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松平忠輝は初代将軍・家康の実子で、2代将軍・秀忠の異母弟で、御三家の始祖の異母兄で、3代将軍・家光の叔父です。
松平忠直は初代将軍・家康の孫で、2代将軍・秀忠の甥で、3代将軍・家光の従兄弟ですが、その父の秀康は秀忠の異母兄で幕府から特別待遇を受けていた人です。忠直も正室が秀忠の娘で、将軍家との縁も深い人です。
もし、忠輝と忠直が幕府に従順で将軍から勘気を被らなかったら、徳川姓を与えられていた可能性はあったのでしょうか。

A 回答 (5件)

NO4です。


忠吉については若くして死去したこと。御三家等の制度が整備される以前の死であったこと。秀忠と同母であった事などから長命すれば徳川を称する可能性がなかったわけではないと思います。
保科正之についてはご存知と思いますが、家宣の兄弟に松平(越智)清武という人物がいます。家継死後の後継争いが激しかった時にまだ存命しており、血筋的には宗家に最も近い人物でしたが、一度家臣筋に養子にでっていると言うことで後継候補から外れています。なお、清武には子息がいましたが、早世したため、清武の死により秀忠ー家光の男系子孫は絶えたことになります。
清武の件は制度が整備されてからの話しなので忠吉とは同列に扱えないでしょうが参考に。
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この回答へのお礼

やはり忠吉には徳川になれるチャンスがあったんですね。そういえば秀忠が関ヶ原に遅参したときに家康が家臣たちに世継ぎは誰がいいかと尋ねた際に秀康・秀忠とともに名前が挙がってましたからね。ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2009/10/20 22:08

>松平忠輝と忠直は失脚しなかったら徳川姓を名乗れていたか



名乗れなかったと思います。
まず、忠輝は長沢松平家に養子に出たことになっています。忠直の父の秀康も豊臣家、続いて結城家に養子に出、結城秀康を名乗った時期が長かったと思います。両者共に他家を相続していることが一つの理由です。
関連し、さらに大きな理由が徳川宗家の相続権の問題です。徳川を名乗ることができるのは宗家=将軍家の相続権があるものとみなされていた者です。ですから、宗家・御三家(尾張・紀伊・水戸-ただし、将軍家・尾張・紀伊の三家を指すとの考えもあります)・御三卿(田安・一橋・清水)の他は、将軍の子で独立の大名になった者としては忠長(松平説もあり)・綱吉・綱重くらいの者だと思います。吉宗も紀州家の連枝として越前鯖江藩主の時代は松平頼行で、紀伊家を継いで徳川になっています。
ですから、独立の大名になるのはともかく、他家に養子に出た場合は相続権がないでしょうから、徳川を名乗れなかったと思います。
これは、武家の相続・一門意識に根ざしていると思います。足利家の場合、将軍となる以前多くの庶子家があった中で、斯波・吉良・畠山だけが足利を名乗れ、他の庶子家は細川などの苗字を名乗るようにされていました。将軍となった以降は、将軍家と鎌倉公方家のみが足利を名乗れるように制限され、斯波以下は苗字を名乗るように制限されます。足利を名乗れるのは宗家の相続権があったことを示すものです。このように宗家の近き親族で、正室の子などに一門の待遇を与え、宗家の姓を名乗らせ、宗家に人が絶えた場合、同姓の一門から相続者を選ぶ武士の習いの一つであると考えられます。一門でも血縁関係が遠くなると徐々に相続権を失いますが、宗家の姓を名乗ることができる者には相続権があると考えられていた武士の習慣が背景にあります。

参考まで。
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この回答へのお礼

養子に出されてしまったからですか。ってことは秀忠の同母弟の忠吉も長生きしていても松平のままだったんですね。秀忠と唯一母親を同じくする弟なので、秀忠が徳川姓を与えるかもと思っていたんですが。回答ありがとうございます。

お礼日時:2009/10/16 19:52

徳川って何もんだよ?


実は徳川家康の家系は、松平一族の中でも嫡流というか、総本家でもなく、いろいろある松平家の一つ。松平家の始祖、親氏からみて、三代目の分家が安祥松平家で、ここが直接の家康の家となります。
家康の苦労は、いかにして十八松平といわれた同輩の松平家から、自分が一歩上に出るかどうかにありました。
秀忠は自身には際だった武勲が無い中で、多数の兄弟の中で自分の権威を立てることが必要。
家光は、弟忠長がトラウマです。
家康 秀忠 家光に共通するのは、血統的に同列のものからいかにして、自分とその直系子孫を上位にするかという意志です。

積極的に、徳川性を増やすモチベーションは、秀忠・家光の立場では、自分の息子以外に無いと推測します。

保科正之にしても、家臣である「松平」の話はあっても、徳川の話はなかった。

※ 時代は相当に違いますが、松平定信は、一端、家臣の松平家に養子に行っために、田安家に戻ること、つまり徳川になることはなかった。
これも、現将軍と血統的に競合関係にあるものは、徳川にしたくないという意志が働いていると思われます。
1754年(宝暦4)1月29日、兄治察 田安家の世継ぎとなる。
1759年 定信生まれる
1771年 兄治察 田安家の家督相続。
1774年 兄治察、薨去。
1775年 定信 養子へ
1787年 斉匡 田安家相続
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この回答へのお礼

基本的に徳川の名は将軍の嫡流に限定され、万が一のための予備として御三家が創設されたということでしょうか。そういえば、家光の次男と三男は成人してますが、彼らの名字はどっちだったんでしょうか。

お礼日時:2009/10/15 01:19

徳川を名乗れたのは家康が決めた御三家だけですから、忠輝も忠直もダメだったでしょう。

忠輝は家康から溺愛されていたので、秀忠は内心穏やかではなかった筈だし、将軍職を奪わないように警戒もしていた筈です。間違っても御三家なみの扱いはしなかったでしょう。忠直は傍系ですから全くその可能性はなかったでしょう。それよりも可能性があったのは家光の弟の保科正之で、家光の善政は彼によるところが大きく、家光は全幅の信頼を寄せていました。しかし、本人の断っての希望もあったにせよ、松平姓も貰っていません。また、吉宗は子息に御三卿を創立させたのですが、これも松平姓すら許していません。
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この回答へのお礼

保科正之を忘れていました。彼が徳川になっていたら御四家になっていたかもしれませんね。回答ありがとうございました。

お礼日時:2009/10/14 21:02

「秀康」さんは、いちど秀吉さんの養子になっているので、無理なのでは無いでしょうか?



秀忠さんより年長の秀康さんが徳川を名乗ったら、秀忠さんの権威が低下しますし
将軍家に(跡目相続のような)揉め事が起きた場合に、担がれる御輿となる可能性もありますね。
幕府としては、豊臣という陰を払拭したかったろうから、秀康忠直系を厚遇はしても、徳川姓は与えなかったと思う。

一方の忠輝さんの場合は、奇行が要因として伝えられているけど実際にどうだったかは不明。
本当に将軍家親戚筋として不適切な人物だったのか?
舅の伊達家の影響を避けたかったのか?
山岡荘八さんが後者を採ったのは、物語としての最後の見せ場に必要だったのだろうけど。
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この回答へのお礼

忠直は父が秀吉の養子になったから徳川になれなかったんですか。忠輝も伊達政宗のせい(?)で徳川になれなかったとしたら気の毒ですね。ありがとうございました。

お礼日時:2009/10/14 21:00

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