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 徳川家康が、宗教の持つ力を警戒し、
権力を分散させるために、東西本願寺に分割した(秀吉の西に対し、東を別立)と認識していました。

 他方、ウィキペディアによれば、
「西本願寺」は、浄土真宗本願寺派の本山。正式名称は「本願寺」。
「東本願寺」は、真宗大谷派の本山。正式名称は「真宗本廟」。(1987年〈昭和62年〉までは「本願寺」が正式名称。)
とあります。
しかし、1997年1月出版のエアリガイド京都(昭文社)には、
東本願寺の説明として、「正しくは本願寺」とあります。

 実際は、どうなのでしょうか?

A 回答 (4件)

 少しばかりお話させていただきます。


>>権力を分散させるために、東西本願寺に分割した(秀吉の西に対し、東を別立)と認識していました。
 大体正解です。でも、ちょこっと違いますかね。秀吉と家康の政策の違いにすぎません。先にお話している方もいらっしゃいますが、戦国時代において十一年間も信長様こと第六天魔王と戦い続けられる(石山合戦)勢力なんて本願寺教団くらいしかありませんでした。(ちなみに雑賀集も本願寺門徒です)ただ、最終的に本願寺は第六天魔王に負けて和歌山のほうに引っ込まされます。けど、第六天魔王は本能寺の変で三日天下明智に本能寺で打たれちゃいます。でも、第六天魔王のご葬儀には本願寺は御香資(香典)を送ったりしています。
 そこで第六天魔王のあとをうまく継ぎました、ひでよっさんことサルは親方様第六天魔王がてこずった本願寺と仲良くしながら、押さえ込もうと考えます。ほんで、和歌山に引っ込んでた本願寺に「土地をあげるから京都へカモン」と出来たのが本願寺が、現在通称西本願寺と呼ばれる本願寺です。
 そんで、サル亡き後天下を継ぎました家康ことタヌキオヤジは、お名前の如くにまだまだ勢力の強い本願寺教団を分断させるために色々考えまして。そのとき本願寺のトップは准如上人でしたが、引退していたお兄さん教如上人に、「ユーに土地上げちゃうよ。だから本願寺建てちゃいなよ」と、建てられた本願寺が、現在通称東本願寺と呼ばれているお寺です。こうしてタヌキオヤジは東西にパワーを分裂させるのに成功したわけです。
 ですから
>>秀吉の西に対し、東を別立
秀吉が西本願寺を大切にしたのに対抗して、東本願寺を建てて対抗したってわけじゃなくて、二人とも本「願寺はやばい勢力だぜ」って認識は同じだと思いますよ。あくまで、付き合い方の違いじゃないかな。


