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 仏教では答えを出しています。
 それゆえ、多くの人が精神のよりどころとしています。

 でも、哲学では、答えがありません。
 なぜ、なぜ、なぜ、とこれまでは続いています。

 哲学者を尊敬する人はいても帰依しようという人はいないようです。
 また、“この哲学者”を尊敬する、という人たちも少数です。

 それは理性の理、「理」の世界だからです。(頭のいい人は少数です)

 人間の心は、意志、感情、理性、と三つの働きがあります。(記憶とかは除いてください)

 宗教はこの三つの働きを持って、答えを出しました。

 でも、哲学は「理」のみなので、答えが出せない。

 という私の主張への、感想を聞かせてください。

 お願いします。
 

A 回答 (17件中1~10件)

 人間は、自分を邪険に扱ったり、蔑ろに扱う他者を信奉したり、認めたりしがちです。

それは、ひとえに赤ん坊のころの体験が強烈だからでしょう。

 その反動で、自分のことを心配してくれる人間を邪険に扱い、侮り、蔑ろにするのは仕方のないことなのかもしれません。親が精神的ヤクザ、チンピラだったのですから。

 質問者さんのような、無邪気な人間はその心配はないかと思いますが、ムカつくべき人間にムカつくことができるか、これは大切なことだと思います。

 ドンキホーテが、天にそびえ立つ風車を、人間世界の欺瞞、誤謬の象徴するものとして挑みかかったのであれば、案外彼を笑えないかもしれませんね。

 ただ、正邪の見極め、認識しようとする姿勢はやはり大切です。維持していってください。

 創世、発展の時期でない、欺瞞や誤謬がはびこる現代は、それのみが有意義な生き方といっても過言ではないだろうと思います。
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この回答へのお礼

 有意義な回答ありがとうございます。

 締め切ったつもりでいたのですが、手違いがあったようです。

 また質問するようなことがあるかと思いますが、そのときはよろしくお願いいたします。

お礼日時:2009/09/19 22:06

> 文章は専門用語もあまり使っておらず、やさしいのですが、何がいいたいのかが分かりません。



 何か意味のあることが書いてあるに違いない という前提で読めば、もし何も意味がない文章であれば、「何がいいたいのか分からない」と言う事になります。

 もし、意味のないことが書いてあるのだとすれば、「意味のないことが書いてある」ということが 分かるかもしれません。

 ひとつの事柄を堂々巡りしている のは、同じ事を違う言葉で説明すれば、たとえ最初の説明で理解できない人がいたとしても、理解できる可能性が高くなるから 違う表現で同じ事を説明しているのではないでしょうか。

 それから、実感として理解していることでも、言葉で説明されると難しく感じ、実は自分が分かっていることでも、分からない と錯覚させられてしまうことも在ると思います。言葉にした文章が分からないのは、実質的にすでに自分が吸収していて、すでに自分の中に備わっている(身についている)から 言葉としては理解できない ということもケースもあると思います。つまり当たり前のことを難しく説明している哲学者は人間的には初心者だと考えられます。

 良くわかっていない人ほど難しく説明するというのは、実感としてあります。

この回答への補足

 この欄をお借りして。

 いつものことですが、皆様の回答に接していると、私の欠陥部分が見えてきます。

 今回も、哲学できる頭ではないなぁと再認識しました。

 でも考えることは好きなので、これからもよろしくお願いいたします。

 これで締め切ります。ありがとうございました。

 

補足日時:2009/09/19 09:16
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この回答へのお礼

 なるほど。

 この本については、再度読んでみようと思っています。

 片手に鉛筆を持って。

 欠陥を見つけたい欲望があるのです。

 私の頭ではムリかと思っていますが、ドンキホーテになって突撃です。

 回答ありがとうございました。

お礼日時:2009/09/17 23:04

仏教そのものには興味はないのですが、仏教に最も近い坊さんは悟りを開いているのでしょうか?真理に近づいているのでようか?答えを持っているのでしょうか?人生を仏教に捧げている坊さんは全てを知っているのでしょうか?神道の神主でも、キリスト教の神父でもいいのですが、神の真髄に近づいて答えを得ている人はいるのでしょうか。

ここ数百年日本において新たな仏教が発生していません。新たな真理(答え)に達した坊さんは生まれていないのでしょうか?仏教には宗派が複数あります。答えは一つではないと言うことでしょうか?複数の答えがあるのが仏教なのでしょうか?真理は一つでは無いということですね。多数の答え、多数の考え方は許容されるということでしょうか。
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この回答へのお礼

 釈尊の顕わした世界、経典とそのエッセンスである般若心経が“真理”である、との前提の下に。

 現代では、明治から大正にかけて活動されたお坊さんで、山崎弁栄(べんねい)という人がいます。

 この方の書き残された文章(書籍になっています)は、大昔、釈尊が示した真理の世界を、現代の言葉で表しているのではと思い、ブログで紹介しています。

 ほんの一部分なのですが、覗いてみてください。心の琴線に触れていただけるかも知れません。

 「心の世界・良心」で検索すると出てきます。現代のお経ではないかと思っています。

 ご意見ありがとうございました。

 

