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南京や慰安婦論争で素人に矛盾をつかれることが仮にあるとすれば、何万人の歴史一本何十年研究にこれまでの積み上げられてきた歴史とは一体なんだったのですか?

A 回答 (10件)

 『歴史』が物語、という側面を持つからです。


 歴史は個をさまざまな集団に帰属させるという機能を持っている(もたされている)ため、国が国史を持とうとするように、学校であれば校史があり、会社であれば社史というものを編纂してその成員を集団に帰属させようとする訳です。
 さらに噛み砕けば『歴史』とは都合のいい思い出の共有にしかすぎないのです。なにしろ思い出なのですから、昔の知り合いに「お前とは仲良く遊んだよなぁ」と、懐かしげにいわれてもその実、自分にとっては散々っぱらな目にしか遭っていなかったということは珍しくありませんし、逆に「学生時代ほんっとよく遊んだよねぇ」なんて旧友の肩を抱いたら「えぇ? そーだっけぇ?」なんて怪訝な顔をされたり、なんてことと同じで、誰もが主観的には『いいひと』だったりするのと同じことなのです(主観的にいいひとじゃなくなったりすると鬱病です)。
 ですから、客観的な視点を持てば都合のいい思い出なんてのは突っ込みどころだらけなのはせんないことというところでしょうか。
 ましてや、「われわれは地上で最も忌むべき種を始祖として生じ、ありとあらゆる生物から蔑まれつづけて今日まで永らえてきた」なんて歴史を持つ民族なんていないでしょ。大仰な自惚れの大伽藍が歴史であるといういいかたができなくもありませんね。
 で、物理や数学──科学全般といっていいかもしれませんが──は、物語とは対極の位置に存在している知性のありようで、究極的には主観など存在しなくても成立するのが科学というものなのです。また、科学を紡いでいるのは数学や物理学の諸法則で、これを感覚的に受容しがたい人が少なくないため素人が排除されるように感じられるのではないでしょうか。しかし、案外多くの科学的発見が素人の手によって成されていることからも、まるきり素人さんお断りの世界ではないことは確かなようです。
 質問者さんが例に挙げた南京や慰安婦論争でも、『歴史』を物語として自分が属する(属していたら安心できそうな)集団に都合のいいように語ろうとするか、科学寄りのアプローチで客観的な資料の積み重ねによって事実関係の流れを確定させようとするかで、まるきり語り口が異なる訳ですし、前者ならば物語の解釈だけなので素人でもそれなりの講釈を垂れることができます(信長=俺な会社経営者とか)が、後者ならば素人が関与できる余地はさほど多くないというところでしょうか。
 余談。
 先に物語ありきでそこに都合のいい資料をはめこんで物語をさももっともらしげに語るという絵のお上手な思想家っぽの方もいらっしゃいますが、彼がこうした手法をとる限りにおいては彼の標榜する姿勢に反して卑劣、と断ずるべきでしょうか。それとも、同じ手法で粗雑な嘘を垂れ流す向きの多さを歎ずるべきでしょうか。
 ううむ、ほんとに余談だ。
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歴史は、自然科学のように実験的に確かめられるとは限りません。


人それぞれの解釈や、ときに『思いこみ』が入ります。

本人の希望に必ずしも歩み寄ってくれない自然科学では、
『客観』はあくまで『客観』です。
しかし『歴史』などにおける『客観』は、
ときに『主観の複数形』だったりすることがあります。

特に、同様の解釈を持つ者で派閥をつくり、
それ以外の認識を異端視したり、
ときに政治的な意図が認識や解釈に影響を与える場合は、
矛盾を内包したまま主観的解釈だけが一人歩きすることが多いです。
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>素人でも話せる歴史って素人が自動的に締め出される物理や数学と比べて


>南京や慰安婦論争で素人に矛盾をつかれることが仮にあるとすれば、何万人の歴史一本何十年研究にこれまでの積み上げられてきた歴史とは一体なんだったのですか?

