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関ヶ原の戦いで石田三成はなぜ小早川の裏切りを読めなかったのですか
あとなぜ石田三成が大大名の家康に対抗できたのでしょうか?
あとこの戦で小早川が裏切らなかったらどっちが勝っていたと思いますか?

A 回答 (3件)

>関ヶ原の戦いで石田三成はなぜ小早川の裏切りを読めなかったのですか



 そもそも三成らが大垣から関ヶ原に異動したのは、病気だのなんだの言って何もしてなかった小早川秀秋が突如、関ヶ原南方の松尾城を占拠したためです。
 秀秋の挙動が不審なのは把握していたが、せいぜい関白職を餌に牽制することしかできなかった、というのが本当のところかと。実際、大谷吉継は秀秋への備えを持っており、迎撃してます。

>あとなぜ石田三成が大大名の家康に対抗できたのでしょうか?

 これは推測交じりですが、五大老である毛利家の家臣団の一部からあらかじめ挙兵への支持があったのではないでしょうか?知恵者といわれた三成が宛もなく挙兵してから、毛利家を口説いたとする通説には違和感を感じます。
 直前の家康は、宇喜多家の内紛に介入、叛乱容疑で前田家から人質をとる、叛乱容疑で上杉家を攻撃するなど、自分以外の五大老を次々と締め上げて専制体制を目指しているように見えます。残る五大老の一人である毛利家としては、家中が危機感を持つのは自然なことと思います。
 また毛利家は関ヶ原合戦の折、伊予への侵攻、豊後への大友義統の派遣、大津城への猛攻など、積極的な行動が見られます。毛利家中は、吉川広家ら親家康派と、安国寺恵瓊ら反家康派に分かれていたのではないかと。「当主の輝元が安国寺恵瓊の口車に乗せられた」というのは、江戸時代に唱えられた毛利家のいいわけに過ぎないと思います。三成が挙兵した翌日には安国寺恵瓊と対談していることや、要請を受けるやいなや輝元が上阪するところなどは、ある程度毛利家には準備があったように見えます。

>あとこの戦で小早川が裏切らなかったらどっちが勝っていたと思いますか?

 難しい話ですね。
 参戦した場合は関ヶ原自体は勝つでしょう。しかし家康が脱出してしまえば、東軍は岐阜や清洲を拠点にして小牧役のような長期戦に突入するかと思います。
 傍観が続いた場合でも、西軍は兵力不足ですが大谷吉継の作った陣地があり、守勢に徹すれば負けはしないでしょう。1,2日後には大津城を攻略した毛利系の小早川秀包とその義兄弟で猛将の立花宗茂が到着、毛利秀元や吉川広家も中立を保てなくなります。東軍は関ヶ原から後退して、やはり濃尾平野でにらみ合いの長期戦となるのではないでしょうか?
 そのあとの展開は読みづらいですが、おそらく政略による大名の引き抜きあいになるでしょう。となると、団結に欠ける西軍が不利かもしれません。
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(1)関ヶ原の戦いで石田三成はなぜ小早川の裏切りを読めなかったのですか?



石田三成をはじめとする西軍首脳は、小早川が既に裏切っていると判断していたという説があります。
詳しくは
敗者から見た関ヶ原合戦 (新書y)
三池 純正 (著)
http://www.amazon.co.jp/dp/4862481469/
をお読み下さい。
関ヶ原で小早川が布陣していたのは、西軍が、秀頼を奉じた毛利輝元率いる西軍本隊が入城するべき「城」としてかなり本格的に築城した形跡のある「松尾山城」と言われる場所でした。小早川は、関ヶ原の合戦のしばらく前、石田三成ら西軍大部隊が大垣城で美濃赤坂の東軍部隊と対峙している時から、松尾山城に入って形勢を観望していたようです。

