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世界三大仏教遺跡とは、
ミャンマーのバカン遺跡 
カンボジアのアンコールワット 
インドネシアのボルブドール
を言うとおもってました。
しかし、アンコールワットはヒンドゥー教の寺院なのです。
何故、世界三大仏教遺跡というのでしょうか?

A 回答 (4件)

No2です、再びのご返事ありがとうございます。

ネットでアンコールワットについて語らうことが出来てとても嬉しく思います。

アンコール王朝のスーリヤヴァルマン2世によって建立され、その後14世紀に外敵の来襲による壊滅やアンコールの放棄(遷都)によっての荒廃によりアンコールワットのヒンドゥ寺院は遺跡となってしまいました。この時点で「ヒンドゥ寺院」から「ヒンドゥ寺院遺跡」となったことに異論は無いと思います。

しかしその後アンチェン1世が1546年から1564年の間に未完成であった部分を完成し、孫のソタ-王は「仏教寺院」へと改修されアンコールワット寺院は復興されました。この時点ではもう「ヒンドゥ寺院遺跡」ではなく「仏教寺院」(遺跡ではない)としての新しい歴史が始まったと考えます。

確かに改修されても多くのヒンドゥのレリーフはそのままにあったでしょうが、建物にどの様な彫刻が施されているかそれがどれだけ芸術的かではなく、寺院がどの様な信仰の対象であったか、寺院がその時代にどのような存在意義があったかが大切ではないかと思います。装飾や壁面などで判断するものではありません。

だいたい壁面やレリーフの有り無しでヒンドゥ寺院か仏教寺院か判断されるのでしたら、同じ仏教遺跡であるボロブドールにもラーマーヤナの説話のレリーフなどヒンドゥ寺院でおなじみの神々がたくさんありますが(私は実際に見てきました)、ボロブドールも同様にヒンドゥ寺院遺跡と主張されますか。

その後1586年、ポルトガル人のアントニオ・ダ・マグダレーナが西欧人として初めて参拝し伽藍に対する賛辞を残したり、アユタヤの栄えた山田長政の時代には1632年(寛永9年)日本人の森本右近太夫一房が墨書(落書き)、「御堂を志し数千里の海上を渡り」「ここに仏四体を奉るものなり」を残されたりました。ここが有名な仏教聖地でなければ、わざわざ遠い日本から「御堂を志し」死を覚悟で目指しますか。

このことから当時、遠く日本にまでこの仏教寺院が知られているほど仏教聖地として繁栄し、当時は南蛮(東南アジア)にその名が広く知れ渡っていたことが判っています。また第一回廊と第二回廊の間のプリヤポアン(千体仏の回廊)には森本右近太夫ら当時の多くの信者から寄進された多くの奉納仏像が現存されています。

そして現代に入って1972年、カンボジア内戦があり寺院はクメール・ルージュによって破壊され多くの奉納仏の首は撥ねられ砕かれ、敷石にされました。この時点で「仏教寺院」から「仏教寺院遺跡」になったものと考えます。なお「地球の歩き方」は学術書ではなく旅行ガイドですので。

カレーショップの件はお気に召さないみたいですので(苦笑)、最近、元暴力団の事務所が改修されて警察の派出所になったというニュースがありましたが。もしそこが閉鎖されたらどんなに派出所として長く存在し町の治安の象徴になった時代があっても、元々は暴力団の意向で建設され外見などにその特徴が残されているので「元暴力団の事務所」という汚名になるのでしょうか、「元警察の派出所」でいいではないですか。

楽しく語らえてうれしく思います、ありがとうございました。
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この回答へのお礼

再三にわたるご回答と丁寧な説明に、心からお礼申し上げます。
特に今回、ソター王以降の「仏教寺院としての歴史」については、認識を新たにしました。有名な「有名な仏教聖地」になっていたのですね。
大変勉強になりました。ありがとうございました。

お礼日時:2009/03/02 06:30

No2です。

お返事ありがとうございます。

まず「だから、東大寺、法隆寺、唐招提寺はヒンドゥ教の寺と呼んでも良い」とは私はどこにも書いていませんよ、論理の飛躍をしないでくださいね。

ちなみに、今ではキリストもマホメットもヒンドゥ教では神になっていますし。また元々西域の神だった観音菩薩などは仏教の仏になり、同時に中国の道教でも中心的な存在になっていますね。

さて確認しますが、過去にヒンドゥー寺院として建てられ、後世に仏教寺院になったが元々のヒンドゥー寺院遺跡と呼ぶのが正しいというのがあなたの論理ですよね。つまり後世になってどの様に宗教的な変遷(仏教寺院への改修)があろうとも最初のオリジナルの呼び名(ヒンドゥー寺院)が正しいということですよね。

たとえばある閉店したお店が、元々は先代が始めたラーメン屋がすぐ廃業しその後息子の代になって改修してカレーショップに変わってからずっと長い歴史があるのに、まだラーメン屋時代からの遺跡(調理場、席など)が残るので「あそこはラーメン屋だったというのが正しい」と主張しているみたいで、そういう論理に違和感を感じるのは私だけではないと思います。

なぜソタ-王の時代から長く続いた仏教寺院としての歴史や遺跡を無視されるのですか。二十世紀になって寺院がクメール・ルージュによって破壊されのは首を撥ねられ砕かれた多くの奉納仏などの仏教遺跡ではありませんか。