お礼日時:2009/09/17 22:54

貴様ぁーっ!・・・以下の回答は 質問者に対してというよりも、以前同じような質問があった時に書こうと思っていたことを、書いただけですので深読みしないでください。

質問者に対して書いたのではありません。

哲学者が自分で「おれは哲学者だ」とは言わないでしょう。

と、

あなたは哲学者です と言うのであれば、それはその人をバカにしているのです。

は、段落を変えるべきでしたね、特につながりはないです。

 他の誰かが、誰かに向かって「あなたは哲学者ですね」と言えば、言ったほうは褒めているつもりでいて、言われたほうも良い気分になっているとしたら、お互いに勘違いしている。 と書けば解るでしょうか、つまり質問と直接の関係はありません。「哲学者」という肩書きが、実際の人間関係において実際に使われている言葉ではない。実はこの言葉自体が虚である。と言いたかったのです。
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この回答へのお礼

 もともと宗教的な事柄に関心があって、ここ哲学カテに参加するようになりました。

 だんだんに哲学なるものに興味(哲学って何?)を持ち、それらしき本を読み始めています。

 今、講談社学術文庫の「哲学の教科書」(中島義道著)を読んでいるのですが、これが結構むずかしいのです。

 文章は専門用語もあまり使っておらず、やさしいのですが、何がいいたいのかが分かりません。

 ひとつの事柄を堂々巡りしているようで、結局何なの?という感じなのです。(たぶん私の頭のせいなのでしょうけど)

 カントの文章が紹介されていましたが、さすがにこれは“難解”という印象でした。

 回答ありがとうございます。

お礼日時:2009/09/17 09:24

no7です。


>もう少し意見を伺いたく思います。>
つまり「なぜ・なぜ・・」=「答えがない」とするが故に
「哲学には答えが出せない」とご自身が思い込むわけです。
たとえば『A次元を答えとしましょう』と決めた場合
A次元が現れればそれで答えになります。しかしそれを哲学上で
ご自身が定義しなから答えが出ないだけです。分りますか?

この回答への補足

 今回の私の質問は、哲学で取り上げている様々な問題を、“理”のみを以って解明しようとするのは無理なのでは、という疑問からでした。

 決して決め付けているわけではありません。
 ですから皆様の考えを伺いたいと思ったのです。

 他の回答に、意志や感情も影響を与えているのでは、と言った意見もあり、それを否定する“論”を持っているわけでは在りません。

 たぶん入門書レベルの哲学書に、答えらしきものを見つけられないので、哲学というものを、“質問”のように捉えることになったのでしょう。

 回答を含んだ哲学書は、専門書でも良いのですが、あるのでしょうか。

 

補足日時:2009/09/17 08:38
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#2です。



> 人間の心は、意志、感情、理性、と三つの働きがあります。
:これはそのとおりだと思います。
いずれも(先天性・後天性に拘わらず)記憶が土台になっていることは明白ですから、(記憶とかは除いてください)という注釈は蛇足でしょう。
ま、このように触れることも蛇足かもしれませんが。

いずれにしても「>この三つの働き」がそれぞれ活躍の場を与えられてこそ人は満足するようにできています。
>哲学は「理」のみなので、答えが出せない
:とおっしゃるのは私にもわかるような気がします。
哲学のみで(人生の)全てが解決できるという拙速な考えは、苛立ちを生むことになるでしょう。
感情(本能的感性)なり、意志(現実的自主性)なりとのバランスが必要になるはずです。

しかし、理というものは、なんらかの基準に基づいての理なわけでしょうから、その基準が何であるのか、ということは重要なことになります。
哲学というのは、おそらくですが、それを常に懐疑的に追求していくものであるように見えます。
しかし、懐疑的に追求していく余地があるのであれば、懐疑的に追求し続けていくのが、それこそ理なのではないかとも思うわけです。

その懐疑的に追求していくということ自体は、感情や意志との兼ね合いとは別問題として考えるべきではないでしょうか。
たとえば、「宇宙の果てはどこにあるのか」ということを探ろうとする場合、哲学は果てしなく追求し続ける。(実際にはそうではないかもしれませんが、あくまでひとつのイメージです)
しかし、宗教は、そんなこと答えが出るはずがないだろう、ほれ、これが宇宙の果てであるよ、と言って教祖なりを祭り上げる。
だから、最終的に理で説明できないことは「神がそうおっしゃっておられる」で済ます結果になるのは当然ですよね。

人間の幸福は納得することだと常々思っていますが、その意味では、何であれ、わからないこと、答えがないもの、というのは人を不安に陥れやすいものだということが言えると思います。

哲学は、この不安を超越しつつ理を探り、
宗教は、仮想的な理を提供することで不安を解消する。
といったことになるんでしょうかね。

つまり、宗教は、「理だけでなく意志や感情も大切にする(と、おっしゃっていると思いますが)」ということではなく、
「理に見切りをつけることで意志や感情の言い分を尊重しているかのよううに見せる」だけではないでしょうか。

