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 私は子供の頃から、固い性格をしている部分があります
 暴力的や押し付けがましい人間が嫌いでした
 
 幼稚園からその傾向がありました。
 いじめをしている子を止めたら、報復のように自分が苛められるようになった事を覚えています。

 その後は「いつ自分が苛められるのか」とビクビクしながら生活していました。苛められている子がいても「かわいそうだけど、長いものに巻かれて安全地帯にいたい」という思いから、無関心に行動していました。
 しかし、一時期自分がいろんな面でうまく行きすぎた時期があり、周りから異常なまでの持ち上げられ、調子に乗ってしまいました。これまでビクビク生活していたストレスを発散するがごとく、不良連中といじめに加担してしまいまいした。結局は、先生から親と一緒に学校で呼び出しを食らう事になったのですが、「自分がどうしてこんなことをしてしまったんだろう」と思うようになりました。

 それから、自分の行動を悔い改めると共に、周りに惑わされない自分なりの善悪の判断と信念と哲学みたいなものを得られないものか?と思うようになりました。そして、人間関係で苦しむのではなく豊かな気持ちを得られないものかと、思うようにもなりました。

 そこで、なんとなく信仰を持っている人は、倫理観もしっかりしてるのではないだろうかと思いから、いろんな宗教の見学に行くようになりました。

 いろんな所に足を運んでみた感想として、親切に対応して頂けるので、「これならば続けられるかもしれない」と毎回思います。しかし、信仰の教えの書かれた本を頂き、信仰についての教えを詳しく伺うようになるとなんだか気持ちが冷めてしまいます。

 その理由としては
 1、皆さんが信じていることが浮世離れしているように思えてしまい、本気で信じることができない
 2、深く足を踏み入れてしまったら、お布施などの強要が始まり、脱会しようにも、人間関係のしがらみに苦しめられるかもしれないというネガティブな発想
 3、信じてもいない信仰なのに、単純に継続して通うのが辛い
 
 そういう自分の気持ちを考えると「なんとも安易な発想で信仰を始めようとしている」自分に気づきます
 ただでさえ、学校や仕事を抱えているのにも関わらず、皆さん毎週足を運ぶことができるものだなぁと、つくづく感心します。せっかくの休みはダラダラしたり、友達と遊びに行ったりとする欲を捨ててまで、信仰するのですから、やはり確信をもってらっしゃるのでしょうか?
 
 そこで、信仰を持っている方に伺いたいのですが
 1、どういうきっかけで信仰をはじめましたか?
 2、生活において身になっていますか?
 という点について伺いたいのですが

A 回答 (12件中1~10件)

 地球は太陽の周りを回っていて、僕らの太陽系は銀河系の端っこの渦巻きをつくっている星のかたまりの中の一つに過ぎず、宇宙には銀河系のような星団が無数に集まった「島宇宙」というものがあり、さらに宇宙には「島宇宙」がたくさん存在している。

人間の寿命はたかだか100年くらいですが、宇宙の中で太陽から一番近い星に行くのでさえ、東京→北海道を1秒で移動できる速さの乗り物をつかっても700年かかる(一番近い星でさえですよ)。想像を絶するほどの広大な宇宙。
 こういう世界に僕らは現に生きている。しかも「どこから生まれてきたのか」を知らず、「死んでどうなるか」を知らない。そのことの不思議さを気にしないで生きている人たちの方が、むしろ不思議な存在だと思えます。自分の乗ってる「人生という乗り物」がどこから来て、どこへ行くのかを知らないで生きているとは、それこそ「非現実的」な生き方ではないでしょうか。
僕が信仰の世界に入ったのは、「本当のことを知りたい」と思ったからです。人間はどこから生まれて、何処へ行くのか。人間は何のために生きているのか。なぜ、幸せを求めながら、人は人と争うのか。いったい何故・・・これを知りたかったからです。
もし、その答えを教える宗教があって、その答えに心底納得できたなら、信者になろうと思っていました。この世界が存在する意味をちゃんと知ることができたなら、自分は「浮世離れ」どころか、しっかり大地に足をつけて生きていけると思いました。
おかげで、人と争わず、自分が人生で何を目標にしなければいけないかをしっかり見ながら生きていけるようになりました。
宗教以外の学問の弱点は、「人間はいずれ死ぬ」という事実にアプローチできていないことです。人間にとって将来必ず訪れる確実な事実について、「知らないふり」をしています。「わからない」で通しています。だから最終的に人を納得させることができないのです。それができるのは宗教だけです。あとは「どの宗教が正しいのか」を見つけるだけです。「そんなのない」と言う人ほど、ちゃんと探していないのではないかと思います。
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 宗教は嫌いです。


