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題名通りの質問です。
ベトナムの歴史というと李朝・陳朝・黎朝などという王朝を聞きますが、同時にチャンパー王国が192年~1832年と超長期間にわたって存在していたことを知り、私は今まで両者を混同していました。

調べた結果、チャンパーというのはベトナムの南地域を治めた王国で、李朝などは北部を統治した王朝(、であってるでしょうか?ここも補足を頂けると助かります)だというイメージが浮かんできたのですが、
ここまできて色々とお聞きしたいことがあります。

・南部のチャンパーと北部のベトナム王朝は長期にわたって独立政権を持っていたようですが、民族的には同じ仲間なのですか?
→現在のベトナム社会主義共和国は南北で統一されていますが、ドイツの東西分離のように格差や差別はあったのでしょうか?

・ベトナム北部にはドンソン文化が栄えていましたが、このドンソン文化の影響はチャンパー王国にも引き継がれていたのでしょうか?(もし引き継がれているのなら北部のベトナムとも同じ文化を共有することになりますよね)。

・また仮に北部と南部が同じ民族・文化であれば、なぜこれほどの長期間をお互い統一させずに分離したままそれぞれの歴史を歩んだのですか?
↑(逆にお互い違う民族・文化だから分かれていたのなら、今のベトナム共和国には北部と南部で文化の違いが存在することになってしまいますよね)。

どれが正しいのでしょうか?よろしくお願いいたします。

A 回答 (5件)

はじめまして


今、出張先の宿泊所で伺ったので手元に資料がありません
自分の記憶でお答えしますので思い違いや誤字があるかもしれないのでお許し下さい

まず民族的には9世紀の丁朝以降の北部(紅河デルタ)のベトナム諸王朝の主要民族は勿論ベト人(キン人)ですが
チャンパーは現在山岳少数民族としてベトナム、カンボジアに存在するチャム人が担い手です

言語系統もベト人はオーストラジア語族
チャム人はオーストロネシア語族
チャム人は言語系統ではマレー系や台湾の先住民族、フィリピン南部の人々と同じグループでベト人とは違います

宗教的にはベト人が東南アジアに特長的な上座部仏教とは異なる中国仏教を信仰していたのに対し
チャム人は文化のインド化ととも(チャンパーの建国者はインド人といわれる)にシヴァ信仰が流入
後にイスラム教が入ってもシヴァや土着信仰は色濃く残りました

文化的にはベト人はご承知の通り特徴ある銅鼓のある内陸農耕文化であるドンソン文化の担い手の一民族ですが
チャンパーを組織した文化はドンソン文化でなく海洋文化であるサーフイン文化です
高床式住居や特徴ある建造物などありますが、勿論金属器を有し農耕技術もありました
無論、両文化に交流があったことは否定できません
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この回答へのお礼

詳しい回答ありがとうございます。
気になる点があるのですが、フランス領インドシナで現在のベトナム全域が支配下におかれていた時代がありましたが、
今のベトナムがご指摘の通り二つの文化と歴史を有しながらも一つの国として統一されたのはその影響があるのでしょうか?

1954年にベトナムは南北に分裂して、ベトナム戦争の際も南北で戦いましたが、このように南北に分裂してしまったのもこのような歴史の歩みが伏線となっているのでしょうか?
できましたら現在のベトナムでも南北間に言語の違いや文化・民族意識の違いが存在するのかもご存知でしたら教えていただけると幸いです。

お礼日時:2010/03/22 21:59

NO.2です



フランスの植民地化についてですが

フランスによるベトナム植民地化の始まりはアロー号戦争終結直後のダナン攻撃から始まり
第一次サイゴン条約により南部(ナムキー)6省の内3省がフランスの統治下に編入されます
残りの南部3省もまもなくフランスが朝廷を恐喝し武力を用いず制圧してしまいました

フランスはさらに北部(バクキー)へも攻撃し全土を植民地化しようと企んでいましたが
フランスにとって予想外の二つの出来事で延期されます
一つは普仏戦争での敗北
もう一つは北部への遠征再開後、今度はカウザイの戦いでフランス軍がベトナムの義軍に敗北し
フランス遠征部隊の指揮官ガルニエが戦死したことです
フランスはやむなく第二次サイゴン条約で南部6省の領有で妥協せざるを得ませんでした

北部への侵攻は約10年後の清仏戦争とともに行われアルマン条約、パトノートル条約を経てベトナムの植民地化が完成します
南北の違いは南部は完全なフランス領土となり、北部(中部も含む)はフランス人行政官の監督下の朝廷統治
つまり間接支配の保護領になったのです
無論、外交自主権は剥奪されてます

産業政策での違いは第一次大戦後、フランスは北部において石炭やセメント、紡績など軽工業を起こし
南部ではゴムなどのプランテーション経営を行い始めました

産業での違いからかベトナムの共産党結党も南北とも世界恐慌直前の同時期にも関わらず別々に結党
北部にインドシナ共産党、南部に安南共産党が結党されました
これは間もなくベトナム共産党として統一されるのですが・・
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この回答へのお礼