 では続きまして、
>>「西本願寺」は、浄土真宗本願寺派の本山。正式名称は「本願寺」。
>>「東本願寺」は、真宗大谷派の本山。正式名称は「真宗本廟」。(1987年〈昭和62年〉までは「本願寺」が正式名称
>>しかし、1997年1月出版のエアリガイド京都(昭文社)には、
>>東本願寺の説明として、「正しくは本願寺」とあります。
 >>実際は、どうなのでしょうか?
 現在京都にある通称東本願寺は、本名「真宗本廟」というお墓になています。これは「お東さん騒動」っていう事件がその発端になっています。
 お東さん騒動は昭和44年(1969年)におきた真宗大谷派内部闘争のことです。そのきっかけは、大正13年(1924年)より法主を務める第二十四代の大谷光暢(闡如)御法主台下が、
「僕は法主と住職引退しないけど、管長職を光紹新門に譲るよ」
と発表したことといわれています。これは、本来東本願寺のトップは「法主(真宗大谷派の正統的な教学・伝統の顕現者)・管長(宗教法人真宗大谷派の代表役員 )本願寺住職 (東本願時の住職)」を三つ兼任してなきゃいけないのを、勝手に官長職だけ息子に譲るって誰にも相談しないで言ったわけでさぁ。これが、まずかった見たいで、中でごたごたし始めます。けどね、よくよく考えればこんなの明治期に作られた法律に照らし合わせてただけの制度で、法主・官長・住職なんて考え江戸時代にはなかったんだけどね。
 そんなことがありまして、1960年代の終わり頃から、「同朋会運動」ってやつらが出てきまして
新宗教団は法主一人の権限で色々決めるんじゃなくて、真宗同朋みんなで民主的に決めなきゃ!(同朋公議)
本願寺と真宗大谷派は一つなんだ。(宗本一体)
って言い出すんですよ。なんて立派な物言いでしょう。すばらし!民主的な現代に即した教団運営の姿!
 ね、まともなように見えるでしょ??ところがどっこい、同朋公議も宗本一体も結局は、お金と権力争いですよ。簡単に言えば、同朋公議は「法主が一番偉いのはイヤだから、民主化したように見せて、会議のトップを宗派のトップにしちゃおうぜ。それだったら俺も宗派のトップになれるぜ。」ってこと。宗本一体は「僕達が本願寺にあげたお金は今までは本願寺が使ってたけど、そのお金は宗派のものだから、みんなで民主的に決めるように見せて、法主には使わせないようにして俺たちがうまく使っちゃおうぜ。」ってことですよ。うまいこと考えますね。
 何はともあれ、この改革成功しちゃうんですねぇ。本願寺さんにも不良息子がいて色々遊びまわってたりしたりとか、色々落ち度はあったんですけどね。
 けれども、「人の寺にあげたお金を、どうこうしたいなんてやつらとは一緒にやっておられん」て人たちは、大谷派を離脱します。そんで、当時の御法主台下は大谷派から「本願寺は出て行きまーっす」ってことになりまして、浅草にある「東本願寺(当時東京本願寺)」に今も法統を伝えておられます。
 でも、大谷派も「宗本一体だから本願寺の土地だけは残していけや」と裁判を起こし、家康ことタヌキオヤジが教如上人個人にくれたはずの土地をぶんどって「本願寺はもう使えないから「真宗本廟」って名前にいちゃおう」となったわけです。また、始めのうちは「やったー法主がいなくなったぜー!これで、いろいろ自分達で決められる。」っていっていたんですが、「けど、法主がいなくなるとしまらないから、何にも運営には権限を持たせないカッコだけの法主を「門首」ってよぼうぜ」って追い出した大谷家から一人引張ってきまして、お寺の住職なのにそのお寺の運営には口を出せない住職さんを置きまして、今の大谷はの完成です。
 これが、昭和62年(1987年)なわけです。しかし、「東本願寺」というネームバリューは絶大で、今でも真宗本廟は通称の東本願寺を前面に出しています。ですから、パンフレットとかにも必ず「東本願寺」って名前が載っていますね。こんなとこからも、なんかねぇ。あれこれと考えちゃいますね。

 ウィキだと
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%8A%E6%9D%B1% …
現在の「正式名称」東本願寺ホームページにも昭和の法難として記載があります。
http://www.honganji.or.jp/rekishi.html
書籍ですと
『東本願寺物語 東本願寺紛争の真相』 稲田耕一著 東本願寺研究会
 また、この改革には共産主義も深く関わっておりまして、
http://blogs.yahoo.co.jp/gemini1939/16393216.html
 というブログに詳しく載っています。
書籍ですと
 『共産党対本願寺 乗っ取るまでの三十年暗躍史』共産党から宗教を守る会
 大谷派さん全部がまっかっかではありません。けれど、大谷派さんのお寺で赤い政治のポスターが張ってあるお寺も多くありますね。
 
 まぁ、こんなところでしょうかね。一回このこともまとめておきたかったので、ありがたい質問でした。ありがとうございました。
 急ごしらえの文章のため、誤字脱字乱文どうぞお許しください。参考にしていただければ幸いです。
 合掌 南無阿弥陀佛

この回答への補足

 ご回答、ありがとうございます。

 ポイントとなる個所が、理解に至っておりません。
1.宗本一体の話は、大谷派の統一なのか、東西の統一の話なのでしょうか?

2.『大谷派も「宗本一体だから本願寺の土地だけは残していけや」と裁判を起こし』の意味が理解できません。「本願寺」とは、通商西本願寺のことでしょうか?

3.『家康ことタヌキオヤジが教如上人個人にくれたはずの土地をぶんどって「本願寺はもう使えないから「真宗本廟」って名前にいちゃおう」となったわけです』の意味が理解できません。「本願寺」とは、通商西本願寺のことでしょうか?

