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印象だけで記します。資料には基づいていません。
1 先住民族の本日現在の人口は、北米は少なく、中南米は多い。
2 先住民族と入植者の混血は、北米では進まず、中南米では進んだ。
3 先住民族の子孫は一般に、北米では保護区内で暮らし、中南米では街中で通常の市民生活を営んでいる。

1~3に著しい誤りがあれば訂正して下さいませ。大筋として正しければ北米と中南米で相違が生じた理由を解説するなり、この疑問に触れた啓蒙書を紹介するなりして下さいませ。
なお、北米を豪州で置き換えても同じことが言えそうに思っていますが、この件には応えても応えなくても自由とします。
よろしくお願いします。

A 回答 (3件)

1番は、そのとうりで、なぜ北米で人口が増加しなかったのかは、推測になりますが、主食となる穀物がなかったからではないかと思われます。


メキシコ高原からグアテマラにかけてのトウモロコシ、アンデス高地のジャガイモに相当する主食となるものが少なかったため、人口増加が起きなかったと推測されます。

2番は、殖民形態のちがいからです。
北米での殖民は、家族単位での入植がさかんに行われました。
特にイギリスの植民地では、同一宗教グループごとに殖民が行われたため、植民者の男女比がほぼ等しく、原住民との婚姻の必要性がありませんでした。
一方スペインの植民地では、入植者の90%が男性であり、入植者の配偶者や身の回りの世話をするために女手が必要でしたが、入植者に女性が少なかったため、現地人の女性との婚姻が積極的に行われました。
またスペイン人植民者の不足を補うため、スペイン政府が、現地人との結婚を積極的に勧めたことも理由です。
そのため、スペインでは、短期間に植民地を拡大することができたのです。
ただしブラジルにおいては状況が異なります。
ブラジル本国のポルトガルでは、ポルトガルの人口が少なすぎて、積極的な殖民がおこなわれませんでした。
そのため、アフリカからの黒人を大量に導入する事になります。

3番ですが、2番を参考にしてもらいますと理解できると思います。
現地人の数が少なく、現地人そのものを必要としない北米植民地と、現地人とスペイン人の混血が圧倒的多数を構成する国の違いです。
中南米諸国において、現在原住民が国民の半数以上を占めるのは、グアテマラとボリビアだけになってしまっています。
その2国にくわえ、比較的原住民の多いペルー以外は、純粋な原住民は、一部の地域に押し込められているのが実情です。
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この回答へのお礼

お蔭様で全体像が具体的に、はっきりしてきました。
1について
なるほどと思いました。狩猟の段階に留まっていて農業にまでは至っていなかった印象がありましたが主食となる穀物がなくては当然だと思います。
この説は、北米には文明が啓けなかった理由を初め、色々な現象を一度に説明してしまいそうで有力に思います。大掛かりな殺戮が展開された様子もないのに何故なのか、不思議に思っていました。

2について
これも納得できました。比較の上からは、北米は家族単位での入植が可能なほど安全な地でもあったらしいと理解しました。やれ宗教観だの、人権思想だの、国民性だの、そういう面倒臭い話には関係なく、安全か危険か、人手が足りているか不足しているか、人口を殖やしたいか減らしたいか、女手が要るか要らないか、こういう日常の切実感によって決っていくというのは、分かりやすいです。小難しい話の皮を剥いでいくと、結局は小乗極まる狡知にぶつかるような気がします。

3について
これも自分なりに分かるようになりました。混血しなければ文化が融合しにくいので共同生活も営み難くなりそうです。その上、人口が少なければ小さなコミュニティで暮らすことになりそうです。先住民には気の毒なことですが。

有り難うございました。またの機会にもよろしくお願いします。
このご回答への補強や反論があるかもしれないので、3/1(日)までは締め切らずにおきます。

お礼日時:2009/02/24 12:32

2 の一部に関連して、


南米ウルグアイには先住民は事実上住んでいません。
文明化の程度が低く好戦的だったため殲滅されてしまったと聞きました。
ということで、状況により、中南米でも混住も混血化もしなかった部分があったわけです。

なお、混血などに関する 北米と中南米の違いは、ラテン系とアングロサクソン系の違いだと聞いたことがあります。
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この回答へのお礼

