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大奥を見て、疑問に思っていた事が2点あります。
1点目
春日の局は、「お万様にお子が産まれる事はあってはならない」と言っていました。
お万が懐妊した時、春日の局は流産させる為に必死に薬を持ったり策を巡らせたりしていました。
上様は、流産させる事には反対しながらも、「子供は男とは限らない」言っていたし、懐妊を知った時は、ただ驚いただけで、顔は引きつっていて、子供が産まれる事を、そんなに喜んではいませんでした。
お万が解任したとき、お万の父?が、大奥に来たのと、関係が有るのでしょか?
根回しをしてお玉が産んだ事にした最終回。そんなに複雑な政治が関わっていたのでしょうか?

2点目
将軍を、「上様」と呼んでいたり、正室である貴子の彼や、側室お楽の家族は、「くぼうさん」と呼んでいたりしてますが、単に呼び方が違うだけでしょうか?
上様は、お万の父を嫌っていましたが‥‥何か因縁みたいなものがあるのでしょうか?

A 回答 (6件)

回答と言うより、蛇足です。



既に回答されていますが、幕府?徳川家?将軍?には「皇室や公家の血を混ぜてはいけない」とする不文律があったとする俗説があります。
所詮は娯楽番組での作り話なので、そうゆう時代背景があったとの想定でドラマが作られた、としか言いようがなく、その意味では深く詮索するだけ無駄です。

しかし、私は「血を混ぜてはいけない」とする不文律について個人的に興味津々なので、以下にコメントします。興味がおありになれば、読んでやって下さい。

この不文律は皇族・公家出身の御台所がほとんど出産していないことからの、単なる後付の解釈です。
但し、幕府勢力の中に、皇室や公家と血が混ざることの嫌悪感を抱いていた者がいたのは事実だと思います。ただ、毒を盛るなどの実力行使を実際に組織的に大奥で行っていたとするのは話の飛躍も甚だしいです。側室同士の女の争いのレベルの話なら、敢えて否定はしませんが。

例えば、家綱の危篤に際して皇族(有栖川宮)から将軍を迎えようとの案も出ています。主張したのは幕閣トップの大老・酒井忠清です。

今の日本は一応階級はないですが、それでも片方が「ええとこ」の坊ちゃん・嬢ちゃんの場合は、両家の「つりあい」が問題になる場合がまだあります。
将軍の場合、親藩か譜代の大藩か外様の大大名の娘を御台所とするのが「つりあい」ですし、将軍の権力をもってすれば、大名の娘を側室に所望することなどは、容易であったはずです。それをしなかったのは、言うまでもなく将軍の母方の実家による政治介入を恐れたからです。
外戚政治を防止するためには、正室・側室が実力の低い家の娘であれば良い訳です。オスマン(トルコ)帝国では、皇妃は奴隷商人から買っていたという話すらあります。
大奥は、側室の供給源としてうってつけの制度です。中下級役人にすぎない旗本や町人の娘に女中奉公させ、その中からお手がついたら上廊(側室)に昇格という制度ですから、誰にお手がついても外戚の心配はありません。
更に、日本では丁度よいことに、実力は失ったが権威だけはある皇室とその臣下の公家という階級がいたので、そこから正室を調達すれば、将軍の妻が一般大名の妻に見劣りすることもありません。
なお、側室にも公家の娘がいますが、これは御台所が京都から連れてきた(呼び寄せた)侍女にお手がついたものです。「お万」など一部例外もいますが。

もし、将軍に「公家の血を混ぜてはいけない」とする不文律が本当にあったとすると、梅渓通条という公家の娘から生まれた「家治」は闇に葬られたはずなのですが、これをどう説明するのでしょうか。
家治は家重の長男として生まれ、幼名も通例どおり竹千代と名付けられるなど、何の妨害もなく世継とされています。
家治自身も皇族の姫宮(閑院宮倫子女王)を御台所に迎え、2人の姫が生まれています。このことから、家治の場合はあくまでも例外とコメントされる場合も見られます。しかし、例外の理由は示されていません。

