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本能寺の変の後、賤ヶ岳の戦いで羽柴秀吉が織田家の勢力を継承するまで、1年程度あったと思います。毛利輝元や上杉景勝などはその間、織田に奪われた領土を奪還しようとは思わなかったのでしょうか?もうそんな力すら残っていなかったのでしょうか?

織田家の力が柴田と羽柴で2分割されて、徳川家康もどっちにも協力しないで甲信で北条と戦っているような状況なら、毛利は羽柴と、上杉は柴田と、それぞれ単独で戦えるのではないのでしょうか?
あるいは、それまでに主力がやられてしまっていて、羽柴・柴田のそれぞれにも簡単にやっつけられてしまいかねない程弱っていたのでしょうか?

長宗我部も四国を統一したばかりで、畿内に乱入とかできそうですが。
そもそも北条、毛利、上杉、長宗我部などは、織田を100とするとどの程度力をもっていたのですかね?
石高だけ見ると、北条が一番強そうですが。

A 回答 (8件)

たまたま立ち寄った毛利ファンです。

なんで、毛利関係に対してはある程度の回答ができるのではないかと。
毛利は、本能寺直前でもういっぱいいっぱいです。
これは、兵農未分離の毛利軍に対し、兵農分離完了の織田家が季節お構いなしにガンガン攻めてきた事(なんかの本で読んだんですが、何の本か忘れてしまいました。ただ手元の毛利年表では、確かに頻繁に織田家の軍事行動が出てて、こりゃ兵農未分離じゃ対応できません!)
あと秀吉の調略によって宇喜多直家(五大老宇喜多秀家の親父さん)、来島村上通総(ゲームで有名な水軍大将能島村上武吉一族)、などなど挙げればキリがないほど織田方に内応していったことが理由です。
(最もこいつ等寝返ったのは兵農未分離で押されまくりの毛利見限ったのは間違いなし)
なんで、本能寺直前、備中高松城での毛利対秀吉軍の最終決戦では、毛利は水面下で和平交渉(と言いつつ実は降伏条件)の交渉を行っています。
・・・あと上記bungetsu様の回答の中に出てくる「毛利宗治」は「清水宗治」(備中高松城城主)と読み替えてください。恐らくは誤記だと思います。宗治、毛利性はもらってないはずなんですが・・・要検証。
閑話休題。これが長引いたせいで信長出馬=本能寺の変、になっちゃった訳ですが。
んで本能寺の変。(光秀の使者が秀吉に捕まったのはマジっぽい。毛利への初報は6月5日、紀伊雑賀衆からの使者らしいが原典は不明。ただ瀬戸内海の海路経由で他勢力よりも早く情報を入手出来たのは間違いないようです)勝手に講和成立させて、とっとと逃げてった(正確には中国大返し)秀吉軍。これに対して毛利軍では、主戦派の吉川元春(毛利元就二男)が追撃を主張したのに対し、穏健派、小早川隆景(同三男)が講和成立を理由に事態静観を主張し、追撃を見送っています。
字数に関わるんでこれ以上は無理!ぶっちゃけ、どこも敵対できない理由があるのよ!
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上杉は新発田の反乱により越後の統一すらできていなかった事情がありますが、あとは毛利にせよ、長宗我部にせよ、織田家との力の差がありすぎてもはや対抗できなかったのでしょう。



北条は、織田家のプレッシャーをまともに受けてこなかったので怖いもの知らずだったということもありますが、唯一本能寺の変の後に織田家に対抗し、上野の滝川一益を攻めて関東から追い出しています。

うる覚えですが、本能寺の変直前の織田家は、500万石以上あったはずです。

北条 150-200万石
毛利 120-150万石
上杉 50-60万石
長宗我部 35-45万石

各大名の石高はこんなものでしょうから、石高だけで見ても、織田家100に対して10-40くらいの力だったでしょう。

実際、石高から米の収穫高と人口が推定できますが、鉄砲を買ったり、農繁期でも戦いのできる傭兵を調達するのに莫大なお金が必要でしたし、鉄砲の火薬はほとんど輸入に頼っていたため、堺や京と言った商業都市を織田家が抑えていたことで、実際の戦いにおける力の差は、石高以上に差があったと思われます。
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こんにちは。