 理由は、小学校の時に、キリスト教系の日曜学校に通っていた事があって。その時に、「キリスト教を信じない人は地獄に落ちて、永遠の業火の中で焼かれる」と聞いて、「じゃあ、キリスト教を信じていない私のいとことか家族はどうなるのだろう」と思い悩んだからです。
 それで。いろいろ悩んだあげくに結論が出て、「信じていない人を地獄に落とすとう宗教は間違いである」という結論に達しました。
 でも、この説で考えると。イスラム教も駄目な宗教なんですよね。イスラム教も、イスラム教を信じない人は、永遠の地獄に落ちると説いているので。
 という訳で。心の狭い、宗教は止めにして、今は、スピリチュアルリズムを信じています。
 初めて、『未来からの生還ー臨死体験者が見た重大事件』を読んだ時はとても感動しました。http://www.amazon.co.jp/dp/4810420973/ref=nosim/ …
 だって。どう考えても、悪い事をしている、地獄行き(?)のような人が天国に行って、また、地上に戻ってきた(生き返っただけだが)という話なのだから。
 いい話です。何も信じていなくても、みんな天国に行くということが証明されたのだから。
 まあ、それを、どの程度良いことと考えるのかについては、その人次第ですが。
 一部のマスコミの人が言うほど、スピリチュアリズムを信じている人はいないのが実情ですが。多分、お金はそんなに掛かりません。掛かるのは、本代だけ。
 『神との対話』は良い本です。完全に”納得のいく話”ではないですが。一応の所は、「面白い話」だと思います。
 という訳で。何が正しくて、何が間違っているのかは自分で決めるものです。
 日本の神道の特徴は、「正式な教典がない事である」と、ウィキペディアに書いていました。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E9%81%93
 後、日本の仏教の特徴は、「お経で何を言っているのかさっぱり分からない」事だと思います。
 葬式仏教だと、揶揄する意見もありますが。おそらく、神道の影響のせいで、「意図的に、何が正しいかについての考えを言わない」ことに特徴があるのだと、思えます。
 あなたは、イスラム教という宗教がまともな宗教だと思えますか?
 コーランをちょっとだけ読んだ事がありますか。「偉大なる神の御名において」という言葉がほぼすべての文章の枕言葉です。わざわざ、「偉大なる神」と言わないといけないような神なんて、間違っていると思います。
 旧約聖書に含まれているレビ記を少し読んだ事がありますが。いわゆる(日本的?)差別の内容がぎっしりつまっています。これを、ユダヤ人が絶対視しているのかと思うと、本当にうんざりします。
 ということで、多分、ユダヤ教も間違った宗教です。
 
 世界の3大宗教のうち、2つまでもが、私の認定する所の、「間違った宗教」ということなので。私は宗教が嫌いです。
 ということで。「そもそも、宗教なんて、信じられるのか」というのが、私の疑問です。
 キリスト教徒なんて、見かけは親切そうでも、腹の中では、「この人は永遠の地獄に落ちる事が決まっている人だ」と考えて、話をしているのかもしれませんし。と思ってしまいます。
 
 まあ、すべての宗教がそうではないのかもしれませんが。少なくとも、「恐怖で脅す」たぐいの宗教というか、教えは信じない方が良いと思います。

 ちなみに。「引き寄せの法則」(という本)の説に従って。私は、パニック映画とかは嫌いです。「引き寄せの法則」の作者の人は、「自分の身に起こって欲しい話だけを聞くようにしよう」と言っています。という訳で、私は、「人が何人も死ぬような映画」とか、「戦争の映画」とかは嫌いです。
 私が実行しているのか、こんな所です。まあ、ある程度、結局の所は、個人の意見でしょうが。
 別に、スピリチュアルリズムを信じている人と、会った事がある訳ではないので。
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信仰する人には大きく分けて二通りあると思います。



