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日本史最大のミステリー本能寺の変。
散々言われてますが、明智光秀が織田信長を討つ動機って何が一番しっくりくるんでしょうか?
明智光秀はサラリーマンでいえば中途採用で入社し、その実力が社長に認められて生え抜き社員をごぼう抜きして役員クラスまで出世したって感じですよね。
織田信長にたいしては恩義があると思えます。
動機も色々言われてますね。
母親を見殺しにされたり飲めない酒を無理矢理飲まされたり信長のパワハラに耐えかねた説や秀吉にそそのかされた秀吉黒幕説。本能寺の変で一番得をしたのは秀吉だから最有力説ですよね。
あとは朝廷黒幕説とかですが、明智光秀自身の野心説はないんでしょうか?
絶対的な権力者の織田信長が隙だらけで本能寺に泊まってる。息子の信忠も近くにいるし。ここで信長、信忠殺したら天下人になれるじゃんとかって突発的に行動に移したとかは?
明智光秀の仕事は用意周到、完璧だったと言われる割に本能寺の変の後はグダグダでしたよね。
あっさり秀吉に敗けてるし。
中国大返しで秀吉軍は疲労困憊していたのに、その秀吉軍に精鋭の明智軍が敗れるってのは織田信長討った後の事がおなざりになっていた→突発的犯行って事になりませんか?

A 回答 (6件)

室町幕府再興とかいう説を


昔、新聞で読んだ気がする。
そういう文書がある所から見つかったらしい。
まあ、テレビの大河中心のドラマは娯楽専門の作り話が多いので
振り回されないようにしましょうね。
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一般的に、家康の接待役を下ろされて、秀吉の中国攻めの助っ人に行けと命令されたので、プッツンしちゃった。

精神的に追い込まれてたのでしょう。
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同意です。



俺にもチャンスが巡って来た。

そう考えて、とっさに決断した
んじゃないですかね。

下剋上の時代ですから、チャンスが
あれば、俺も、というのは
自然です。

ただ、決断が短絡的で、先の事を
あまり考えていなかった。

それで結局、天下取りは失敗して
しまった。
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そうだと思います、部下に関して秀吉【柴田勝家の命令無視の時】も明智も、酷い扱いをされてますね。



中国大返しで秀吉軍は疲労困憊していたのに、その秀吉軍に精鋭の明智軍が敗れる

↑ただ、私が調べた限りでは、秀吉軍は、京都付近に帰還するだけで、序盤の主な戦闘は、秀吉側に謀反討伐と言う【大義名分を受けた、現地付近に居た元気な兵】が主力だとなっています。

秀吉軍は確かに急ぎましたが、序盤実際に戦闘したのは、京都付近の元気な武将の兵たちが主力だったようです。【明智側は、細川の援軍が来ませんでした】

話戻りますが、本能事変前、明智光秀は、信長の命令で四国方面、長宗我部と交渉していて、大事な斎藤重鎮系の親戚も婚姻までして居ました。

秀吉様は、中国方面を任されていました。

で、最初は両者、上手く行っていたんですが、信長が勢力を確固足るものに成って来たのもあり、四国方面に高圧的な方針に切り替えました。

長宗我部に対して、強硬な方針を始めたのです。

明智光秀は、大事な斎藤重臣が四国方面に婚姻しており、板挟みになりました。【長宗我部と戦争は困る】

しかも、秀吉中国方面占領後は、田舎の九州に転勤しろと。【九州を任せる】

また、織田信長様には、安土城に自身の黄金像、また、神格化、
13人程度のご子息には、跡継ぎの居ない大名に養子にし、日本全国各地を実質的に織田領にするような説もありました。

以上の様な事からも、元々、天皇家に近い明智家は細川などにも交渉しましたが、参戦してもらえず壊滅する事になりましたが。

秀吉様は、二人がどんどん仲が悪くなるのを承知していたとは思われます。
頭脳聡明な秀吉様ですから、何が起きても、臨機応変に対応できる用意はしていたと思われます。【一番得したのは、秀吉様ですし】

1.長年尽くしたのに、四国方面にとんでもない政策方針転換があった、
重鎮斎藤系の親戚と戦争に成り兼ねない。

2.天皇家と、神格化または、全国に子孫を養子縁組の織田家は危険分子と判断されかも知れない。【明智は天皇側系】

3.秀吉様が格上出世で、明智は九州に転勤、勿論、能力が高いから任されたのですが。【琵琶湖の愛着ある立派な城も、放棄、破棄しろと命令された】

4.長年のパワハラ、モラハラ、精神的に追い詰められていたとは想像できるのかも知れませんね。【当時、信長より年上で50歳過ぎ】

※実力主義とはいえ、薄情で短気で横暴な上司より、信頼できる重鎮斎藤系と共に、本能寺の変で成功し、残りの人生を安泰にしようとしたのかも知れませんが、結果は三日坊主に成ってしまいました。

