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司馬遼太郎によると、日本史的に現在は(どこを境だったかよく覚えていないのですが)古代とは断絶してしまっている。あるところからしか連続性はない(おそらく応仁の乱以降くらい)と言っているのですが、それは妥当な評価なのでしょうか。

A 回答 (4件)

応仁の乱で断絶しているという見方が有名です。


おおむね妥当だと思います。
以下の質問を参考にしてください。

日本の歴史は安土桃山以降を学べば十分?
http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4835200.html
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

やはり、応仁の乱は大きな変動でしたね。歴史のエアポケット的にあまり有名ではないようですが。

お礼日時:2009/06/10 16:45

 


 歴史の断絶 ~ 史論・試論・私論 ~
 
 邪馬台国や大化の改新は伝承、それ以前は神話と考えられます。
 とくに神代はデタラメで、壬申の乱までの記述はマユツバです。
 そこで、壬申の乱をもって、古代との断絶を画すべきだと思います。
 
 1.読物と史観
 
 彼は学者ではなく、新聞記者あがりの座談の名手なので、変幻自在の
発想に、つい引きこまれますが、しばしば虚々実々だったのです。
 つぎの過去質問でも、ほとんど根拠が見あたりませんでした。
 
── 《花神 19720526-0825 新潮社》では、しばしば大村 益次郎が、
大量の井戸水を飲む描写があり(略)単なる空想だったのでしょうか。
http://oshiete1.goo.ne.jp/qa2677669.html
 
── 学問的に細かく検討を加えるのもあまり意味がない。
http://www.bun.kyoto-u.ac.jp/~knagai/2semi/ozaki …
 尾崎 次郎《司馬史観について 1998 現代文化学基礎演習》
 
 2.伝説の冗句
 
── 「細川家には、昔はもっと良い宝物があったんですが、戦争でか
なり焼けてしまったんですよ。いやいや太平洋戦争の時ではなく、応仁
の乱の時ですがね」── 護煕の父である護貞のジョーク(Wikipedia)
 
 わたしの記憶では、指揮者の近衛秀麿も「前の戦争では、貴重な本を
失くした」と語った、と作曲家の團伊玖磨が対談集《パイプのけむり》
に(兄の文麿、真梨子夫人をふくめて)八回も引用しています。
 
── 近衛さんは生前楽界では、「おやかた」と呼ばれていた。朝比奈
隆さんが「おっさん」と呼ばれるのと同じ、尊称の混じった愛称だった。
だが近衛さんの「おやかた」は、「親方」ではなく「お館」だったらし
い。つまり「お館さま」の短縮形というわけだ。さすがは堂上貴族で、
五摂家の一員らしい尊称ではないか。多分選挙運動の真っ最中だったが、
何かの会話の途中に、「あそこのうちはね、途中で代が変わっています
からね」といわれた。何の話だろうとよく考えてみると「あそこのうち」
とはおそれ多くも「天皇家」のことだったのである。南北朝の時代のこ
とを指してのことだろうが、近衛家はそれでも代変わりはしていないと
いう、貴族のプライドのようなものがひしひしと感じられた。天皇家を
「あそこのうち」呼ばわり出来るのは、当時といえども近衛さんぐらい
しかいなかったろう。
── 出谷 啓《クラシック この演奏家を聴け! 19960410 音楽之友社》P59
 
<PRE>
 近衛 秀麿  指揮 18981118 東京   19730602 74 /文麿の弟
 細川 護貞  文人 19120717 熊本   20051003 93 /護煕の父/近衛文麿の秘書官
 森繁 久彌  俳優 19130504 大阪          /~《夫婦善哉/知床旅情》
 司馬 遼太郎 作家 19230807 大阪   19960212 72 /元産経新聞記者~《国盗り物語》
 團  伊玖磨 作曲 19240407 東京 蘇州 20010517 77 /~《夕鶴》
 久世 光彦  演出 19350419 東京   20060302 71 /TBS~《寺内貫太郎一家》
</PRE>
 