自分で考えその教えの良い部分だけを信じている人。
自分で考えるのが嫌で他人の考えに染まる人。

前者の場合、その宗教のすべてを信じるわけではない場合が多く、あまり熱心な信者になりにくくなります。

後者の場合、考えたくないのでその宗教の教えを盲信してしまいます。

自分は仏教、特に浄土真宗の教えなどに好きな部分があり何を信じていると答えられれば浄土真宗と答えるでしょう。
しかし、仏教だけでなく、キリスト教にもイスラム教にも儒教にも良い部分もあれば悪い部分もあります。
だから浄土真宗だけを妄信する気もないし、他の宗教の良い教えの部分は信じるつもりでいます。

なのである意味自分だけの宗教というものができているとも言えると思います。

日本人の宗教観で元々素晴らしいところは、複数の宗教を同時に信仰出きるというものです。
元々八百万の神が居て、神道があって、さらに仏教がありました。
そういう複数の宗教の良い所取りをして、自分にあった宗教を組み立てる。
日本人の宗教観はそんな感じで、仏教や神道を元にはしているが、結局は民間信仰に近いものなんだと思います。

なので、新興宗教のようにその宗教だけを信じなさいと言う宗教に違和感を持ってしまいます。
だから、AZwgnさんが冷めてしまうのは日本人の宗教観として当たり前のことなんだと思いますよ。

>そこで、なんとなく信仰を持っている人は、倫理観もしっかりしてるのではないだろうかと思いから、いろんな宗教の見学に行くようになりました。

そうなんだろうと感じた人の多くは自分で考えるのが嫌で他人の考えに染まる人タイプの信仰をしている人だと思います。
自分で考える必要がないために、ただただその宗教の教えとおりに行動をしていれば良い。
だから迷いとか矛盾が少ないためにぱっと見は倫理観がしっかりしているように感じる。
しかし、自分で考えない行為が人間と言えるのでしょうか・・・
迷い、自分で答えを出していくのが人間だと思います。
そのために多少倫理観に外れる行動が起きてしまっても・・・

自分はさまざまな部分で自分の身になっています。
しかしこれは妄信したから出なく、自分で考え時には否定し、別の宗教の教えの方を重視したりと言ったことを繰り返してきたからだと思います。

一つの宗教だけを妄信するのは、所詮その教祖や今の指導者のコピーになる行為です。
コピーはオリジナルを越える事は出来ないどころか、劣化しかしません。

せっかくAZwgnもさまざまな宗教を見ているのなら、それぞれの宗教の教えの良い所取りをして、自分が納得できるものを作っちゃえば良いのではないでしょうか。

また、信仰=欲を捨て去ることでもないですよ。
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仏教徒(25歳)です。


1、きっかけは美術品としての仏像の美しさに魅かれたからです。
2、身になっています。私の持論からいうと、仏教は宗教ではなく自分が如何に生きるかを問う哲学だと思います。

私の信仰しているのは浄土真宗(西本願寺)という宗派ですが、よく教義を勉強すると仏教は驚くほど当たり前なことを説いています。科学的な目で見てもなんらおかしなことは言っていません(浄土真宗では占いやまじないを信じませんし、何かご利益を求めてお祈りすることもありません。生きていることを感謝するのみです)。元々インドにはヒンドゥー教というまじないや占いを中心とした宗教があって、釈迦はその非合理性を嫌って仏教を開いたので、本当は仏教はそういうものと縁がないはずなんです。浄土真宗以外の仏教宗派では占いやまじないや祈祷をやりますが、これは釈迦亡き後にヒンドゥー教勢力から仏教徒が迫害されたために仕方なく生き残るためにヒンドゥーのやり方を取り入れることで勘弁してもらわざるを得なかった名残りです。
例えば受験の合格を願う時、他の宗教なら神に祈れというに違いありませんが、仏教では「結果には必ず合理的な原因があるもの」というのが基本の教義ですので(これを因果といいます)、受験合格のためには合格の原因となる行い、つまり一生懸命勉強せよというのが仏教的思考です。お祈りしてる時間があったら参考書とにらめっこしてる方が合格の近道だぞというのが仏教です。この辺のことがわからない人が宗教というものを怪しいものと決め付けているのだと思います。
ですから、仏教、特に我が宗派では休日返上してお寺に来いというようなことは言いません。そうしないと救われないだの地獄に落ちるだのいう宗教は全部インチキだと思えばいいんです。休みはダラダラしたり遊べばいいのです。

