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日出處天子致書日沒處天子無恙云云

この一文は、日本の文献にも載っているのでしょうか?

A 回答 (3件)

日出る所の天子、日没する所の天子に・・・っていうやつですね。


聖徳太子が、中国の皇帝にお手紙を出す時の、書き出しの文章です。
学生時代に習った気がしますが、遠い記憶なもので(汗)
相手に対して、ちょっと高圧的なはじまりだなぁ・・・と思ったのだけ、覚えています。
「出る(いづる)」の方がなんとなく上から目線のような気がして。

山岸涼子 という漫画家が、その時代を背景にした歴史漫画「日出処の天子」というのを描かれていますよ。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました。

お礼日時:2010/04/30 20:38

これは厩戸皇子(俗に言う聖徳太子)が隋の皇帝に送った国書。


これを見て、隋の皇帝はブチ切れた (゜Д゜;)!!

中華思想では「天子」は1人。 中国の皇帝 = 天子
にも関わらず、他国の、ましてや、海の果ての小さな島国の人間が天子を名乗るとは、無礼にも程がある、と。

で、日本で初めて歴史の書物を編纂したのは7世紀の後半から8世紀にかけてですが
当時の役人たちが、過去に「中国の皇帝に切れられた」なんていう恥ずかしい事実を『古事記』や『日本書紀』に書く訳がありません。

「日出處天子・・・」という国書を送った時代の文献史料は、『古事記』や、『日本書紀』以外は残っていない。
で、それらの書物にも記録が残っていない・・・という事は、日本の文献史料に、「日出處天子」の記録は一切ない、という事です。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました。

お礼日時:2010/04/30 20:38

これは『隋書』が記録しているものですね。

この国書を書かせたのは「阿毎多利思比孤」で、遣使の時期は607年に当たります。これは日本書紀には該当する遣使がありません。
聖徳太子の時期に当たるのは、後の『旧唐書』がいう「日本国」の歴史です。

「阿毎多利思比孤」は、「倭国」の君主で、中国の南朝にはへりくだって朝貢しました。彼は、北朝系の隋に対しては対等の立場を意識して、「天子」と自称し、南朝を滅ぼして中華の天子の地位を獲得したばかりの隋の煬帝を怒らせたのです。
『旧唐書』はその後の『倭国』については、連絡(朝貢)をしなくなった、と記録しています。

これに対して、『日本書紀』は、「東の天皇」が西の天子に書簡を送る、という趣旨の国書を贈ったと書いていますが、中国側にはその国書の記録は見当たりません。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました。

お礼日時:2010/04/30 20:39

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