関ヶ原での西軍の布陣は、松尾山城の小早川の攻撃を予期したものになっています。実際、小早川が東軍に加担して西軍左翼の大谷吉継が指揮する部隊(大谷自身は小大名ですが、何人かの大名の部隊を合わせて指揮しており、小早川と兵力は同等と思われます)に攻めかかった時、大谷部隊は小早川の攻撃を軽く撃退しています。
ただし、その次の段階で大谷部隊の一部である脇坂・朽木・赤座・小川の隊が裏切りました。これによって大谷部隊の陣形は崩壊し、小早川部隊に蹂躙されることとなりました。
西軍左翼の大谷部隊が壊滅したことで西軍の戦線が崩壊し、宇喜多、小西の両隊が崩壊して「西軍敗北」が確定しました。なお、脇坂は事前に徳川から調略を受けていて裏切るタイミングを計っていたが、他の3大名は「脇坂が裏切ったので、自己保存のために同調して裏切った」とされています。

つまり「小早川の裏切りだけでは決定的ではなかった」ということです。兵力は小早川よりずっと少ないですが、大谷部隊の一部である脇坂隊ほかが裏切り、大谷部隊の陣形が崩壊したことが西軍全体の崩壊につながったのです。

なお、小早川が徳川家康の調略を受けて東軍に寝返っているらしいことは前述のように西軍首脳は知っていたようですが、脇坂に徳川の調略が及んでいることは西軍首脳は知らなかったようです。
西軍にとって
「小早川の裏切りは想定内。脇坂・朽木・赤座・小川の裏切りは想定外」
ということです。

(2) なぜ石田三成が大大名の家康に対抗できたのでしょうか?
これについては過去の質問
「石田三成の欠点」
http://oshiete1.goo.ne.jp/qa2536827.html
でNo.7の方が良い答をしておられます。補足して記しますと、

A) 石田三成は人望がなかったと一般に言われているが、大谷吉継・真田昌幸・立花宗茂など石高は小さくとも器量人とされていた人物が数多く三成に加担したことからも、信頼される人には信頼される人物だったと思われる。当時「日本最強の大名」と目されていた島津家も西軍についている。関ヶ原の合戦の当時に上方にいて、西軍に参加した島津義弘は、関ヶ原の合戦のしばらく前に薩摩の国許に「手元の兵が足りない。薩摩から早くまとまった兵をよこしてくれ」と手紙を書いています。
※ 毛利輝元が西軍についたので、瀬戸内海の制海権は西軍が把握していました。島津の兵は、日向を北上して瀬戸内海に面した所まで出れば、毛利氏麾下の水軍が上方まで送ってくれたはずで、陸路を行くよりずっと早く着きました。島津義弘は、三成が挙兵した頃は「むしろ東軍より」だったとも言われますが、関ヶ原の合戦の段階では西軍の武将として真面目に戦っています。

B) 毛利輝元が西軍の総大将になったのは、毛利家の外交顧問で輝元に強い影響力を持っていた安国寺恵瓊が、西軍を旗揚げした石田・大谷についたからですが、これも「三成の人脈」です。さらに、毛利家は石高では徳川家康の半分程度ですが、領内に石見銀山を持っていることもあり「日本で一番富裕な大名」と当時言われており、石高以上の国力があったと思われます。毛利が西軍の主将になったことは、西軍に絶大な信用を与えました。

C) 徳川家康が、福島正則など「太閤恩顧の将」を率いて上杉討伐に向かい上方を空けたのは「石田三成に挙兵させ、反転して討ち取る」計算があったとされます。しかし、三成が毛利を担ぎ出して西日本の大名がほとんど西軍につくという事態は全く想定外であったでしょう。

D) 当時の日本で最も老練な武将であった家康が「石田には何ほどのこともできまい。挙兵すれば幸い、討ち取れば良い」と思っていたわけで、質問者様が「なぜ石田三成が大大名の家康に対抗できたのでしょうか?」という疑問を持つのも当然です。
答は「三成には、家康ですら見誤る、意外なほどの人脈と組織力があった」ということになります。

(3) この戦で小早川が裏切らなかったらどっちが勝っていたと思いますか?
ご質問は「小早川が西軍側として参戦したら」ということでしょうか。これは、小早川がその気になればありえたことです。

