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明智光秀は、なぜ本能寺で織田信長を討ったのですか?四国政策の失敗からですか?私怨ではないというのは本当ですか?

A 回答 (5件)

諸説ありますが、真相は信ぴょう性の高い史料に記載されている内容から、推測するしかありません。

 明智光秀が本能寺で織田信長を討った理由は、やはり四国政策の失敗からと言うのが一番有力な説です。 私怨ではないというのは本当のようです。 その理由を、7月23日付けPRESIDENT Onlineに歴史評論家である香原斗志が「NHK大河ドラマを子供に見せてはいけない…明智光秀が本能寺で信長を襲った理由は「私怨」ではない」と言う記事を掲載しているので、一部転載します。

(どうする家康では)安土城で家康は信長の歓待を受けるが、饗応役の光秀が淀の鯉を出すと、家康は何度も臭いを気にする。信長が「臭うならやめとけ。当たったら一大事じゃ」と言うので、光秀が申し開きをすると、信長は激高して膳をひっくり返し、光秀を3回、4回、5回と殴った。

直後、光秀が中国地方の毛利氏を攻めている羽柴秀吉(ムロツヨシ)の援軍に行くことが決まると、家臣が家康に「もくろみどおり明智を遠ざけましたな」と言う。鯉の臭いを気にしたのは家康の策略で、そのために光秀が排除されたという描き方なのだ。

そこに光秀が謝罪に現れ、「上様はしくじりを決してお許しにならぬお方。よくご存じのはず。私はもう終わりました」と、家康に向かって話した。

要は、家康が信長を討つ際に邪魔が入らないように、近在にいて邪魔になりかねない光秀が饗応に失敗するように芝居を打ち、その結果、追い詰められた光秀が本能寺の変を起こして、家康は信長を討つ機会を逸した――。そんなストーリーだったのである。

ちなみに、ドラマで描かれたような饗応役の失敗は、事実とは思われない。江戸時代に書かれ、内容に信がおけないとされている『川角太閤記』には、光秀が家康一行のために準備した生魚の悪臭が漂い、信長が激怒したという逸話がある。 しかし、光秀が饗応に失敗したという話は信頼できる史料には一切書かれておらず、『川角太閤記』への記載はかなり以前から、俗説として退けられている。

現在、光秀が本能寺の変を起こした動機として、ほぼまちがいないと考えられているのが四国説である。

じつは本能寺の変が発生した直後から、主な公家や織田家の家臣たちが、原因は信長の四国政策の変更だと見ていた(『晴豊公記』『言経卿記』など)。

信長は当初、大坂本願寺と組む阿波(徳島県)三好家を攻略するため、土佐(高知県)を治める長宗我部元親との関係を強化。その取次役が光秀だった。

ところが、大坂本願寺との戦いが終わった天正8年(1580)に信長は、四国の平定は元親に任せると言っていたのに一転、元親の支配地域を土佐と阿波の南半分に限定すると言い出した。

これに元親が難色を示すと、信長は天正9年(1581)11月、阿波三好家出身の三好康長に、東四国の支配を任せることにする。そして同10年(1582)1月、元親には土佐1国だけを治めさせる方針を、光秀を通じて提示。しかし、元親から返答がないので光秀は、滅亡を避けるためにも信長の判断に従うようにと最後の説得を試みたが、元親の返答を待たずに、信長は三男の信孝を総大将とする四国出兵を命令。本能寺の変の翌日に当たる6月3日、四国に渡ることになっていた。

本能寺の変については、江戸時代に俗説が流行し、儒教の影響もあって、暴虐な信長に対する光秀の怨恨説が唱えられたが、じつは四国説は大正時代から主張されていた。

近年、桐野作人氏や谷口克広氏らが、一次資料にもとづく研究で四国説を強化していたが、2014年に『石谷家文書』(室町幕府奉公衆だった石谷光政・頼辰親子2代にわたる文書群)が公表され、光秀が信長の前で、元親をあしざまにののしる人物と論争していたこともわかった。

光秀は四国政策で敗北し、織田政権内における明智家の立場に強い不安を抱いておかしくない状況にあったのである。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。大変勉強になりました。目からウロコが落ちました。

お礼日時:2023/07/29 06:08

昔、新聞で読んだが、


明智光秀は元は室町幕府将軍に仕え、
後に織田信長の家臣になった。
信長に不満を抱き、
再度、室町幕府再興を
謀って信長を討ったという
ことを書いた資料がみつかったと
出ていた。

信長の家来は信長の身を離れ、各地に分散、
戻れる人はいないと思った。
でも反信長勢力で自分の許に
来るものがなく、
秀吉の毛利から帰りに
やられて終わりとは
あっけない結末ね。

問題は天海となって
家康と再会できたかですな。
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理由は本人が明確に残している訳ではないので、誰にも真相はわかりません。

想像しかできません。

個人的には、晩年の信長が強く持った宗教性が、天皇・朝廷の権威を犯すモノと観ていたことが背景として大きいのではないかと思います。
安土城天守にあったらしい宝塔と宗教的世界を描いた絵画。そして何よりも信長自身を本尊にしていたと思われる摠見寺の存在を、日本という国の根幹である天皇制に対する挑戦と考え、非常に大きな脅威に思っていたことは間違いないでしょう。

宣教師たちは、光秀がキリスト教に悪意を持っていると判断しているが、だとすれば、キリスト教に寛容な信長を快く思っていなかったはずだ。勤王の心も強かったと推測できる。
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「野望説」「怨恨説」「黒幕説」「四国説」


所説ありますが、結局のところわかりません。
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私怨ですよ


諸説あると言ってもほとんどが仮説 想像 言ったもの勝ちです
家康をもてなした時琵琶湖名物の鮒寿司をお膳に出したら こんな腐ったものを大事な客に出しやがってと 大勢の前でぼこぼこにされた恨みです
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