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四代目将軍家綱の容態が悪化した際、権勢をふるってきた大老酒井忠清は、鎌倉政権にならい京都からの公家を将軍を迎えようと提案し、皆が雷同した。
しかし、それを老中堀田正俊がひっくり返し、綱吉に繋いだ。

質問は、御三家がありながら、京都から宮将軍を迎えようという意図は何だったのでしょうか?

A 回答 (5件)

>宮将軍を迎えようという意図は何だったのでしょうか?


これ自体、確証に至る記録が無く、風証が独り歩きしたのだとの、
近年の解釈とされてます。
実朝とは違い、異母兄弟の綱吉が居ましたから、噂好きの江戸雀の話の
一つ、かと。
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この回答へのお礼

早速のご回答ありがとうございます。
<噂好きの江戸雀の話の
一つ>ですか。

お礼日時:2023/07/28 17:54

http://hermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/hermes/ir/re/16 …
《京都から宮将軍を迎えようという意図》も計画も、当時はなかった。
「四代目将軍家綱の容態が悪化した際、御三家」の回答画像5
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この回答へのお礼

早速のご回答ありがとうございます。
<現在では、忠清の有栖川宮擁立説は否定されている>のですね。

お礼日時:2023/08/04 11:58

将軍家綱は幕政のすべてを酒井忠清に任せっきりの人だった。

それで忠清は上屋敷が大手門前の下馬札にあったことから「下馬将軍」と呼ばれるほどの権勢を誇っていた。

ところが、家綱が直系男子がいないまま死んでしまったため、次期将軍は綱吉に決まりそうになった。
しかし、綱吉は老中に幕政を任せっ放しにするような人物ではなかった。現実に綱吉は将軍になると老中を軽んじ、近臣の柳沢吉保などを重んじた側用人政治を始めている。勘定奉行に近代的財政センスを持っていた萩原重秀を抜擢したのも綱吉だ。

忠清としては、綱吉が将軍になったら自分が好き勝手が出来ないどころか、速攻で解任されると分かっていたのだろう。
かといって、綱吉に変わる将軍はいない。だから好き勝手ができる宮将軍案を持ち出し、自分の息がかかった老中たちに賛同を求めたのだろう。
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この回答へのお礼

早速のご回答ありがとうございました。
<忠清としては、綱吉が将軍になったら自分が好き勝手が出来ないどころか、速攻で解任されると分かっていたのだろう。>ですね。
自分の将来を自覚していたのですね。

お礼日時:2023/07/29 18:35

>もうそのころには将軍というのは単に「お飾り」ですか。



実際問題として10才やそこらの子どもに政治が務まるわけがありません。
大老以下の幕府の官僚組織が支えたのでしょう。

ただ、綱吉は将軍親政に戻したかったのでしょうね。
ですので、実権をもっていた大老、酒井忠清を解任しています。
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この回答へのお礼

そうですか。

お礼日時:2023/07/29 18:36

家綱に直系の子どもがいなかったためです。


家綱が将軍になったのは僅か9才の時です。
もうそのころには将軍というのは単に「お飾り」になっていたのですよ。

お飾りだったら、徳川家の血筋でなくても高貴な血筋をひく人があれば事足ります。
実際に鎌倉時代に三代将軍実朝が暗殺された後、宮家から将軍を迎えています。
ですので直系の子孫がいなくなったので前例にならったということでしょう。

もっとも酒井忠清は宮家将軍には積極的ではなかったという説もあります。
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この回答へのお礼

早速のご回答ありがとうございます。
<もうそのころには将軍というのは単に「お飾り」>ですか。

お礼日時:2023/07/28 17:53

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