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表現欲求というのはどこからくるのですか?
何かしら生物としての本能と結びついたものなのですか?

認められたいから?
種の保存みたいな自分の分身をつくるため?

人それぞれなのでしょうか?
でも、原初の衝動に人によって質的な差があるとはあまり思えませんし。

私はこう思う、とかこうだ、とか分かる方教えてください。

A 回答 (3件)

こんにちは。


#2です。回答をお読み頂きありがとうございます。
ひとつ目のご質問を三つに区切りましたが、概ね質問者さんのお考え通りであり、これはそれほど難しく考える必要はないと思います。
もし論点がズレていたら指摘して下さいね。

>人はなぜこれらを利益(つまり快楽を得られるということ?)と判定するのでしょうか。

どうしてかと言いますならば、それは利益に対して接近行動を選択し、不利益に対しては回避行動を選択するためですよね。
そしてこのためには、
「そのための反応基準が遺伝情報として書込まれている」
「そのための判定基準が学習結果として獲得されている」
このどちらかがなければ我々の脳は利益・不利益の判定を下し、与えられた状況に対応した行動を選択することができません。従いまして、遺伝情報にないものは学習をしなければ使えませんし、学習結果は必然的に生後環境に順応することになります。

>これは人が集団で暮らすことを遺伝情報として持っており、集団から外れることは生命の危険を意味するからでしょうか。

そうですね、
群を作る動物にはみなそのための遺伝子というものが備わっていると思います。この遺伝的性質は集団行動によって身の安全が守られるということで、結果的には種の進化・存続に有利に働いたわけですよね。こちらが遺伝的に書き込まれた無条件反応であり、受け入れてもらいたいという欲求よりも先に群から離れることができません。

>あるいは認められなければ生きていかれないということを後天的に学習するからでしょうか。

では、上記とは別に我々動物は遺伝的に定められた集団行動という生後環境からより価値の高い利益を学習することがまた可能です。これは、生後学習といいますのが自分の生まれた環境に適応するための機能であるからです。そして、良いか悪いかは分りませんが、我々人間といいますのは誰しもが生後の複雑な社会環境への円滑な順応を要求されるわけなのですが、果たして、これに対しましては本能行動の機能だけで対処することはほほ不可能です。

前回答で述べました通り、
先天的な利益・不利益が本能行動であり、
後天的な利益・不利益が学習行動です。
そして、もうひとつ我々動物の脳に定められた絶対的な規則といいますのは、それは本能行動であれ学習行動であれ、この利益・不利益の判定を覆すことはできないということですね。従いまして、我々は不利益に対して行動を選択することはできませんので、外部表現の動機といいますのはすべからく社会行動における利益の獲得ということになります。

>2つめは、必ずしも相手の存在を前提とせずに表現する場合もあるのではないか、ということです。

他者の存在を前提としないということでありますならば、これまで私が論じてまいりました社会行動とは考え方が大きく異なると思います。
上手く説明できないのですが、
社会行動であれば「他人に対してこうあって欲しい」ということですが、
個人行動の場合は「自分に対してこうあるべきだ」というのがその対象になるのではないかと思います。
では、この場合はそこに他者の存在という条件は不要ということになるわけですが、果たしてここで目的が「自己充足」であるならばその手段が必ずしも外部表現である必要が見当たりません。つまり、それは何かを表現したいという欲求とはまた別物なのではないかと思います。

因みに授業中の落書きは、これは「無報酬刺激に対する回避行動」ですね。恐らく自己表現の類ではないんじゃないでしょうか。
文字や絵を描くというのは、それを思考の対象として表象化するということです。紙や鉛筆を使って行うのは「外部記憶」に当たりますが、それが表現や情報伝達でないならば、対象を具現化することによって「思考の支援」を行っていることになると思います。では、その目的が表現の実現ではなく「思考あるいは好奇心の充足」であるならば、脳内報酬はこれによってちゃんと発生するのではないかと思います。

>最後にこれは本題とは関係ありませんが、よく「食欲」「性欲」「睡眠欲」が三大欲求という風に言われるのですが、睡眠欲は生物学的には欲求ではないのですか?