先ほどの回答を見ていろいろと調べて回っていたところ、たった今偶然にも再度の回答を頂きましてこんな夜分にも関わらず丁寧な解説ありがとうございます。

私の知識不足もあり正直なところせっかくの回答の全てを飲み込めたわけではないのですが、
私は今までチャンパーと北部ベトナムを全く別王朝かのようなイメージを抱いていたわけですが、zep19さんの回答を見たところつまりどちらもそれほどの差はないということでよろしいでしょうか。
今まで私は南と北が別々の国だったのにどうして今くっついて一つの国なったのかが疑問だったのですが、この認識が間違っていたようですね。

お礼日時:2010/03/23 01:24

たびたびすみません



前述の回答のように私の記憶のみでお答えするので微妙な間違いや記憶違いがあるかもしれないので悪しからず

ベト人の王朝とチャンパーでは民族・言語・宗教・文化において違いがあるのは前述の通りですが

チャンパー制圧後のベトナム史にも日本、中国同様に南北朝時代というのがありました

チャンパーを制圧し、100年も経たない16世紀前半に朝廷内で内紛がおこり
武人のマク・ダンズン(すみません、これも漢字忘れました)が権力を掌握し、間もなく皇位を奪いました
それに対し反発した同じく武人のグエン・キムが南部に逃れ前王朝の血族の一人を立て抵抗しました
後の歴史書で前者を北朝、後者を南朝と称しています
この南北朝時代は16世紀末には南朝の勝利で終わるのですが
今度は王を称したグエン氏(前王朝のレ氏は皇帝として存続、皇帝の名義で王が統治)とグエン氏の婿チン氏が対立
グエン氏が南部(ダンゴアイ)に勢力を有し、チン氏が北部(ダンチョン)に勢力を有しました

そんな中、戦乱で荒れた北部では農業が衰退し、代わりに手工業が発達
一方南部のグエン氏は農業開発に力をいれました

しかし南北対立で国土も政権も疲弊し新たに蜂起した西山の義軍が南北政権を打倒し侵略してきたシャム軍も撃退し
ようやく18世紀末に統一するのです


南北に分裂して双方の支配者の政策に違いはあっても民族・宗教・文化には違いがあったわけではありません
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長文になって申し訳ございません


NO.2の続きです

10世紀末丁朝の内紛により摂政レ・ホアン(すみません、漢字忘れました)が再建した王朝はチャンパーの首都チャキエウを破壊し
チャンパーはヴィジャヤに遷都し
それ以来、紅河デルタのベト人諸王朝とチャンパーはどちらかが強勢の時、一方を攻撃する状況となりました
無論、元寇時のように互いに協力して元にあたる友好的な期間もありましたが

最終的にチャンパーの正統な王朝は(自分の記憶が正しければ)1471年ベトナムの聖宗により首都ヴィジャヤを破壊され倒されました
その後、暫くはチャム人貴族を尊重し自治を許す政策をとりますが
中央集権化に政策転換するとチャム人は山岳地帯や他国へ逃げました

チャム人は海洋民族でしたので海上交易者や海軍傭兵として他国で働く者もいました
有名なのはシャムのアユタヤ朝にはチャム人の艦隊を有し
アユタヤ朝の勢力拡大に大いに寄与しベンガル湾まで進出したといわれ
友好関係にあった明が秀吉の朝鮮侵略により苦しむとアユタヤ朝はチャム人艦隊の派遣を明に打診したぐらいです

チャム人とベト人の対立はベトナム戦争まで続いたにのみならず
その後もチャム人はあの悪名高いポル・ポトからも迫害虐殺されるなど受難は続いたのです
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この回答へのお礼

さっそくのご回答感謝いたします。
みなさんのおかげでベトナムに対しての理解が深まったと思います。
今のベトナムにもチャム人が住んでいるなど、調べてみれば今まで見落としていたことが再発見できそうです。

ここまで丁寧に回答を頂きながら、申し訳ありませんが私自身の知識不足もありもう少し先ほどの質問について補足をいただきたいのですが、
結果としてチャム人は迫害を受けたことがあるようですが、それは今現在も続いているのでしょうか。もしくはチャム人もベトナムに散らばって共存しているのでしょうか。

また一番関心があるのが、最終的に南北ベトナムが統一されたのはフランス統治時代にベトナム全域が統治下に入った影響を受けているのか、
もう一つ、ベトナム戦争の際に北ベトナムと南ベトナムとで戦争に発展したのは過去に南北に分かれていた経緯も含んでいるのか、ということです。
何度も質問の繰り返しで申し訳ありませんが、この上の二つがどうしても気になっています。

お礼日時:2010/03/22 23:57

民族ってナニよ?


というと、はっきりせんのですわ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%99%E3%83%8D% …
この方は東南アジアの研究から民族を定義したから東南アジアの実情に近いかもしれない。

「nationとはイメージとして想像された政治共同体である――そしてそれは、本来的に限定され、かつ主権的なものとして想像される」
引用。
平たく言えば、支配者が支配している範囲を民族とする。

で、支配者は支配を正当化するために、宗教とか選択します。
※ 日本史で言えば、仏教の受容なんてのは、鎮護国家思想=現世は天皇だよんという考え。
現在のベトナム北方では、儒教を採用した。というか強いられた。南方はヒンズー教とかイスラム教を採用した。
文化の主軸の一つが宗教であるという前提で考えれば、ベトナムの北方と南方は違う文化。

192年~1832年
→ 結構王朝が交代しているから、中国四千年の歴史!ずっと中国ですというのと同程度のアバウトさだと思いますよ。
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