と言っても、実は私は死刑反対派でもなかったりします。もっとも積極的な肯定派でもなく、つまりは、どっちでも良い派です。

矛盾しているように思うかもしれませんが、私の考え方では「刑罰とは個人の復讐のためにあるものではない」ので「遺族等の復讐感情を満足させるための死刑は結局単なる殺し合いと同じに堕する」と考えるもので、刑罰はあくまでも「行為の責任をどのように取らせるか」という問題であって、その発想からは責任の取らせ方として死刑という選択を直ちに否定はしないというだけのことです。
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