一番の違いは、
哲学的生き方はあくまで人生の過程として活用できますが、宗教的生き方は人生のすべてとなってしまう、という点であるような気がします。
また、おそらくですが、懐疑は邪とされるでしょうし、その偏執性に個が取り込まれてしまう、という側面もあるのではないでしょうか。
哲学は理が覆されればそれを認めて修正できるだけの余地は残されるように思われます。
哲学にも宗教にも門外漢ですが、素人の感想ということで。
 
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この回答へのお礼

 この講義、良かったです。

 何度も読み返し、“思索”を深めようと思います。

 回答ありがとうございました。

 「理に見切りをつける・・・」だけでは・・・に、ちょっと異議が。

 “宗教”はともかく“仏教”には聖道門と浄土門とがあり、聖道門(禅とか)は、“哲学的”であるようです。

お礼日時:2009/09/17 00:41

哲学は、脳の論理思考で、答えを出しているので、限界があります。

この脳は、大宇宙では、不調和世界の代表です。だから脳の科学は、自然を破壊しました。脳の自我は、対立と争いばかりです。論理思考は、情緒を排除するので、心がストレスになります。他方、宗教が依存している大自然の心、情緒、神は、調和世界の代表です。だから宇宙のすべてを知っています。限界はありません。そして情緒は、人を癒し、人を育て、社会を調和に導きます。

この回答への補足

 eyasi2012さん。

 あなたは、誰。

 あなたは何者。

 2012年に正体を見せてくれますか。

補足日時:2009/09/17 00:19
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人間の危うさ、弱さ。

この回答への補足

 どんな意味を、込めたのでしょうか。

 理解できなくてごめんなさい。

補足日時:2009/09/17 00:15
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例えば貴様ぁーっ!と おのれぇーっ!


 の違いは、言葉の違いから、意味の違いが在り、実際の場面でも、その使い分けがあるのは「当たり前」なのですが、アタマだけで考えるモノには、この違いが解りません。

 前者は 他者が、他の他者になにか危害を加えたときなどに使います。(あるいは自分を客観的な他者として見た時にも使う)

 後者は、自分に損害を加えられた、自分が被害を被った という思いから発せられる、復讐心、恨みを伴った感情です。(あるいは他者を自分の事とし、自分と同体と感じ、そうみなしたときにも使う)

 こういったことは、アタマで考えても解りません。実際に自分がその言葉をいう場面を想定し、感情的に理解することで それらの言葉の違いが判ります。

 哲学者が自分で「おれは哲学者だ」とは言わないでしょう。あなたは哲学者です と言うのであれば、それはその人をバカにしているのです。言った人も、言われた人も自覚はないかもしれませんが。

この回答への補足

 最後の行、哲学者が自分で・・・のところの“あなたは哲学者です”が、私のことを言っているのか、あるいは私がそう思っていると言っているのか、第三者が言った場合、と言うことなのか、分かりずらいです。

 また、例えば貴様ぁーっ!・・・以下の回答は、私の質問から、私が“理”に走りすぎていると感じてのことなのでしょうか。

 よろしくお願いいたします。

補足日時:2009/09/17 00:11
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「ゼロ」出発点



禅ならそうかも

色即是空という言葉があります。
「色」
現象世界を
「即」
思考・理性を通じて
「是」
この日・此処で自分として
「空」
普遍を開く

というのはこの全ての関連項目がクリアされることではじめて達成されます。

この際、
世界・道具・人・普遍は不可分で相互に関連しています。
4つ全てがそろって初めて「ゲーム」が可能なのです。電気のようなものです。

「即」が其の機能を満たしたから用済みだというのは、禅に独特の考えだと思います。極論すれば、不敬・無感謝の傲慢。

若さを失ってはなりません。信が「即」だというなら、是を明示して、以後「公」=空の場で「私こそが正真正銘の経験者である」と自己主張しながら議論するべきではないでしょう。自己矛盾です。最低でも、わからないとして決着するべきです。

(空)
議論の場+
(即)
思考という手段が有効な範囲・範疇では
唯一理性が
(是色)
「現象(色)と個性(是)」をつなぎとめる手段です。

感情に帰するなんて「酷」過ぎます。
感情なら「お葬式は、親の宗派でやるか」という馬を鹿と取り違えるおろか現代国語の先生(若さのない若者言語専門=某ch)のやり方です。

若者に受ける「作家」=エロい人には、なれても
人生の何たるかは、「このままでは」わかるはずもありません。賢者という言葉を再考する必要があります。

「オレオレがいい」なら
それは個人の選択です。
しかし、みんなに強制してはいけません。

この論理展開では、
残念ながら、オレオレ理論の無知あほ子分が現れても仕方がありません。

「一」
結論は個々人が持つべきでしょう。
信か理か
説か法か
ミュートスかロゴスか

求道心を持つ
個人なのか

この回答への補足

 哲学を否定されたと思って、このような回答になったのでしょうか。

 nananisseさんの主張を理解するにはもう少し読み込まねばなりません。

 時間をください。

 回答ありがとうございました。

補足日時:2009/09/16 23:41
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