物理や数学でも、素人に矛盾をつかれることはあります。
歴史も物理や数学もわたしたちが直接体験できる現象ではないからでしょう。

ただ物理や数学物理や数学のほうは、人為的ながら厳密に構築された「モデル」があります。
その矛盾を正しく突くことは、その「モデル」によほど精通していないと不可能です。
見当違いな論議を提示しても、インチキがバレバレになり易いわけです。

歴史でも、史料の吟味をはじめとして素人の手に負えない領域があります。
ただ生半可な玄人もどきが物理や数学のケースより多いようで、その尻馬に乗った見当違いな論議も多いような気はします。
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質問者様が聞かれているのは「こう思います」と根拠を示さずに回答する人が歴史カテゴリで目に付くのはなぜ?ということですね。

確かに、南京事件、慰安婦、強制労働、遊郭の質問などではそういう人が目に付きます。

私は歴史カテゴリで回答する場合は、可能な限り根拠となる本を示し、本の名前を思い出せない場合は「書名は失念しましたが、こんな本」と示します。

WEBサイトを示す場合は慎重になります。公的機関、大学などのWEBサイトは、本と同様に使用しますが、信頼性が保証され得ないウィキペディアは本の情報を補完するためなら使うことがあります。本を写しているのが普通の個人のWebは「史跡の訪問レポート」以外は原則として引用しません。

日本史は大人なら基本的に概要程度は知っていますから、学校で習ったことプラスアルファの知識で回答する方が一定数出てくるのはやむをえない面もあるでしょう。

中には、
「歴史の教科書や本は、その時代や事件の特徴を際立たせて書いています。ですから、その特徴をさらに拡大して受け取ると、正常な判断ができなくなります」
と表明して、自分の経験を第一に、推定や伝聞を交えて回答する猛者もおられます。80くらいのご老人のようです。慰安婦の問題や、中国人強制労働の問題についてもそのスタンスで回答しておられます。

上記の意見は、常識では「ありえない」のですが、
「自分の経験したこと、その目で見たことだけが正しいと断言できる。次いで信じるべきは口コミ情報。教科書や本の情報は鵜呑みにするべからず」
という趣旨でしょうね。
ビスマルクの格言「愚者は自分の経験に学び、余は他人の経験から学ぶ」に真っ向から挑戦しているようです。
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No4です。


「蒼空の果てに」というHPがあります。このサイトを運営しておられるのは、海軍の予科練出身のパイロットとして特攻隊に配属され、終戦まで生き残り、戦後は航空自衛隊の補給担当の幹部になって退官された方です。「特攻で散った同期生、お世話になった教官などを顕彰する」ために、HP作成に加えて

* 図書の執筆・出版。自費出版も含まれる様子です。
* インターネット掲示板の運営。
* インターネット掲示板への投稿。
* 地元紙などマスコミへのアピール、取材対応。
* 外国の帝国海軍研究者との交流。

など、「身銭を切っての」可能な限りの手段を用いておられ、私は深く敬意を持っております。ただし、この「教えてGoo」では「実名を出すこと、自分のサイトへリンクを貼ること」などは禁止ですので、仮に参加しておられるとしても匿名の筈ですが。

こういう方が「歴史の生き証人」として真実を語り、若い者の質問にネットで直接答えてくださるのは実に有り難い事です。

この方は海軍では海軍上等飛行兵曹の階級で終わられたわけですが、「下士官兵出身の証言者、ネット等で現役で活動しておられる」
という点でも極めて貴重な方です。

手紙を原則自由に出せるなど自由があり、記録を残すことも容易だった准士官以上、特に学生から予備学生などで海軍士官になり、戦後は一般社会に戻った人(代表例:阿川弘之氏)などと比べ、下士官兵は手紙を出すのも制限され、特に特攻で散った方は「真実の気持ちを書いた遺書」を残せず、辛うじて残っている遺書は、本心を伝えるものではないようです。

「蒼空の果てに」の主宰者様が「特攻で散った同期生の遺志を代弁する」ことにありとあらゆる努力を重ねておられるのも、それが大きな理由の筈です。これは以外に知られていない事実です。ここにおられる方はご存じの方が多いでしょうか。

