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ひとつ1本線がつながっているようなのですがどう思いますか?
というのも、岡本がテレビのパフォーマンスで、自分を戯画化したその本質(無知なる大衆への諦念と背を向けることへの嫌悪からの反発)と、超芸術に代表される赤瀬川派(銀座の清掃パフォーマンスとかやった人々)の「どうせ芸術派大衆化し堕落していくんだから、ここは先回りして、芸術ではないさらに落ちた物を芸術に祭り上げてしまおう!」という、いわば、芸術の高尚さを真っ向から否定する姿勢をとったことです。しかしその実、核心には「自分は確固たる芸術家である」という気概が見て取れます。

そういう解釈でいいんでしょうか?

A 回答 (3件)

神保町の美學校で赤瀬川氏の講義を聴講したものです。

まあ、社会人だったのでかなり欠席(というかサボリ)しましたが

少なくとも、赤瀬川氏は岡本氏を意識してはいないと感じました。話の中には出てこなかったと思います(全部は聴いていないので)。
超藝術が「芸術の高尚さを真っ向から否定する」動きであったことは事実ですが、これは、芸術の主体を制作者や評論家から鑑賞者に取り戻すムーブメントだったと思います。
その典型的なものがトマソンでしょう。もっとも、トマソンは、後期にはその超藝術的意味が大幅に変容してしまい、終息します(このあたり、書籍を見れば、初期と後期の落差は、ネタ切れとは別の意味で痛感します)。
「自分は確固たる芸術家である」というのとは違うと思いますよ。むしろ、それを疑うことが赤瀬川氏のスタートだったのだと思います。
それに「芸術ではないさらに落ちた物を芸術に祭り上げてしまおう」というシニカルな方法論ではなく、芸術とされていないものの中にも芸術性を見いだすことが鑑賞者の芸術なのだと思います(結果的に似た現象になってしまいましたが)。

一方、岡本氏のパフォーマンスは自らの中で完結しています。揺るぎない自信を感じるのです(本人の中野葛藤というのは知り得ないので)。鑑賞者を取り除いても岡本芸術は完結するでしょう。そういう点で赤瀬川氏とは正反対の方向性と感じます。
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この回答へのお礼

確かに、赤瀬川本人は著作を読んだくらいで、あまり意識していないと思います。「今日の芸術」の解説を確か書いていたのですが、そこに、「岡本が唱えた伝統からの脱出、庶民それぞれが芸術を発することの大事さ」が、20年後には(この解説を書くのがかなり出版から経ってから再版された物であったので)悪しき庶民性により、ただ単に奇抜なファッションを正当化することに利用されてしまった」と書いています。時代って恐ろしいですね。
トマソン廃れたわけはどうもまだ未読なのですがどういうわけでしょうね。
確かにかっこたる芸術でなく、芸術であるかないかわからないが、ともかく芸術的にしてみようという姿勢だったようです。
岡本のパフォーマンスはNO.2さんのお礼でも書きましたが、自らの作品の中に本人が入り込んで、自らをも作品材料にしてしまったと言う、無意識(意図的?)なメタ構造芸術になっていますね。

お礼日時:2008/07/28 16:25

どちらも年齢、その時々によって意図があったり無かったり、自分の好きでやりたいようにやっていると思うんですよね。

。。

「大人の修学旅行」とか「新解さん」とか、その着眼点が本人の芸術的感覚をベースにしていると言う事も出来るんでしょうけれど、赤瀬川さん自身はその時「面白い!」と思ったというのが大きいと思うんです。

明晰でユーモアがあって、思想があるというイメージも勿論間違っていないと思いますが、そうした「面白い」という感覚を第一としていると思うんです。。。

また太郎さんは太郎さんでその「直感的」なものだけではなく、やはりバランスを取っている、取らざるを得ないと思います。

個々それぞれ違いますから、表現の仕方は勿論違いますし、その個人も時や場所によって違います。
まあ、それを言ってしまうと論ずるものが無くなってしまいますが、二人がその作品、表現に於いてどこか攻撃的であるという共通点はあると思います。
どう言ったら良いか・・・。

「壊す快感」というものを共通して持っていると思うんですね。
そしてその「面白さ」を楽しんで見せてくれるという共通点はあると思います。

そこがある人達からすると「眉をひそめられる」所でしょうし、「力」を持っている、「本質的」と評価される所であると思います。
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この回答へのお礼

どちらにも非常に共感するものがありまして。しかもこの2人は、軽薄なようでそこが深い。それが本質的で決してごまかしてないようなのです。それが、年齢によって好き好きやっていると言う姿勢にもつなかっげいるのかもしれません。赤瀬川の「ギャグ性」というか「ベースとして面白みを」というのがありますね。ここはなにか人間肯定というか。
岡本はそのバランスと言うのが、自らのパフォーマンスを通して、自らの作品を大きく包み込もうと言う意図があったのかなかったのかわかりませんが、図らずも「メタ構造」的になっている気がします。言っちゃ悪いですが、あまり作品はうまくない(うまくないことを標榜していることをさし引いてもなおうまくない)けれども、自らの行いを重ねることで価値が出てくるのではないかと、そんな気もしました。
壊す快感は芸術の基本と考えていることが共通してますね。

お礼日時:2008/07/28 16:18

芸術への評価は個々人の感受性によって決まりますので、あなたにとっての解釈ということではそれでよろしいんじゃないでしょうか。


私の解釈では両人には根本的な違いを感じますが…。
ただ芸術というものには100点満天の解釈などというものは本来はありません。
作家の手から離れた時点から、作品は個としての主張を込めたものでも、受け手の判断に委ねられたものとなるからです。
作家が終生その作品について廻ることはできませんからね。
殊に岡本太郎さんの場合は、個人での奇行をパフォーマンスとして自分で楽しんでいるところがあり、赤瀬川原平さんの奇行には体制への反発という原点が見え隠れし、そういった意味では正反対ともいえるのではないでしょうか?
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この回答へのお礼

そうですよね。鑑賞者あっての製作者です。しかし、一方やっぱり製作者の純粋な思いうのもあるわけで、そういうのを取っ払ってしまって都合のいい解釈というのは一種の冒涜かなと感じてしまいます。

岡本の奇行はたしかに政治的ではないですよね。もっと泥臭いというか、根本的というか、人間性そのものを鍛えなおしたら?というメッセージの気がします。赤瀬川は、痛烈な政治体制批判を中核にしていますね(1000円札偽造裁判とか典型的です)
が、やっぱり、この方向性は違っても、かなり重なり合っているところはある気がして、それは、純粋さを貫こうっていうことだと思うんです。はい、トマソンとかあれってふざけているようで、ひどく生真面目純粋さの局地だと思うんですよ。茶道を徹底的に純粋にしたらああならないかなと。

お礼日時:2008/07/28 09:50

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