 よろしくお願いします。

補足日時:2009/12/10 20:35
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この回答へのお礼

 ご回答、ありがとうございます。
家康が、西本願寺の権力を分散させるために、東本願寺を設立したこと、
東本願寺内で改革・分派の動きがあったこと、理解しました。

お礼日時:2009/12/10 20:35

こんにちは。


私は、自称「歴史作家」です。

>>権力を分散させるために、東西本願寺に分割した(秀吉の西に対し、東を別立)と認識していました。

まず、浄土真宗本願寺派(通称、西本願寺)の歴史から見ていく必要がありそうですね。
(1)親鸞の遺骨を末娘の覚信尼(かくしんに)が京都・東山・吉水に改葬し廟舎を建てたのが、そもそも「本願寺」の始まりです。

(2)覚信尼は自らを親鸞廟所の「留守職(るすしき=管理者)」となって、その職を世襲制にしました。

(3)その後、親鸞の曾孫の覚如(かくにょ)は、そこに「本願寺」という寺号を掲げて、正式に「本願寺」と呼ばせました。

(4)こうして誕生した「本願寺教団」が第8世蓮如(れんにょ)の頃、「一向宗」とも呼ばれるようになり、やかで、教団の拡大とともに、各地で「一向一揆」が勃発。織田信長と10年余りに渡り対峙、世に言う「石山合戦」でした。

(5)合戦の後、第11世顕如(けんにょ)は、公家の三条公頼の娘と結婚していたこともあり、正親町天皇の勅命を受け入れて、一向一揆を沈静化に成功する。

(6)しかし、顕如の長男の教如(きょうにょ)は強固に反対したため、顕如は、やむなく、教如を義絶した。

(7)顕如の死後、秀吉によって六条堀川に寺領を与えられ、第12世には教如が継ぐこととなっていたが、顕如の側室の如春尼(じょしゅんに)が顕如が義絶していることを訴え、如春尼と教如の亀裂は決定的となった。そして、如春尼は、ついに、顕如の末子の准如(じゅんにょ)を第12世とする。

(8)教如は、やむなく、自派の一派とともに寺を出た。そして、本願寺教団は、これにより分裂をする。
以後、准如の系譜を「本願寺派(西本願寺)」と呼ぶようになりました。

次に、真宗大谷派(通称、東本願寺)について、
(1)石山合戦が顕如により終結したが、この時、「和解の受け入れ」か「徹底交戦」かで意見が2つに分かれ、激しく対立した。

(2)結果、「和解受け入れ派」の保守派は、第11世顕如とともに石山本願寺を出た。一方、「徹底交戦派」の革新派は教如とともに籠城を続けた。
この対立の構図がそのまま、本願寺の東西分裂と言われている。

(3)慶長7年(1602)、家康は、浄土真宗の巨大組織を恐れ、浄土真宗派からは阻害視されていた教如に対して、寺所(真宗本廟)を与え、第12代本願寺宗主として復帰させた。

(4)以後、この教如の流れが「大谷派」となり、「東本願寺」と呼ばれるようになった。

(5)江戸時代では、本願寺派と同じく封建的な教団基盤を作り、トップの「法主」は「如来の代官」とされ、法主それ自体が崇敬の対象とされた。

(6)一方、その設立の経緯から徳川幕府には忠実な姿勢を貫き、法主の居間には代々、家康の位牌が安置されていた。

(7)倒幕に対しては、「西」が朝廷や勤皇方を支援したのに対して、「東」は、最後まで徳川幕府側を支援し続けた。

(8)明治14年、「真宗大谷派」を宗名とした。

(9)明治の終わり頃、清沢満之(きよざわまんし)が法主崇敬を批判し、
「(阿弥陀)如来の奴隷となれ、その他のものの奴隷となることなかれ」
と、提唱し、「歎異抄(たんにしょう)」を再発見して親鸞再評価のきっかけをつくった。

(10)しかし、「浄土真宗本願寺派(西)」も「真宗大谷派(東)」も血族間での争いや「保守派」「革新派」と巨大化してしまい、ついには、昭和40年代半ば、第24世法主、大谷光暢(おおたにこうちょう)と内局を預かる長男の光紹(こうしょう)が対立し、光紹は東本願寺を去り、昭和63年、東京都台東区に「東京本願寺」を建立して「浄土真宗東本願寺派」を名乗るようになった。

(11)一方、「真宗大谷派(東)」は、平成8年、大谷光暢の三男の暢顕(ちょうけん)が相承して、内紛は一応終息した。

>>他方、ウィキペディアによれば、
「西本願寺」は、浄土真宗本願寺派の本山。正式名称は「本願寺」。
「東本願寺」は、真宗大谷派の本山。正式名称は「真宗本廟」。(1987年〈昭和62年〉までは「本願寺」が正式名称。)
とあります。

西が「本願寺」と名乗るようになったのは、前述の「西本願寺」の説明の(3)が根拠だと思います。
東が「真宗本廟」と言われるのは、前述の「東本願寺」の説明の(3)が根拠と思われます。