(A) 小早川が東軍に向かって松尾山城を駆け下りますと、東軍の福島正則隊の側面・後方を突くことになります。その場合、福島隊は前面に宇喜多隊と大谷部隊、後方から新手の小早川に包囲されることとなり、福島隊の陣形が崩壊して壊滅するのは時間の問題となります。
※ 「大谷隊の陣形崩壊が西軍全体の陣形崩壊、西軍の敗北につながった」ことを先に説明しましたが、この時代の野戦で「陣形の崩壊」は致命的なものです。そして「陣形を崩壊させる一番良い方法」は、「敵の側面/背面から攻撃する」ことでした。

(B) 福島隊が壊滅しますと、宇喜多隊と大谷部隊と西軍になった小早川隊(兵力は合計で約3万)が、石田三成隊を主に攻撃していた東軍先鋒部隊(細川忠興隊、黒田長政隊など)の背面を衝き、同時に東軍の本隊である徳川家康隊(兵力約3万)との間を遮断することになります。
東軍先鋒部隊は、前面の石田隊、後方に回った宇喜多・大谷・小早川隊に包囲されますので、これまでの説明と同じように陣形が崩壊して壊滅します。
これで、残る東軍部隊は、家康直率の旗本部隊(約3万)と、後方にいて毛利隊の押さえの位置にあった池田輝政隊、浅野幸長隊などのみとなります。
まだ結構な兵力があるように見えますが、ここで「家康直率の旗本部隊(約3万)」の戦闘力はかなり割り引かねばなりません。

これについては、
「関ヶ原合戦 家康の戦略と幕藩体制 (講談社学術文庫)」
笠谷 和比古 (著)
http://www.amazon.co.jp/dp/4061598589/
に詳しいのですが
「関ヶ原で家康が直率していた3万の部隊は、旗本のみの部隊であり、『備え』を構成できないために攻撃力を欠いていた」
とされます。
そのため、家康の旗本3万は「家康を守って戦場から退く」以外のことは出来ません。しかし、後述するように、戦がこの段階になればそれも叶わなくなります。

(C) これに対し、西軍の石田・小西・宇喜多・大谷・小早川の部隊を合計すると5万は下らないと思われますが、戦勝に乗じたこれらの部隊が関ヶ原からの脱出を目指す家康隊3万を捕捉撃滅するのは難しくないでしょう。
さらに、この段階になると、南宮山方面で戦いに参加していなかった毛利隊や長曾我部隊も勝ち戦に加わると思われます。その場合、これらの部隊は関ヶ原に入り込んでいる東軍部隊を「袋のネズミ」にすることが容易です。
前に5万の勝ちに乗じた西軍主力、後ろには新手の2万以上の西軍部隊が退路を遮断するわけですから、東軍の諸部隊は、史実で西軍部隊がそうなったように崩壊し「敗残兵となって山の中を落ち延びる」結果になるでしょう。
関ヶ原の真ん中で西軍の重囲に陥った家康本隊3万は「全滅」し、家康はこの日に死ぬことになったでしょう。
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旧日本陸軍の検討では西軍の勝ちと判定しています。


先に現地に入って陣割りもすんでいますから いい場所取るでしょ あなたも 、ですから 裏切りもなく、そのままなら 1日で決着はつかなかったということです。西軍の有利優勢ということです。
だれでも 命を掛けて来てるわけですから できる事なら勝つ方へですよね 読めなかったのではなくて この時代の大名はすべて 裏切る者は、裏切るなら早いほうがいいとおもっていますよ ですから いつも 裏切られるほうも 誰が裏切るか当たり前のこととして頭に入っているものですよ (大阪に人質も取ってます) そのことで 東軍も西軍もやっていますね
優先順位を付けて ヤバイやつから 危険な前線へも、当たり前なんですが 悲しいかな 現地の西軍には 絶対的な司令官がいなかったということです。きついことがいえなかったことです。 
家康に対抗できたのは 豊臣 大阪城 秀頼 側に家康にたいする不信がおおきかったからです。関が原がなくても やがてのことだと
 
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