「何が楽しいですか?」という質問に答えるとしたら、仏像の鑑賞やお寺へ観光旅行に行ってついでに美味しい物を食べること、たまに数珠なんかを特注で作って材料や色をあれこれ考えることなどはとても楽しいです。仏教はカジュアルに楽しいです。
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不安から宗教にのめりこんだ人を知っています。

溺れる者は藁にもすがる、というやつです。宗教といったって、神と会話できるわけじゃなし、所詮、相手は、同じこの世で生を食らい欲を捨てきれぬ人間です。高々100年しか生きることしかできない、磐石定まることができぬ、時と共に心身移ろう人間です。信念は自分で持つしかありません。間違っていても信ずるに足る自分の中の揺らぐことのない気持ちを持たない限り、いくら宗教という外部のものに頼っても、心の平安は得られないでしょう。まあ、背伸びはしないことです。弱い部分があっても良いじゃないですか。
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【1、どういうきっかけで信仰をはじめましたか?】



キリスト教会付属の幼稚園に入れられたため。

【2、生活において身になっていますか?】

あまりに多くを失いました。おかげで、一生再発を警戒しなければならない精神病です。

キリスト教は(原理主義的、いわゆる異端的なところでなくとも)
個人の信仰だけでなく、教会における礼拝を非常に重視します。
なぜ時間を決めて集まって礼拝をするかといえば、
プロテスタントでも共同体の宗教だからです。

これには絶対的な権威があります。

「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。
そうすれば、これらのもの(必要なもの)はみな加えて与えられる」
だから休日出勤しないで礼拝に出るべきだ
教会の活動に参加すべきだ。しないとは何事か。

実際に教会の役員に言われた言葉です。

「すべての人にほめられるとき、あなたがたは不幸である。
この人々の先祖も、偽預言者たちに同じことをしたのである。」

人にほめられることを徹底的に、逃げるように避けるようになり、
自己評価をさらに低め、精神病への素地をつくりました。
自己評価が低いのは大変危険です。称賛は受容しないと危険です。

また、子供の頃はそういう概念すらなかったのですが、
発達障害があり、宗教的権威的刷り込みを受けやすく、
これに「興味あることへののめりこみ」が加わると、
とんでもない活動へののめりこみを起こします。
110万円かけて奏楽練習用のオルガンを買ったり、
実際にそれで会社から帰ってから1日2時間も練習したり、
礼拝学の研鑽を深めたり。

これほどの活動が、土台、企業活動と両立できるはずがありません。
結果、鬱になり、現在は双極2型になり、
首の皮1枚で会社とつながっている状況です。

もし、父親が教会に出入りしていなかったら、
私の誕生を感謝して洗礼を受けるということをしていなかったら、
私の人生はもっとましなものになっていたかもしれません。

宗教は、危険なまやかしです。近づいてはなりません。
そのようなものに、救いは、ありません。

「神は妄想である-宗教との決別」(リチャード・ドーキンス)
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自分のことではありませんが、周囲の信仰を持っている人の様子を総合するとこんな感じです。



>1、どういうきっかけで信仰をはじめましたか?
私の知っている人たちは「家族が熱心な信者で、自分もとくに疑問もなく信じるようになっていた」という人が多いです。
その人の人格形成において、芯になっているように見えます。


> 2、生活において身になっていますか?
私からは、その人たちはその宗教の信仰を通して日々自分を高めているように見えます。
とくに高額の金銭を支払っている様子もありませんし、友人である私を強く勧誘してくることもありません。
素直にいいなぁ、とうらやましく思います。
子どものころからずっと何かを信じ続けることができている人は、独特の強さやしなやかさがあるように見えます。
私の友人の中には、一般的にあまり評判のよくない宗教の人もいますが、少なくとも私からみて、その宗教がその人に悪い影響を及ぼしているようにはみえません。

友人たちをみてると、「私も何かを信じてみたい」と思うんですけど、そう理性で判断して信じる者を探している時点で、その友人たちの境地には決してたどり着けないのだと思います。
おそらく、自分で「みつける」のではなく、運命的に「出会う」ことが大切なんでしょうね。
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1、どういうきっかけで信仰をはじめましたか?