更に、慶喜の母も皇族の姫宮(有栖川宮吉子女王)です。慶喜の将軍就任には妨害が入りましたが、母が皇族だからという理由が語られるのを聞いた記憶はありません。母が‥ではなく水戸は‥というのなら、聞いた記憶が有りますが‥

なお、あまり知られていませんが、家宣の場合も公家出身の正室(近衛熙子)が男女1人の子を産んでいますが、これは甲府藩の時代のことなので、あっさり例外だと言われそうですね。
実は江戸城に入ってからも、大五郎・虎吉という2人の男子を産んだ公家出身の側室(園池季豊の娘 お須免)がいます。もし大五郎が4歳まで生きていたら、家継の兄にあたるので将軍になっていたのかもしれません。


蛇足の蛇足ですが、後水尾天皇の皇子女が闇に葬られていたという話がありますが、こっちの方は恐らく事実でしょう。
後水尾天皇には徳川和子の入内の前に1男1女がいましたが、それ以後12年間は徳川和子の子しか産まれず、その後25年間に6人の女官から25人の子が産まれるという明らかに不自然な皇子女の出生をしていることから、絶好の小説ネタになっています。

幕府の立場からは、徳川和子の産んだ皇子に皇位継承させるまでは他の女官たちの子は闇に葬るという「12年間」の行為の証拠と見て取れます。

一方、朝廷の立場は極めて明確です。皇位継承は堂上公家の娘から生まれた皇子に限定され、徳川はその身分ではありません。これは皇室の不文律ですが、実に良く守られています。例外は下記の通り。
六条天皇  外祖父は伊岐致遠 神官出身の下級官吏 後白河院に歯向かった二条天皇を退位させるために擁立された幼帝
安徳天皇  外祖父は平清盛  (平清盛一族を新興の堂上公家と見るなら例外にはあたらない)
後円融天皇 外祖父は紀通清  石清水八幡宮の社僧 足利義満のいとこ。母が姉妹。
明正天皇  外祖父は徳川秀忠 
光格天皇  外祖父は岩室宗賢 医師        皇位断絶の危機。聖護院門跡を継承する予定であったが、急遽還俗して即位。
古代は除いています

明正天皇による八百年ぶりの女帝復活は、徳川系皇室を目論む幕府に対する「1代限り」の意思表示であることは言うまでもありませんが、その前提として、徳川和子の産んだ2皇子の夭折があります。
いくら徳川憎しと言っても、後水尾天皇が自らの手で皇子を始末したとは考え難いので、朝廷勢力の誰かが天皇の意向に関係なく2皇子を手に掛けた可能性は大ですね。
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この回答へのお礼

詳細な回答、ありがとうございました。

>所詮は娯楽番組での作り話なので、そうゆう時代背景
そうですね。
私は、歴史については無知なので、起こった出来事が史実だと信じてしまう傾向にあります。

歴史を勉強してみるのも良いかも知れません。
「龍馬伝」も、何で?どうして?と、首をひねる場面が多いので。

ありがとうございました。

お礼日時:2010/03/15 11:59

答えではありませんが、関連する話として


大名家でも将軍の養女を正室に迎えた時、出産があると、お付きの家来がその子を一服盛るか、捻るかして闇に葬るとの話を、最後の久留米藩主の息子の有馬頼寧氏が語ったと伝えられています。
乱暴な話であり伝え聞きなので信憑性は不明ですが、このような話はいろいろあるようで、火のない所に煙は立たないという事でしょう。
藩主の実母は権力者になるので警戒されます。
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この回答へのお礼

昔って、なんだか怖いですね。
子供1人産んじゃいけないとは・・・。

ありがとうございました。

お礼日時:2010/03/15 20:50

ご質問にある春日局が言ったとされる「お万様にお子が産まれる事はあってはならない」と言う話は「幕府外戚伝」と言う書物に載っており、それを元にドラマが作られたのだろうと思います。



幕府外戚伝には「お万の方と改め、有髪の形となりて枕席に侍る、しかれども老中より内証ありて懐妊を禁ぜし故、御子なし」とあり、これを信じるならドラマのような堕胎工作が行われたと言えます。