生物学的にどのように扱われているのかというのは私も正式には知らないのですが、これが三大欲といいますのは恐らく人間が逆らえないものの「一般的な例え」ということではないかと思います。
摂食行動や生殖行動といいますのは環境に与えられたチャンスを的確に物にするため、「内的動因」と「外的誘因」の両立によってコントロールされています。摂食行動におきましては「空腹状態が内的動因」、「餌の発見が外的誘因」となり、一連の本能行動といいますのはこの両方が揃わなければ実行されない仕組みになっています。生殖行動では「発情状態(動因)」と「性的刺激(誘因)」の組み合わせですね。
ところが、睡眠にはこの「外的誘因」というのがないです。つまり、「生理的内的動因」が成立すればその場で直ちに実現してしまうわけです。

では、我々はどうして眠りたいという欲求に駆られるのでしょうか。それは、授業や会議などで寝てはいけないときです。しかも、「いっそこのまま目を閉じてしまいたい」、この誘惑に打ち勝つことのできるひとはまずいません。
心理学で欲求とは「生理的な不足を補うための緊張状態」ということだそうです。生理的な内的動因ということでしたら睡眠欲もまた立派な潜在的欲求なのですが、少なくともここには「行動選択の動機付けに伴う緊張状態」というものは存在しないです。
三大欲などと言いますが、厳密には性質が全く違いますね。ですが、紛れもなく共通するのは、この三つを我慢するのは誰にとっても苦痛であるということです。
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こんにちは。


「表現」といいますのは「他者の存在を前提とした行動選択」です。
そして、我々動物がこれを実現するためには、
まず、「自分の行動の結果は相手に伝わるものである」
そして、「これによって何らかの利益が獲得される」
我々は生後環境において最低でもこの二つを学習しなければ表現をしたいという欲求を発生させることはできません。従いまして、これは本能行動ではなく、明らかに「学習行動」ということになります。
では、孔雀が羽を広げたり繁殖期の魚がメスにアピールしたりするというのは本能行動です。ですから、こちらの場合には何らかの生後学習をする必要は一切ないわけです。

「本能行動の特徴」といいますのは、何よりもそれが全人類に共通であるということです。
心理学といいますのは統計学ですから、このように多くのひとに共通する行動を「○○欲求」などと分類することができます。ですが、生物学的では統計的な数値ではなく、飽くまでそれが先天的要因であるか後天的要因であるかによって本能行動と学習行動という線引きが成されます。
我々の脳は身体内外に発生する環境の変化に対して利益・不利益の判定を下し、これに基づいて与えられた状況に応じた適切な行動を選択します。
本能行動といいますのはこれに用いられる「利益・不利益の判定基準」が多くのひとに共通するかではなく、それが「生まれる前から遺伝的に定められているかどうか」によって分類されます。これに対しまして、我々が生後体験の結果に基づいて個々に獲得してゆく様々な判定様式を「学習行動」と言います。このため、本能行動といいますのは結果的には無条件で全人類に共通ということになるのですが、学習行動にはそれぞれ生後体験の違いによって必ずや個人差というものが反映します。

「食欲」「性欲」「快感・苦痛」、このように、我々動物が生命活動を実現するために必要な判定基準を「生物学的利益」といい、これに適応しない遺伝情報といいますのはあらゆる生物の進化の過程で尽く淘汰されてゆきました。このため、「我々の脳(中枢神経系)」といいますのは必ずやこの生物学的利益・不利益に基づいて反応を発生させます。
食欲や性的刺激に対する反応といいますのは遺伝情報として定められており、生涯に渡って変更することはできません。このようなものが「本能的欲求」ですね。
我々が生まれたとき、脳内の学習記憶といいますのは全くの白紙状態ですから、使えるのは本能行動の判定基準だけです。このため、果たして赤ちゃんといいますのはこのような本能行動の判定に基づく様々な結果を体験することによって自分に与えられた生後環境において何が利益であるのかを学習してゆきます。これがどういうことかといいますと、つまり学習行動といいますのは生後体験にこそ個人差はあるのですが、その学習の基盤となりますのは誰しも例外なく全人類に共通の生物学的利益であるということです。

「学習行動の特徴」といいますのは本能行動の逆であり、そこには与えられた生後環境によって価値観の違いがあるということです。ですから、何かを表現したいという欲求においてもまた必ずや好む好まないの個人差があるはずです。ですが、これが心理学で分類の可能な「多くのひとに共通する画一的な行動」として現れるのは、それは取りも直さず、その価値判定基準が生まれ育った社会の文化や慣習から学習されたものであるからです。
このように、学習行動といいますのは自分に与えられた生後環境に適応するためのものですから、本能行動のように生まれる前から反応基準が決まっている必要はありません。ですが、同じ文化に育った人々であるならば、果たしてその多くが同じ価値観を共有することになります。