細川家が参戦してくれない、秀吉側は、すぐ帰って来てしまった。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E6%B5%B7 …

↑ですが、徳川家康が明智光秀を匿ったという説もあります、
日光、明智平に、明智光秀だと思われる僧侶がいるのです。

【本能寺の変後の生存説】
明智光秀は天正10年(1582年)の山崎の戦いの後に討たれたとされているが、山崎の戦い以降に光秀が存命していたとする説や伝承がいくつかある。ただしこれらの説は、光秀が天海になったと明示されていない。

京都宇治の専修院と神明神社には、山崎の戦いの後に明智光秀を匿った伝承が残されている。

『和泉伝承誌』によると、山崎の戦いの後に明智光秀が京の妙心寺に姿を現し、その後光秀は和泉に向かったと書かれている。

本徳寺(現在は大阪府岸和田市にあるが、開基時には大阪府貝塚市鳥羽にあった)には、一時、明智光秀が潜伏していたという伝承があり、「鳥羽へやるまい女の命、妻の髪売る十兵衛が住みやる、三日天下の侘び住居」という俗謡が残っている。

比叡山の叡山文庫には、俗名を光秀といった僧の記録がある。

光秀が亡くなったはずの天正10年(1582年)以後に、比叡山に光秀の名で寄進された石碑が残っている。

岐阜県山県市中洞には、光秀が落ち延び、「荒深小五郎」と改名して関ヶ原の戦い頃まで生き延びたという伝承がある。

だそうです、本当に、ミステリーですね。。。。。。。。
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この回答へのお礼

光秀=天海説から家康黒幕説もありましたね。
家康も浅井に裏切られとき殿やれとか因縁つけられて正室、息子を殺せとか信長から色々パワハラ被害を受けていたので、動機はあるにしても本能寺の変で畿内にいた家康自身窮地に陥り命からがら三河に逃げているうちに秀吉に美味しいとこ持って行かれたのでないでしょう。
明智光秀、架空の人物ではないでしょうが謎が多すぎますね。
まあ秀吉も出自が不明で同じようなもんかもしれませんが。俗説の百姓出ではなくもっと下賤(盗賊とか?)な出自とかいう説もありますね。

お礼日時:2023/05/13 23:44

多くの人が納得できるような説は、残念ながらまだ無いと言えます。



そもそもは『裏切ったのだから裏切るだけの十分な理由があったのだろう』という江戸時代のイイカゲンな想像で話が沢山作られ、真相が分かりづらくなっていたというのがあります。今となっては全てウソっぷ話であることが分かっていますね。

次に近年、いろいろな人がいろいろな黒幕説を唱えましたが、これらも全て否定されています。ざっくり簡単に言えば、黒幕がバレた時の想像力が徹底的に欠如しているわけですが、しかしながらこれらにより、逆に明智光秀の単独犯行説が確定的ともなったので、意味はあったと言えるでしょう。

ただ、では光秀の動機は?となると、これがまた元の木阿弥状態で、怨恨説は上記のように否定されているものの、野心説・突発説・ノイローゼ説などいくつか唱えられているものの、どれも決定的ではないという状態です。中には”何かの間違い説”?のように光秀自身は謀反を起こすつもりが無かったという説(実は私はよく理解できていないw)もあったりします。

他に分かっている事として、関係者の動きから、前々から計画されていたものではなく、多くの条件が偶発的に揃ったために引き起こされたものであることも分かっています。そういう意味では、どのような要因だったとしても結果的には突発説ということにはなるのですが、条件がそろう(状況が整う)というのと実際に実行するというのとでは、やはり天と地ほども差があるので、まだまだ謎は解けないことでしょう。
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明智光秀は静岡大の小和田哲男名誉教授によると、出生地、出生日を


始めとして、正確な事は殆んど解らず、謎の多い武将なのだそうです。

歴史の研究は偽文章との戦いで、国内で発見される古文書は90%以上
が偽文書もしくは噂話を記載した確証の無い物だそうです。

最近、取り組んでいるのは、来日した宣教師達が本国に送った報告書
が残っているので、それらを調べているとかと語ってました。

宿敵の武田家を滅ぼして、慢心と油断が信長に生じたと考えています。
親子で本能寺近辺に宿泊するなんて油断の表れでしょう。
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