また、実際に幕府外戚伝にあるような事が行われていたとすれば、幕閣にはお万の方に子供が出来ては困る理由があり、それは「徳川将軍家に皇室と縁ある公家の血脈を入れたくなかった」との理由で間違いないだろうと思われます。

「幕府外戚伝」の信憑性は正直私には何とも言えません。ですが、この文を読む限り後世はともかく当時の幕閣は「徳川将軍家に公家の血筋は不要」との考えだったのでしょう。
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この回答へのお礼

>幕府外戚伝
知るにつれて、実際にそのような人達がいたのだと思うと、なんか不思議ですね。
歴史に無知のため、ただ観て、ただ不思議がっていましたが・・・。
もっと知りたいと思うようになりました。
ありがとうございました。

お礼日時:2010/03/15 20:49

こんにちは。


私は、自称「歴史作家」です。

>>1点目

これについては、NO2.の方が言われる通りです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B8%E5%85%89% …

>>2点目

時代劇では、「将軍さまのお成り・・・・・・」などと仰々しく台詞を言いますが、実は、「公方さま」(くぼうさま)、または「御公儀さま」「大樹さま」(たいじゅさま)と呼ばれたのが正しい。
正式には、「征夷大将軍」といい、蝦夷(えぞ=東北地方)を征伐するという役職名でした。
足利義満が将軍となった時、
「公家に摂政なる棟梁あり、沙門(さもん=寺院)に門跡なる棟梁あれども武家になし、何とぞ公方の号を・・・」
と第98代長慶天皇に願い出たのが最初と言われています。

「上様」は、表向きで通常の業務での会話です。

そして、公方さまが大奥などで御台所や側室などと過ごす時は、意外と、普通の家族と同じように、
「私は、これを好きだわ」
とか、
「私は嫌い」
「わしも嫌いじゃ」
などと、ごくごく普通の会話でした。
そして、大奥に居る時だけ、「遊ばせ言葉」として、御台所やお付の女中連中に「お上」(おかみ)などと気安く呼ばせたりしていました。
また、御台所を呼ぶのも、略して「御台」などと呼んでいました。
「側室」の場合は、「お万」とか「お楽」などと、名前を呼びました。

>>上様は、お万の父を嫌っていましたが‥‥何か因縁みたいなものがあるのでしょうか?

上記にしるした通りですので、「因縁」などてはありません。
「正しい遣い方」をしようと、製作者が努力しているだけです。
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この回答へのお礼

ありがとうございました。
呼び名がたくさんあるということは、初めて知りました。

征夷大将軍というのは、授業で習ったのですが・・・。
歴史に疎くて(笑)。

お礼日時:2010/03/15 11:55

確か、徳川家光の正妻(貴子)は公家の出身です


(仲が悪かったと言われ子供はいません)
そして、お万の方も公家の血を引いています
徳川家は徳川幕府の力を完全たるものにするために公家の血を引いた子が
生まれることを嫌がりました
公家の血を引く子供が万が一将軍になってしまっては公家が幕府の
制作に大きく口を出してきますから
その辺の駆け引きからドラマの大奥ではお万が身ごもったときに
流産させるような仕業を行う事になったのだと思います
また、お万の方はおしとねすべり(将軍との夜の生活を拒否する)を
申し出ていましたから、その後に妊娠が発覚して「なんとしたことか・・」と
顔が引きつったのです
実際にはお万の方が子供を産んだという記録は無かったと思います

くぼうさんというのは公家の呼び方ではないでしょうか
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この回答へのお礼

そうですね。
公家の血を引いた血が徳川家に入るとまずいのですか。
政治に、いちいち口を出されて、専横になったら嫌ですよね。

分かりました。
ありがとうございました。

お礼日時:2010/03/12 14:38

お万の方は公卿の六条有純の娘だそうです。


幕府の内証には皇室と公卿の血脈が、将軍になってはならないというのがあり、懐妊すれば流すのが建前でした。    例外はありますがその後も守られました。   六条家は有力公卿なので。
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この回答へのお礼

わかりました。
背景にはそんなことが・・・ありがとうございました。

お礼日時:2010/03/12 14:35

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