こういうことは、商業メディアや研究教育機関による「歴史」に含まれそうで含まれにくく、放っておくと消えてしまう可能性が大…と言えましょうか。ご質問とはややずれますが、ご参考まで。
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単に「勘違いさん」が増殖しやすいということでしょう。


歴史学は、確かに素人でもとっつきやすいですが、実証的な研究となるとやはり「素人さんお断り」です。
素人が「研究者が見つけることができなかった矛盾を見つけた!」なんて大はしゃぎで自慢することがありますが、プロの研究者から見れば「そんなこととっくに、30年も前から知ってる、素人が陥りやすい勘違いだよ」って指摘される末路をたどります。
そこで勘違いしていた素人が素直に反省すればいいのですが、数学と違って歴史学は自分の間違いを認めず、「私だけが真実に気づいた!研究者は馬鹿だ!」と勘違いでつっ走ってしまう場合がかなりの部分であります。
数学や物理学と違い、「問題が誰にでも分かる」ということがあるでしょう。(数学や物理学は素人には問題の意味すらわからない)


なお、歴史学に比べれば目立ちませんが、数学や物理学にも、こういう「勘違い」さんはかなりいます。
何百年も「フェルマーの定理を証明した!」って言って数学者に自分の「証明」を送りつけて、数学者に無視されたら「素人でも分かる証明を見つけられなかった自分が恥ずかしいから無視したんだ!」と暴走する人は数え切れないほどいましたし、
今でも「相対性理論は間違っていた」なんて言い出して物理学会に乱入する困ったさんはいくらでもいます。
(「南京事件は幻」とか言い出して歴史学会に乱入する人となんら変わりはありません)
そういう勘違いさんの本を大手出版社が出版してしまうこともあるから困ったものです。
http://www.amazon.co.jp/%E3%80%8C%E7%9B%B8%E5%AF …

参考URL:http://www.asahi-net.or.jp/~FT1T-OCAI/jgk/Jgk/Pu …
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あと物理などでは研究対象が物や概念であるため、どれをとっても単なるサンプルでしかないのが、歴史では対象が、善と悪、勝組と負組、責める側と責められる側、という図式とイメージにわかれてしまう。

それが人間の生活であり、歴史だからではないでしょうか。

沖縄戦での一般民の自害の問題も、日本兵は悪であり責められる側、沖縄の市民は善であり正しい側、という図式と思い込みがあるため、長らく国の遺族への補償金がらみで真実があかされなかった。その部分を知らずに旧日本兵や軍を責めた大江健三郎氏がいるのも、そして今世紀になって彼への訴追がおこったのも、この間違った図式の善側に確固たる証左もなく彼がついてしまったからです。
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近代は記録技術が進んだので、いろんな資料が残っていますよね。


歴史って言うのは、最終的には価値観でしかない…主観の正当化だから、反対の主観を持つ人からその人の資料によって別の主張が出来るっていうことなんじゃないかと。
物理や数学は、主観の入り方で結論は変わりませんからね。

日本なんかだと明治時代以前の歴史なんていうのは、戦争勝利者の都合のよい記録しか残っていませんから…正しい歴史って言うのはどこを探して検証していくのか?って事になりますよね。
でも、多くの人が過去に何があったのか?なぜその事件が起きたのか?っていうのが記された資料が新しく発掘されてコツコツと集まって、歴史一本何十年の積み重ねになって、本当の歴史は「こうだったのようだ」と言うのが明らかになりつつあるようです。
例えば、過去はピラミッドは奴隷が鞭打たれながら作った…っていうイメージばかりが先行していたのが、いまではアレは公共事業だったらしいって言う方が一般的に受け入れられていますよね。
一般に事実のように思われているエピソードで、実は作り話だった、実在していない人だった、そんな事件は無かった!って言うのはたくさんあるようです。
近代であれば、残っている資料が多すぎで判断を主観次第で選べる事もあるんで、全く正反対な主張が対立しちゃうんでしょうね。自分の都合のいい資料だけをお互いに使うもんだから。
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歴史学者は、物理的に失われた過去の証拠を保存するという実はすごいことをやっていると思うのです。