私は、自称「歴史作家」です。

まず、最初に「全体像」から話しますと、
(1)秀吉は、非常に「筆まめ」で、信長の死を知った後、ただちに、上杉、北条、徳川などに信長の死を報せると同時に「領国安堵」と「謀反禁止」の書状を送っています。
(2)次回のNHK大河ドラマが越後の上杉景勝の家臣で直江兼続ですので、ここは一つ「越後」を例にとってみましょう。
(3)毛利宗治の切腹を見届けるや、ただちに兵を、のちに「中国の大返し」と呼ばれたように、京に向けて昼夜を問わず駆け続け、山崎の合戦へと進軍しましたが、この間に上杉景勝に書状を送っています。
(4)秀吉からの書状がいつ出されたかは、若干、不明ですが、
(5)上杉景勝は、当時、同盟国であった佐渡の各城主に、6月12日付けで、次のような書状を送っています。
「急度申届候 而仍当月二日 於京都信長父子三人切腹 依之越中能州諸要害打明 美濃尾張之者共悉遁失候 然間国中相残国人等 皆々復先忠之間 為任置与令出馬候 各為疑心之致来之書中一書差越候 日出吉左右弥可申候 恐々謹言」   六月十二日
訳すと、
「急ぎ報せます。6月2日に京都において信長父子三人が切腹しました。これにより越中や能登では城を固め、美濃や尾張の者共は逃げ帰ってしまいました。皆、もとの主人の元に帰りました。出馬の命令があるまで、(佐渡の)皆も、謀反等を起こさないように、と、秀吉が言っています」
と、でもなるのでしょうか。
同様の書状は、徳川にも送られたと言われています。
秀吉は、信長の死を報せると同時に、
「皆、動くな」
と、牽制をしているようですね。

次に、個々に見ていきましょう。
(1)毛利に対しては、6月4日毛利宗治が切腹するやいなや、次の書状を届けています。
「・・・其口上に去る二日惟任日向守依逆意 信長父子於京都生涯被仕候 就夫我等事 急度令上洛 遂義戦 主君の敵を可打果覚悟に候 此間申談候誓紙の趣 無御相違に於ては 可為本望候 若又御違変有之御心底に候はば 御返答次第可得其意候との儀に候」(吉田物語より)
簡単に言うと、
「和睦の誓詞通りにして下されば大変有難いが、それを破るなら破るとはっきり言ってくれ」
と、一転して、信長の死を報せ「正直は最良の外交」という態度に出て、信長の死を他人から情報が入る前に、自分から報せての「恩義を売る作戦」に出ています。
ここで、毛利氏が光秀と手を組むこともできたであろうが、
毛利元就の三男小早川隆景は、同じく「吉田物語」で、
「近年秀吉弓矢の取よう、とくと見申候に、智謀ありて勇将たり。大志あり。将来は天下の仕置も秀吉たるべき・・・」
と、傍観する立場を取っています。
もう、高松城の水攻めで、秀吉の力を十分に見せ付けられたために、戦闘意欲をなくしているとも考えられる行動を取っています。
(2)上杉は、もちろん、「絶好の機会」ではありましたが、信長恩顧の加賀の前田や能登の佐々らが眼前におり、背後には上野国に滝川もいましたので、上杉独自で動くことはできませんでした。
(3)徳川は北条と戦っていたことと、家康自身が織田家の人質になった経緯もあり、むしろ、織田家が潰れることを願っており、信長が討たれからと言って、織田家回復には動かなかった。
(4)北条も徳川と戦っており、京へ昇ることよりも「自国」を守ることに精一杯でした。
(5)天正10年(1582)頃には、長宗我部などにも秀吉からの書状は届いたと考えられますが、当時の状況としては、伊予国や阿波国、讃岐国にも積極的に進出し、河野氏や三好氏と戦っていましたので、天下を狙うよりも、まずは四国平定を画策していた時代でした。
(6)こうした各大名たちの動性を見ていくと、信長という人間を、決して「天下人」とは見ておらず、織田家の「内紛」ぐらいにしか考えていなかったのではないでしょうか。
(7)むしろ、秀吉による「領国安堵」の方が、自分たちには「都合が良かった」。つまりは、秀吉、ひいては、強大になった織田家が攻めてこない、という「安心感」があったのではないでしょうか。
(8)とは言っても、長宗我部は天正12年(1584)に四国を平定していますが、翌年には、秀吉の、
「長宗我部は四国に横行している」
との言葉で、
「近日十万人を渡海せしめんとす。然る処に使者を以って、拝礼を謝す。是を以って征伐を宥(ゆるす)べし。元親には土佐一国を宛行なうて、阿波、讃岐、伊予三ケ国を召し上げらるる処也。此旨を存知て、早く上洛すべし・・・」(南海通記)
と、記されています。
そして、一大名となり、秀吉にくだりました。

結論:
当時は、「天下統一」は誰しもが望んだことではあると思われるが、まずは、眼前や背後の敵を倒すことが「先決」であり、信長が討たれたのは、単なる「織田家の内紛」ぐらいにしか考えてはいなかったのではないでしょうか。

