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一般の日本人が思い浮かべる忍者と言えば、”服部半蔵”の名前が浮かびますが、服部半蔵は忍者として傑出した能力を持っていたんでしょうか?(百戦練磨の強者とか)
武勇伝やエピソードの類をあまり聞かないのですが、もしかして忍者としてはさほど能力は無く、統率力に優れた人物だったのでしょうか?
立場としては、今で言うCIAの長官の様なものなのでしょうか?
ご存知の方がおられましたら教えて下さい。

A 回答 (4件)

特定の主(徳川家康)に仕えていた服部半蔵は主の表向きの家来が


功を立てるために影で工作をするひたすら裏方に徹した人物です。
なので、手間を省いて彼自身が暗殺した方が敵の首を取るには早いと
思っていても、表向きの戦で主力同士が戦って優劣を決しなければ
互いの領民が納得しまいと思った時には敢えて出しゃばらない道を
選びました。そういう意味では、裏方の役割にひたすら忠実であったと
言って良いでしょう。今風に言えば空気を読めるといったところでしょうか。
統率力に優れるには、自らの忍者としての運動能力ももちろん卓越して
いなければ部下は付いてきません。表・裏の世界を問わず部下の袖の下に
こそこそ隠れて命令だけ高飛車な統率者に信頼を置く部下などいるはずも
ありません。

この時代の他の忍者はほとんどが特定の主を持たない(現代で言うなら
フリーター)流浪者だったので、自分が役立つことを示すために派手に
経歴を記していわばリクルート活動を絶えずしておかねばならなかった
のですが、半蔵の場合は徳川家康という一貫した主君があったので、
目立つような記録を作る必要性がなかった(逆に言えば顔が割れすぎて
しまうと本来の活動に支障をきたす)のでしょう。

家康との信頼関係の厚さは、江戸城の完成後、半蔵が江戸屋敷を与えられた
地の正面の門に半蔵門という名前をつけて天下取りまでの苦労を遇した
事からもうかがえます。
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この回答へのお礼

ご回答有難う御座います。
成程、野球でいえば野村、星野、長嶋みたいなもんですね。
皇居の半蔵門の由来は服部半蔵だったのは知りませんでした。

お礼日時:2008/12/13 16:55

ちなみに、服部正成の父、保長を初代半蔵と数えるか否かで、正成を二代目半蔵か初代半蔵かで分かれると思います。


(No.3氏は後者の立場でしょう)
当方は『国史大辞典』の記述に沿って二代目と数えています
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この回答へのお礼

ご回答有難う御座います。
お父さんを初代にしないと可哀想ですよね。有名な忍者を作り上げたんだし。

お礼日時:2008/12/14 17:01

とりあえず、初代半蔵のことを答えます。



服部半蔵は家康配下の側近忍者として知られてますが、実は彼は武将であり忍者ではありません。忍者的な活動もしてません。そもそも彼の武器も手裏剣ではなく槍の名手でした。
そもそも皆がイメージする忍者(黒ずくめの衣装で特殊な技や超人的な動き)というのはほとんど後世の創作です。当時の忍者は「忍(しのび)」と言ってさまざまな変装をしてスパイ活動がメインで家康の傍にもたくさんいました。しかし武将である半蔵とはとくに忍とは関係ありません。
三河育ちの半蔵ですが生まれは伊賀なので「伊賀同心(伊賀出身の下級武士)」をまとめていた武将です。伊賀=忍者というイメージがついたようです。
半蔵は、徳川家の家臣の中ではトップクラスの立場ではないですが
「徳川十六神将」に数えられてます。
家康と同じ歳の半蔵を個人的に呼びつけ重宝したといいます。
ここからは私の憶測ですが、家康にとって苦楽を共にした同じ歳の半蔵は、忠実な部下と同時に何でも言える友であり、二人でこそこそした仲が「家康の忍」というイメージを増長したのではないでしょうか。
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この回答へのお礼

ご回答有難う御座います。
何か”陰の人”って感じですね。
初代って”正成”の父親ですか?

お礼日時:2008/12/14 15:39

ご質問の服部半蔵は「鬼半蔵」の異名を持つ、二代目半蔵(半三)の服部正成(まさなり)のことでしょう。


彼は忍者ではなく、徳川家康に仕えたれっきとした武将であり、徳川十六将の一人です。
16歳の初陣の際に伊賀者を統率して、三河宇土城攻めに戦功をたてて報償を得たといわれます。また掛川城攻め、姉川の戦、三方原の戦などに従軍し戦功をたてます。
天正16年の本能寺の変の際には、堺に遊覧していた家康を誘導し、伊賀を越えて伊勢にぬけ、海路で三河へと無事帰国させました。この功績で八千石が与えられ、関東入国の後には命により与力三十騎、伊賀同心二百名を支配します。

伊賀者とは伊賀の地侍の総称です。伊賀国は山に囲まれ閉鎖的な土地柄であったために、統一権力が無く土豪、地侍が小党分立して争っていました。その特技が夜討、放火、諜報などの忍びの術ですが、織田信長の伊賀征伐で壊滅されます。
家康は離散した彼らを厚遇したことで、前述の伊賀越えでは地侍たちは協力します。そこで家康は好意に応えて、伊勢まで同行した者を直参に、鹿伏兎までで引き返した者二百名を同心として取り立てます。

なお、服部半蔵家は三代目正就が不祥事を起こしたために断絶しますが、弟の正重が桑名松平家に仕えて、十二代目半蔵正義は鳥羽伏見の戦を始め、薩長軍相手に東北まで参戦します。

・『国史大事典』吉川弘文館
・「桑名市文化財保護審議会」
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この回答へのお礼

ご回答有難う御座います。
二代目?三代目?全員”半蔵”のミドルネームがついているんですか?
”服部半蔵”の名前ってコードネームだったんですか?
伊賀越えは有名ですよね。

お礼日時:2008/12/13 17:31

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