私はアンコールワット寺院はヒンドゥー教の寺院として建立されたが、お釈迦様(ヒンドゥー教の神でもある)の仏教寺院に引き継がれたので、世界三大仏教遺跡でよいのではないかという考えなのですが。

この回答への補足

アンコール遺跡群が、遺跡として評価されるのは、11~14世紀にかけてのクメール王朝の栄華を伝えていること、また、その広大な規模と芸術的すばらしさによるものだと思っています。
そのクメール王朝は、1353年、1394年、1420年の3度にわたるタイの襲来により、壊滅状態になり、アンコールはタイの支配下で、荒廃していきます。
これ以降近世まで、カンボジアの歴史は世界史に登場しない状態となります。
しかし、その後、1526年に即位したプノンペンの王アン・チャン1世が密林に埋もれていたアンコールワットを発見し、第1回廊の壁面の未完成レリーフを完成することによって、王としての正統性の誇示と過去の栄光の回復をしようとしました。そして、そのアン・チャン1世の死後、1576年に即位したソター王が、仏教寺院に改修することを目指し、ヴィシュヌ神を、四体の仏像に置き換えたとされています。
しかしこれらは、アユタヤ王朝が、ビルマ側との戦いのため、一時的に支配が緩んだ機に乗じたものであり、その後すぐ、再びアユタヤのの侵攻により、陥落してしまいます。
そして、その後19世紀にアンリ・ムーオに発見されるまで、世界からは長い間忘れ去られた密林の中の存在となってしまったと認識しています。
アンコールワットは、須弥山と海を模した山と池、平地を表す回廊を持つ寺院として、ヒンズー教の世界観を再現した寺院であると思います。壁面にある数々のデバダー、レリーフも、ヒンドウの世界です。これは、どう見ても仏教遺跡とは見えません。ソター王の「仏教寺院への改築」は、広大なアンコール・ワットの全体からすれば、ほんの小さな破壊であり、「後世の宗教的な変遷」と呼べるものではないと考えていました。
確かに今は仏教の僧侶が参拝する寺院のようですが、遺跡の価値としては「仏教遺跡」とは、どうしても呼べるようなものではないと思います。「地球の歩き方」にも「ヒンドゥ教」と分類されています。
以上により、カレーショップに変わったラーメン屋の喩えとは、ずいぶん違うように思います・・・。

補足日時:2009/03/01 22:09
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この回答へのお礼

再びの回答、まことにありがとうございます。
「カレーショップに変わったラーメン屋」は「カレーショップ」と呼ぶべきとのお考え、面白く拝読させて頂きました。
ただ、少し事実認識が私と異なるようですので、当然反論もおありかと思いますが、私の意見を補足欄に示します。間違っている点があれば、教えていただければうれしいです。

お礼日時:2009/03/01 22:10

ご承知の通りヒンドゥー教は多神教で、歴史的に他の宗教から多くの神様を取り込んできました。



仏教の開祖であるお釈迦様もヒンドゥー教ではヴィシュヌ神の9番目の化身とされていますので、広い意味で世界三大仏教遺跡でよいのではないでしょうか。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
ご指摘とは逆に、ヒンドゥの神々も仏教では帝釈天や梵天などになっています。
「だから、東大寺、法隆寺、唐招提寺はヒンドゥ教の寺と呼んでも良い」
とのご意見でしょうか?
そういう論理に違和感を感じるのは私だけではないと思います。

お礼日時:2009/03/01 06:58

×アンコールワットはヒンドゥー教の寺院なのです。



12世紀前半、アンコール王朝のスーリヤヴァルマン2世によって、ヒンドゥー教寺院として三十年余の歳月を費やし建立される。
1431年頃にアンコールが放棄されプノンペンに王都が遷ると、一時は忘れ去られるが再発見され、アンチェン1世は1546年から1564年の間に未完成であった第一回廊北面とその付近に彫刻を施した。孫のソタ-王は仏教寺院へと改修し、本堂に安置されていたヴィシュヌ神を四体の仏像に置き換えたという。
 1972年、カンボジア内戦によって極東学院はカンボジアを離れ、寺院はクメール・ルージュによって破壊された。この時に多くの奉納仏は首を撥ねられ砕かれ、敷石にされたという。
 今はカンボジアの安定に伴い、各国が協力して修復を行っており、周辺に遺された地雷の撤去も進んでいる。世界各国から参拝客と観光客を多く集め、また仏教僧侶が祈りを捧げている。参道の石組みの修復は日本人の石工が指導しており、その様子はNHK「プロジェクトX」で取り上げられた。


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%B3% …
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
アンコールワットは、スールヤヴァルマン2世により、12世紀の前半から半ばにかけ
30年の歳月をかけて造営されました。東西1.5kmの広大な寺院は、
ヒンドゥー寺院として建てられ、王の死後は霊廟となったのです。
たしかに、後世(16世紀)に、これを仏教寺院に改修しようとした
王がいて、その一部のヴィシュヌ神を仏像に置き換えたのは
事実ですが、それでも「後世に一部破壊されたヒンドゥー寺院遺跡」
というのが正しいと思います。
これを「仏教遺跡」と呼ぶのは、どう考えても正しくないと思い、
質問しています。

お礼日時:2009/03/01 06:50

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