 3.記憶の断絶
 
── 森繁さん自身の述懐によると、英語への拒否反応は、七十数年前
の<北野中学>の英語の教師のせいだという。ネチネチした性格の教師
で、一度も森繁さんに及第点をくれなかったらしい。そういう教師はも
う一人いて、これは<日本史>の担当だった。授業をまるで聴かなかっ
た。それが証拠に、いまも森繁さんは<応仁の乱>についてほとんど何
も知らない。
── 久世 光彦《森繁 久弥の大遺言書 20040701 週刊新潮》P068
 
 むかし中学時代の恩師に、日本史を三分し「大化の改新、明治維新、
第二次大戦敗北」と教わったことがあります。その後、いろいろ学んで
みると、いささか大雑把な、印象区分に思われるのです。
 
 4.記録の断続
 
 太安万侶・編《古事記》の成立事情は謎のままですが、舎人親王・編
《日本書紀》は、壬申の乱の勝者となった天武天皇を正当化するため、
神話・伝説を総括、大化の改新に言及して“六国史”につづきます。
 
《続日本紀・日本後紀・続日本後紀・日本文徳天皇実録・日本三代実録》
 その後《新国史》が伝聞されますが、律令政治の衰退により完成しな
かったようです。
 
 のち1869年、明治政府は《明治史要・大日本史》を継ぐ《孝明天皇紀》
《明治天皇紀》を完成します。《大正天皇紀》も、2002年に一部黒塗り
で公開され、《昭和天皇紀》の編纂も進められているそうです。
 
 日本は「万世一系」だから尊いのではなく、歴史の記録が連続している
から先進的なのです。
 「天皇」が尊いのではなく「天皇の記録」に歴史的価値があるのです。
 
 日本史を、天皇の記録に沿って学ぶことは、なかなか合理的です。
 たとえば、南北朝の並立も、元号の対比で、とても分りやすいのです。
 つまり「皇紀2600数十年」でなく「有史1330余年」なのです。
 
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

お礼日時:2009/06/10 16:48

まあ、学者らしい考え方ですね。


戦国大名に諸国の天領を侵略され、天皇の葬儀も出せなくなっていた。
織田信長に7千石の領地を献上してもらう。(禁裏御料)

鎌倉時代初期には承久の乱を起こす程の力があったが、
これを境に武家と公家の力の差が歴然としました。

私的には、
下克上とは言え、
清和源氏が幅を利かせており、規則性を見ています。

天皇の血筋と官位です。
慣わしは180度変えられません。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8B%E5%85%8B% …

(何だかなり整理されちゃいましたねーーー。。^^;)
私的には革命的だと言う認識はありません。

私的には#1様と同じです。
戦後がそうです。
(華族制度の廃止。)→国民主権。

日本人の慣わしや風習、思想が180度変わりました。(革命的)
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

戦後の断絶と言うのは、社会の根本からではなくて、政治体制的な変動ではないでしょうか。もちろん、大きな変動でですが、戦前と言うものも多く残りましたよね。高度経済成長のほうがその前後で社会根本的な差は大きいです。

お礼日時:2009/06/10 16:48

質問の回答にならないのですが…



> 日本史的に現在は(略..)古代とは断絶してしまっている

「この国のかたち」の中にある「"統帥権"の無限性」で昭和ヒトケタから昭和20年までの約20年間を、日本のどんな時代とも違うと書いています。つづいてその20年間を抜けば、例えば兼好法師や宗祇の時代と現代は日本史的な連続性がある、としています。

司馬遼太郎さんとしては…
現代は平安や鎌倉といった過去の時代からの連続、として考えられるけど、昭和の最初20年間はまったく連続性が無い(むしろ別の国の歴史と断言したいような)
…といいたいのでは?

ですから古代と断絶、というのはちょっと違う気がします(汗)
もし他の文献で、質問者様のおっしゃる内容を記載してある書籍などありましたら、お手数ですがお知らせください。

この回答への補足

文献についてはどうもわからないです。
たしか、半藤一利の担当したNHKの教育番組でそんなことをいっていた記憶があります。

補足日時:2009/06/10 16:42
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

昭和の20年間はひとつの比ゆなんじゃないでしょうか。そこだけ、本当の意味で断絶しているのではなく、政治的に特異な状況になった、でも本質は連続しているのでは。自身の兵役からなにかヒステリックな価値観を表出している気がします。

お礼日時:2009/06/10 16:42

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