これまでご説明致しましたように、学習行動を選択するための価値判断といいますのは生後体験に基づいて後天的に獲得されたものです。ですが、先に申し上げました通り、脳における学習といいますのは動物が動物として生きてゆくために定められた生物学的利益がその基盤となっています。ですから、そこには先天的・後天的要因の違いというものは存在しますが、実際には本能行動と学習行動を切り離して考えるというのはたいへん困難なことです。
例えば、学習行動において何が利益であるのかは後天的に獲得された価値観であり個人差があります。ですが、それがどのような判定基準であったとしましても、脳内でひとたび不利益という判定が下されたならば、我々動物といいますのはこれ対して接近行動を選択することは絶対にできません。これは生得的定められていることであり、何びとといえどもこれに逆らうことはできないです。
では、「欲求」というのはどうして発生するのかといいますと、それは我々の脳が環境からの入力に対して利益・不利益の判定を下すからです。で、この判定結果に対応して脳内に生み出される「行動選択の動機」が即ち欲求ですね。従いまして、何らかの自己表現を行うということは、これに基づく利益の獲得がその動機ということになります。

何かを表現し、それを他者に受け入れてもらいたいという欲求は、これは本能行動ではありません。ですが、我々動物の行動選択における動機の出発点といいますのは、果たしてその全てが生命活動を実現するために定められた生物学的利益・不利益です。
不利益に対して行動を選択することはできないと申し上げましたが、我々人間には本能行動や情動行動を抑制して「理性行動(計画行動)」を選択するという高い知能があります。もちろん、現代人においてはそれで社会性ストレスを溜め込むという代償も払っていますが、これによって共通の利益を共有する高度な社会行動を構築し、結果的には人類が種の存続をより有利にすることが可能となっています。
全ての生命といいますのは生物学的利益を獲得することによって生き延びるというのがその使命であり、例外はありません。
人間といいますのは少々特殊な生き物ですが、その行動において「○○欲求」といった心理学的分類が可能であることは注して不思議なことではありません。そして、基を正すならばそれが我々人類の生命戦略に繋がっています。ですが、この知能の高さという特徴によって人類の進化の延長線上にどのような結果がもたらされるのかというのは全く予測できることではありませんし、また、これが生物学的に最も有利な戦略であるかとうかを知るというのは、残念ながら我々にはできないことです。

この回答への補足

ruehasさん

ご回答ありがとうございます。
大変興味深く読ませていただきました。
理性は共通の利益を共有するためにあるんですね、なるほどと思いました。

加えていくつか質問があります。
まず、表現することによって「何らかの利益が獲得される」ということですが、
これは基本的には「認められる」「称賛される」「憧れられる」ということだと思います。
(場合によっては金・女ということもあるでしょうが。)
人はなぜこれらを利益(つまり快楽を得られるということ?)と判定するのでしょうか。
これは人が集団で暮らすことを遺伝情報として持っており、
集団から外れることは生命の危険を意味するからでしょうか。
あるいは認められなければ生きていかれないということを後天的に学習するからでしょうか。

2つめは、必ずしも相手の存在を前提とせずに表現する場合もあるのではないか、ということです。
たとえば、授業中にノートに落書きをしたり、字をよりきれいに書こうとすることも表現の1つだと思いますが、
これらは人に見せることを意図していない場合もあると思います。
むしろ人には見られたくないという場合もしばしばあります。
また子供が黙々と落書き帳に絵を描いたり、芸術家にしても発表する目的じゃなく、
単純に練習のためでもなく、作品をつくることがあると思います。
これらの行為によってなぜ快楽を得られるのか、ということがよくわからないのです。

最後にこれは本題とは関係ありませんが、
よく「食欲」「性欲」「睡眠欲」が三大欲求という風に言われるのですが、
睡眠欲は生物学的には欲求ではないのですか?

補足日時:2009/05/09 16:32
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こんばんは。


生物のカテゴリーとは少し違う気もしますが…。

人間は、社会性のある生き物です。
食欲と性欲、この本能に加えて、人間には、社会的安定を求める第三の本能があるといわれています。

自分の存在を認めて欲しいという欲求は、本能なのです。

芸術が価値あるものとして存在するのも、人間の第三の本能があるからに他なりません。

この本能は、高度に知的進化を遂げた人間独自のものです。生物全般には当てはまりません。

ここでこうして回答しているのも、第三の本能に突き動かされているからなのです(笑)。

この回答への補足

kottinQ
ご回答ありがとうございます。

ruehasさんのところにも書きましたが、「自分自身のためだけに」表現するということもあると思うので、
もっと根源的な(たとえば性欲と結びついてしまうような?)欲求なのかなと思ったのです。
認められることではなく、表現すること自体がそのまま快楽になっているような。。

個人的に哲学とか心理学ではなく、生物学的視点で(つまり本能レベルで)説明されるのがいちばん腑に落ちるんです(笑)。

補足日時:2009/05/09 16:35
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