過去というのは如何に現在に物的証拠があったとしても、過去はどこにもないのですから確実性は物理学者のそれにはどうしても負けてしまいます。物理学上の過去は実験で再現できますが、歴史学上のの過去は再現不可能ですね。

にもかかわらず、歴史を保存することは、それ自身が人類なり民族なりを存在させるに不可欠だからでしょう。
なぜなら、歴史つまりは過去の記録や記憶がなければ、自分でさえ自分が誰だか分からないからに他なりません。

ご質問の論争での解釈の対立や変化は、素人であれ、専門家であれ、今生存する人が大いに議論を戦わせることでよろしいのではないでしょうか。自分の思い出を思い起こして、果たしてあの時の自分の真意はどうだったのかと内省することは、時として必要なことだと思います。
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「歴史」は素人でも語れますが、「歴史学」は素人には難しい作業を伴います。


「歴史学」や「社会学」は深い「思慮」が求められます。
何故なら、「自然科学分野」のように誰がやっても同じ結果が出る「客観性」が得られることは少なく、むしろすべての歴史は「主観的」だからです。
つまり、「歴史とは自然科学のように、普遍的な法則や真実など見つかることはなく、常に誰かの意志が入り込んでいるモノだ」と言うことです。
これをクローチェは「真の歴史とは現代の歴史である」と述べていますね。

歴史学は、誰かがその時代について書いた文書記録を基に、歴史を明らかにしようというのが基本となります。
なので、

1・誰かが書いたのだから、その時点で書いた人の主観が入る。(一次史料)
2・そして、その情報を読んだ人(歴史家)の主観が入る。(二次史料)
3・最後に、その研究者の論文を読んだ人の主観が入る。(私)

つまり「一次史料→二次史料→私」という風に真実が加工されていきます。
真実を知りたいと望む私は、「私→二次史料→一次史料」という風にたどる事になります。
もちろん、「私→一次史料」とする事は出来ます。
しかし、「私→真実」とすることは不可能です。
となると、どこまで一次史料や二次史料が真実を語っているかを見極める必要が出てくる。
その為には、第二、第三の一次史料・二次史料を参考に、それらの相違や正誤を精査していく事で、情報を真実に近づけていきます。
この過程で、考古学・古文書学・社会学・金石文学・民俗学etc,,,と歴史補助学と言われる学問の助けも借りて行われます。
こうして、出来るだけ「客観的」になるように努力がなされるのです。

ともあれ、歴史というのは「人間の主観」が入る余地が大きく、それ故に(「歴史教科書問題」に代表されるような)問題が多々起きる事になります。
「人間の主観が入る余地が大きい」というのは、同じ真実を語る場合でも、その人の「社会的・思想的・政治的な価値観」が(意識的であれ、無意識的であれ)入り、その結果余「歪曲・誇張・無視・捏造・偽造・誤謬etc,,,」が行われます。
なので、「社会的・思想的・政治的な価値観」に相違があるばあいに論争が起きることになります。
また、政治家や思想家、漫画家、作家、ジャーナリストなど、社会的影響力が大きいにも拘わらず、歴史学の訓練を受けたことのない人が発言した場合、それは「歴史の問題」ではなく「政治や思想の問題」にすり替わることが多いとも言えます。(見かけ上は「歴史の問題」ですが、、、)
そして、こうした「歴史学の訓練を受けていない人」は「歴史学者」のあげた成果のウチ、自分の都合の良いモノだけ「つまみ食い」します。
本来なら、歴史学者が声を上げて訂正しなければならないのですが、多くの場合「権力・権威・数」などの力で封殺されてしまい、それに対して多くの歴史学者は無気力となり、自分の研究だけに閉じこもってしまいます。
(逆に、声を上げる歴史学者は「扇動的だ」とか批難される)

つまり、「歴史」と「歴史学」は遊離していると言えます。
そして、一般人はその事にあまり意識的ではありません。
故に、「歴史問題」とは「現代の思想・価値観や政治的な問題」であることが多々あります。

参考URL:http://club.pep.ne.jp/~y.hosoya/booksreview/reki …
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