『面白そうだから』
 自分は基本(無宗教)ですが、海外に渡航する場合、たまに宗教をかく欄があります。基本そこには『無宗教』と書くと何かと海外ではまずいので必ず『ジェダイ教』と書くようにしています。
 教義は『己のフォースを信じること』で
  それぞれルークスカイウォーカ派と
      ダースベーダ派があります
 ロンドンの教会ではミサと称して、ライトセーバーによるちゃんばらごっこがあるそうですが、自分はいったことがありません
 いっておきますが、本当にありますからw
 グークルなんかで「ジェダイ教」で検索すれば出てきてます


2、生活において身になっていますか?
 海外で、スターウォーズは人気ですからね。商談の時に話のネタになります。
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私の意見ではありませんが、ほかの人の意見です。


1、集会に誘われて。
2、身になってません。きっとお布施が足りないのです。
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AZwgnさんと同じような経験をしてきました。


私なりの回答をすれば、

>周りに惑わされない自分なりの善悪の判断と信念と哲学みたいなものを得られないものか?と思うようになりました。そして、人間関係で苦しむのではなく豊かな気持ちを得られないものかと、思うようにもなりました。
これは誰でも考えているということです。そしてそれを捜し求めているのです。
その結果が、人によっては宗教という「他から、豊かな気持ちを与えてもらう」ということに行き着くのだと思っています。

ちょっと突飛ですが、司馬遼太郎のエッセイに「人はどうして自叙伝(または日記)を書くのか?」という命題があります。
日記を書くのは、「自分の行動を悔い改めると共に、今までの自分の言動から、他に惑わされない自分を導き出す」ために書くのだそうです。ものすごくストイックな考え方です。
そういう視点で見てみると、更級日記、土佐日記のように日本人は比較的昔から日記を書いてきました。これは宗教が多神教で「ゆるぎない善悪の基準と幸せ」を与えてくれないからです。
1神教の世界を見てみると、たとえばキリスト教の場合、カソリックの時代には価値のある自叙伝は輩出されていません。プロテスタントになり、神と自分の信仰が1対1で結ばれるようになって、初めて日記に価値がでるようになってきています。
つまりプロテスタントの時代は教会が信仰の代行をしていたので、戒律を守り教会に逆らわなければ、善悪の基準と心の安定を得ることができたのです。そのために教会は免罪符というお金で懺悔(神の許しを請う)を受け入れる仕組みをもっていました。

日本人なら、免罪符がいかに胡散臭いものか良く分かると思いますが、自分の所属して社会全体がそのような基準で善悪が決まる為、誰も疑問に思わなかったのです。

日本の場合は、多神教が基本で、善悪の基準が神(人)によって違うこと、厳しい戒律を守っても神が何も答えてくれないこと、を知っていますので、普通の人は「宗教」という言葉に胡散臭さを感じるのです。

しかし、心の底から打ちひしがれ、わらをもすがるような気持ちの人にとって、「一心に念仏を唱えれば救われる」などの言葉は、一筋の光明に感じるかもしれませんし、宗教に参加することで仲間(それも同じような経験のある)を得られ、心を強くすることが出来るかもしれません。
それでも「自分は宗教という外力に、己の克己心が依存している」という気持ちがあればいいのですが、それもなくしてしまうと「どうしてこんなに素晴らしいものを他の人は行わないのだろう」と思ってしまうのです。いらぬおせっかいですし、「赤信号みんなで渡れば怖くない」という間違った価値観に埋没してしまう可能性もあります。

このようないらぬおせっかいが、日本では宗教的な摩擦、弾圧となる歴史を有していて、中世でも宣教師と日本の庶民が
「イエスを信じれば天国にいけます」
「イエスを知らなかったご先祖は地獄にいますか」
「そうです。しかし貴方はこれから救われます」
「先祖と一緒がいいので救われなくていいです」
とか
「イエスは、全能ですべてをおつくりになられた、偉大な方です」
「じゃあなんで日本にくるのにこんなに時間がかかったの?」
とか
宗教には疑問をもつ姿勢が貫かれてきているのです。

宗教に頼ることが悪いことではありませんが、日本の社会の仕組みを考えれば、宗教に頼っても「周りに惑わされない自分なりの善悪の判断と信念と哲学」が得られないといえます。
それを得るためには、宗教仲間(またはその他の仲間でもいいです)に閉じこもって価値を信じあうか、何処でも通用する自分の価値観を身につけるかどちらかしかないといえるでしょう。
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