>>そもそも北条、毛利、上杉、長宗我部などは、織田を100とするとどの程度力をもっていたのですかね?
石高だけ見ると、北条が一番強そうですが。

これはあくまでも私見ですが、仮に、織田を100とするならば、
北条・・・40・・・行く手には徳川あり。
毛利・・・20・・・戦意喪失。
上杉・・・60・・・眼前に前田、佐々あり、背後に滝川あり。
長宗我部・30・・・まず四国の平定に明け暮れた。
徳川・・・50・・・背後に北条あり。
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上杉は、新発田氏の内乱を収める方が先決だった。


とてもではないが攻めに転じるのは不可能。

毛利が秀吉を攻めるのは可能だったと思うけど、
秀吉のことだからそこら辺は抜かりなく
何か手を打っていたと思います。

>長宗我部も四国を統一したばかりで、畿内に乱入とかできそうですが。

 賤ヶ岳の時点では四国を統一していなかったようですね。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E5%AE%97% …

北条は石高は大きいですが、武器の調達で大きな差があると思います。
北条氏規は何度か上洛したので、軍事力や一般人の生活レベルまで
差が分かっていたようですが、
北条氏政にとっては、関東がすべてだったわけで、もっと外の世界を
知っていれば、小田原攻めはなかったのかもしれません。
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私たちは、この後の歴史をすでに知ってしまっていますので、賤ヶ岳の戦いが羽柴VS柴田の戦いで、これに勝利した秀吉が後々天下を取る・・・と考えてしまいますが、現在進行形の出来事を見ていた場合、この賤ヶ岳の戦いは、信孝を担いだ勝家と、三法師&信雄を担いだ秀吉による織田家内の内乱ですから、冠を持たない毛利や上杉などが手出しする事は、織田への反乱となってしまうのではないでしょうか?



あの関ヶ原の合戦も、先の歴史を知っている者から見れば、明らかに徳川家康の豊臣潰しですが、その時点では、豊臣家の内乱という事になってますので、多くの武将は、どっちかにつくか、どっちが勝ってもいいように、兄弟で別々に分かれたりしたわけで、この本能寺の後も、逆にすべてを倒して天下を掌握するくらいの気持ちがなければ、どちらかに味方する形での参戦しかないのではないでしょうか?

先の回答者さんがおっしゃてるように、兵農分離が完璧になされていない時の1年は、かなり短いですから、もし、織田家自体を倒すつもりで行動を起すなら、一発で天下を覆すような戦い方をしなければなりませんから、かなりしんどいと思います。

それならば、様子を見ておこうって感じの1年だったように思います。
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像の時間鼠の時間という本がありましたよね


いまの私たちの時間と戦国の時間を同一視できませんよね
365日の範囲では 突発的な合戦ぐらいしかできないでしょうし 事後そのことで 万一どこからも責められないような合戦で 積極的な旧地奪還での 勝つための戦略はもっと長い時間を必要としますし まさに突発な事件の本能寺など 情報収集そのものさえにも時間がかかったでしょうから 戸惑いの中の状況検討の時間だったとおもわれますし
事後検討に それぞれが様子見になるのはしごく自然でしょう
瞬間的にすべての力関係の状況が見えれば 長宗我部といわず 上杉も伊達も毛利も 戦略をすばやく立てて 行動したでしょう  
 
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各勢力共に織田軍と交戦状態にあったわけです。

そして各々の部隊は本能寺で反乱があったとはいえ、秀吉の迅速な鎮圧により、滝川も柴田もまだ北条や上杉の目の前にいる状況なのです。唯一毛利が空いているようにも思えますが、秀吉もそこは和睦を結んで戻っているため、そう簡単に協定違反はできないでしょう。長曽我部に至っては親織田派だと思います。
また信長がいなくなったとはいえ、各織田派閥の分裂が決定的になってからの方が制しやすいのではないでしょうか。
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専門家ではないのであくまでも主観


まず、たった1年で混乱が収まるとは思っていなかったのでしょう。
考えるに要素としては2つあると思います。
・1年という歳月があっても実際に季節により出兵できる期間は限られる
・この時旧織田軍は、農兵分離を行っており他より兵を動かせる期間が長い

実際、北条は天下を見てはいなかったし、目先の北関東を上杉と争っていたでしょうし、毛利もこの時、秀吉に攻められた直後で今まで従属していた豪族の氾濫の鎮圧も必要だったでしょう。長宗我部などは四国統一したばかりで足固めが必要でしょうし。
結局、秀吉が正当な織田家の後継者を担いだ事で、織田家の他の武将を囲う事が出来それ故、1年という短期間で決着をつけた事がすべてであると思います。

>そもそも北条、毛利、上杉、長宗我部などは、織田を100とするとどの程度力をもっていたのですかね?
石高だけ見ると、北条が一番強そうですが。

この時期既に石高ではなく、人口と流通で金を押さえた物が有利だったのでしょうね。そこに着眼した信長はやはり段違いの実力だったのでしょう。
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