文明が低く好戦的だと強者の側は楽ができそうです。
「ラテン系とアングロサクソン系」、これは微妙にか、歴然とか混血を許容するしないに影響するかもしれないと思えます。
根拠を示す能力はありませんがゲルマン、アングロサクソン、ラテンの順で、後へいくほど混血を許容する気がしますが果たして。きちんと勉強した後でないと勝手なことはいえなそうです。
有り難うございました。またの機会にもよろしくお願いします。
引き続き角度を変え、表現を変えてのご回答をお待ちします。

お礼日時:2009/02/23 23:03

北米と南米が大雑把に お書きの違いが見られる


最大の要因は、南米はスペインポルトガルを中心に
北米は英仏を中心に植民地にして
両陣営の植民地方針が違いがあったので
差異が出てきた、となるでしょう。
もっとも、新大陸の征服の先駆者はスペインや
ポルトガルで、彼らの最初の征服欲はシンプルなもので
オタカラが中心、金銀、宝石、貴金属、それらの
鉱山を確保できればベストと念頭において
新天地に攻め込みアステカやマヤ、インカなど
新大陸の既成権力勢力を各個で制圧して大きな
領土を得ました、ところが、インカは結構オタカラに
ありつけたのですが、それ以外は大して見込みより
少ないぶんしかオタカラが出ませんでした、そのうち
スペインなどのカトリック諸国連合は新教諸国と多くの
戦争をして、その戦費を
新大陸から上がる金銀などをアテたが、供給が
とうてい需要におっつかず、旧教国陣営は無敵艦隊の
敗北など軍事的劣勢と植民地経済の限界や破綻などが
出てきて英仏のような新興強国陣営に圧倒されていきました。
あとから植民地進出を新大陸に展開した英仏らは
最初から植民地に農園や工場を沢山つくり産業を さかんに
してやろうと意欲をもって推進していきました。
むろんスペインらも英仏と対決する段階で相手を見習い
そうはしたが、そのときは手遅れで
イギリスは北米だけでなく中南米にも進出していき
グアテマラやベリーズなどがイギリスの手に落ちました。

と、ここで、それらが、どこに混血と非混血の差が出るか
よく分からなくなりましたね、スペインはアステカや
マヤを征服するときは、圧勝の連続で達成したと
思われがちですが、アステカの場合はアステカと
敵対していた現地のトラスカラ人とコルテスの軍が
連合したりマヤをコルテスが攻めたときは
マヤは40ほども部族勢力があって統一されてはいなくて
コルテスは味方する部族は優遇して征服を進めていきました。
征服が一段落して植民地の恒久管理を進めるにあたり
カトリックの布教を利用して原住民の改宗を進めていった
それらが西洋人と原住民の融合を促進しためんもあったようで
むろん改宗をすすめる神父は強硬なひともいれば
原住民に理解があり慈悲をもって布教をした聖職者もいて
一様ではなかったが、こと現地との融合に関しては
北米より南米のほうが進んだみたいです。
もちろん南米のように、それなりに高度な
権力機構、アステカやマヤやインカにあたるものが
北米には特になく、もっとも激しい衝突は
アメリカ騎兵隊とスー族との攻防のようなもの
ぐらいで、北米の征服進出は無人の野をゆくような
感じで南米とは違うかも。
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この回答へのお礼

ア)進出の動機
北米の英仏・・・・・・・・・・・・・・・・本国に於ける対権力との思想的対立が微妙に反映。
南米のポルトガル、スペイン・・・単純な富の収奪

イ)宗教の違い
北米の英仏・・・・・・・・・・・・・・・・プロテスタントで教会の介入が希薄
南米のポルトガル、スペイン・・・カトリックで教会の介入が強力。先住民との融合を布教の梃子とする。

ウ)本国の盛衰
英・・・・・・・・無敵艦隊の撃破
スペイン・・・無敵艦隊の壊滅

エ)現地の文明の高低
北米・・・・・文明に見るものなし。征服が容易で策は無用
中南米・・・高度な文明が存在。征服には策が必要

これらが縦糸となり横糸となって植民地政策に反映した結果ということでしょうか。依然として具体的には因果関係が分かりませんが、考えるべき観点は浮き彫りになった気がします。
有り難うございました。またの機会にもよろしくお願いします。
引き続き手を変え品を変えてのご回答をお待ちします。

お礼日時:2009/02/23 23:01

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