No.2ベストアンサー
- 回答日時:
>江戸時代にはたくさんの宮家があり、その中で4つの宮家が
「世襲親王家」だった。
江戸時代には「たくさんの宮家」は存在しません。
4つの「世襲親王家」だけが存在しました。
宮家が多かったのは明治時代からだと思います。
平安時代には皇子は親王として独立した家を持っていましたし
その子孫が王 として続くこともありました。
実際には政治・経済的に当時の皇族はそれほど力が強くなかったので
(なんといっても摂関だった藤原氏がトップ)
源氏などの臣下にくだるパターンが多かったと思いますが。
平安時代末から鎌倉くらいに跡継ぎ以外の
皇子が出家させられてお寺に入る、というパターンが
出てきます。子孫は持てませんが、一応これで経済的には
それなりの優遇は得ました。
室町時代あたりから政治的事情で
「代々親王」を名乗れる皇族の家 が出てきたようです。
さらに江戸時代
後継の問題を考え、いろいろな経過をへて
四つの親王家 というものが
成立したようですね。
江戸時代は皇室の力 は徳川家に押さえられて
いましたから、この四つだけが宮家として認められています
(経済的な面から徳川家の支援を受けないといけないことも
ありましたし)。一方で、宮家に属せないほとんどの皇族男子は
出家してお寺の主になるしかありませんでした。
明治時代になると、皇室中心の世の中となり、
今まで出家させられていた皇族達も
還俗して家をたてましたので、宮家がとても多くなりました。
今は宮家 の主となれる人は制限があったのでは
なかったかな・・・
大体そんな感じと思いますが
念のため貼っておきます(もう見ておられるかな?)
宮家
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%AE%E5%AE%B6
なるほど!なんとなく理解できました。
手元にある本をもう一度じっくり読み直そうと思います。
ところでもうひとつ質問なのですが、天皇直系の皇位継承者がいなかった場合、世襲親王家から継承者を出していたんでしょうか?
No.6
- 回答日時:
>天皇直系の皇位継承者がいなかった場合、世襲親王家から
継承者を出していたんでしょうか?
No.2です。
もちろん。そのための世襲親王家ですから。
戦国時代の「後花園天皇」
江戸時代の「後西天皇」「光格天皇」がそれです。
このうち後西天皇は、いったん宮家の主に
なった皇子ですが、後水尾天皇の皇子でもあるので
天皇家直系の血筋、といえなくもないです。
後花園天皇の場合は
伏見宮家の三代目「貞成親王」の子息にあたる「彦仁王」ですから
大分天皇家直系からは血縁が遠くなってしまって
います・・・
光格天皇は
閑院宮家の2代目「典仁親王」の子息「祐宮」でした
(東山天皇の曾孫にあたります)
こちらの天皇家直系からは少し血縁が遠いので
亡くなった前の天皇の皇女を皇后に迎えたりしています。
実は、今の天皇家の直近の先祖は光格天皇です。
世襲親王家がなかったら、天皇家の血筋が
途絶える可能性は、たぶんあっただろうな、と
私は思います。
再びありがとうございます。
世襲親王家はかなり役に立っていたようですね。
かなり理解できたと思います。
ありがとうございました!
No.4
- 回答日時:
No2 です。
世襲親王家について、書くのを忘れました。世襲親王家というのは歴史上の概念で、宮家の当主を代々親王に任じることで、子孫が皇族の身分を世襲する制度です。皇族の家系に生まれても、ご先祖さまが親王でなければ、孫の孫の代には皇族から外されます。
明治以後は皇族の子孫は(皇籍離脱しない限り)何代目になっても皇族とされたので、この「宮家の当主を代々親王に任じる」という必要性がなくなり、世襲親王家という概念も不要となります。但し、世襲親王家という「概念」が無くなっただけで、宮家は(皇籍離脱しない限り)全て世襲となりました。
もし仮に三笠宮系の宮家に男子が生まれて宮家を継承した場合、戦後初の「親王ではない世襲皇族」となります。
No.3
- 回答日時:
皇室典範には、皇籍離脱の規定はありますが、これは離脱に際しての手続きや調整事項を定めたものであり、宮家相続の条件を定めたり、宮家の数を制限するものではありません。
明治~昭和戦前に多数の宮家の庶子が臣籍降下して侯爵や伯爵となっていますが、これは明治になって増えすぎた皇族を減らす為に行われた運用であり、(旧)皇室典範の規定に「庶子は皇族になれない」などの規定はありません。
また、敗戦後の皇族は大正天皇の子孫に限定されましたが、これは敗戦による皇室の危機という緊急事態の中での特例措置であり、(現)皇室典範の規定に「皇族は大正天皇の子孫に限定される」などの規定はありません。
ですから、仮に今後皇族に男子がどんどん生まれるという事態になれば、次男以下の男子の数だけ宮家の数も増えるということになります。
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