>>しかし、1997年1月出版のエアリガイド京都(昭文社)には、
東本願寺の説明として、「正しくは本願寺」とあります。

近年は、ほぼ正式に「西本願寺」(浄土真宗本願寺派)と呼び、「東本願寺」(真宗大谷派)と呼ばれるようになっていますので、「昭文社」さん、オー・ミステイクのような気がします。
ただし、前述の「東本願寺」の説明の(2)を根拠にしているのかもしれません。
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お返事、ありがとうございます。

私の書き方も悪かったようで、もうしばしのお話をお付き合いお願いします。

>>1.宗本一体の話は、大谷派の統一なのか、東西の統一の話なのでしょうか?
 これに関しては、大谷派のなかでの話で、お西さんことウェスタンは関係ありません。というより、タヌキオヤジのお蔭さんで、江戸時代より東西本願寺はそれぞれに別の団体でございやす。
 また、「お東さん騒動」「お東紛争」という名前で呼ばれる紛争は、大谷派もしくは通称東本願寺の内部の紛争ですにゃ。ですから、同朋会運動の言う「宗本一体」は「真宗大谷派と当時の本願寺(通称・東本願寺)は一体である」ということで、東西の統一を歌ったものではありません。
 ちなみにウェスタンの友達に確かめてみたら「宗本一体」ってなに?って聞かれちゃいました。ウェスタンさんは、いい意味で宗本一体なのかもしれやせん。

>>2.『大谷派も「宗本一体だから本願寺の土地だけは残していけや」と裁判を起こし』の意味が理解できません。「本願寺」とは、通商西本願寺のことでしょうか?
 こちらはですね、大谷派から当時の本願寺(通称・東本願寺)は離脱しようとしたわけですよ。しかし、本来タヌキオヤジは教如上人個人に土地を与え本願寺(通称・東本願寺)を建てさせたわけですから、教如上人の血筋の持ち寺なはずなんですが、同朋会運動系の方々は「宗本一体」ですから本願寺(通称・東本願寺)は大谷派のお寺であって教如上人の血筋の大谷家の持ち寺ではないってことを主張したわけですよ。
 まぁ、土地の権利書なんて明治になって明治の法律で出来上がったものを使ってますからね、書類上は大谷派の主張に有利なようになっていたんでしょう。本願寺(通称・東本願寺)はあえなく大谷派の手に落ちます。
 こちらもウェスタン(西本願寺)の方々とは何の関係もありません。

>>3.『家康ことタヌキオヤジが教如上人個人にくれたはずの土地をぶんどって「本願寺はもう使えないから「真宗本廟」って名前にいちゃおう」となったわけです』の意味が理解できません。「本願寺」とは、通商西本願寺のことでしょうか?
 すんません。文章で「噛みました」。いえ、「噛みまみた」(テレビアニメ『化物語』より抜粋)
 「本願寺はもう使えないから「真宗本廟」って名前にいちゃおう」ではなく「本願寺はもう使えないから「真宗本廟」って名前にしちゃおう」でした。
 正式名称・本願寺(通称・東本願寺)は誰かが住職のお寺ではなく、みんなの帰依所としなければならないから「真宗本廟」って名前にしましょということになったわけです。
 こちらも、ウェスタン(西本願寺)の方々との関係はありません。 

 確かに、この革命の大義名分にはそれなりの意味がありましたが、結局は頭を取り替えただけになってしまったようです。
http://www.nsknet.or.jp/~yamabuki/hunsou.html
 まぁ、探せばいくらも資料は出てくると思いますよぉ。では失礼します。またしても、急ごしらえの文章のために誤字脱字乱文どうぞお許しください。失礼をいたします。
 合掌 南無阿弥陀佛
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その曖昧さが秀吉・家康の狙いだったわけです。


勢力を分散させるのが狙いなんです。秀吉も家康も、信長が必死になっても潰せなかった宗教の底の深さ以上に、信長が最も恐れ、味方にしたかった雑賀一族をも走らせた信仰心を潰すには、分散させるしかないと、判断したからです。
貴方も誤魔化されたお一人で、どちらのお寺さんも『ワイとこが本山ゃ・・』と、の賜ります。
どちらでも庶民には構わないのです。お寺さん同士の勢力争いに巻き込まれるのは『悟りが中途半端』な庶民となっていますから・・・・

決められるならお決めになっても構わないんですよ。片方から殺されないご用心です。
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