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法華経の根本的な矛盾について

私は最近、法華経全巻を現代文で通読してみました。しかしこの法華経の中で法華経自身が語られるという矛盾について、全く納得ができませんでした。お経や読物としての良し悪し以前に、この矛盾は根本的な問題だと感じました。この矛盾に対し、法華経を支持する立場からの論理的な解説などはあるのでしょうか?

現に私たちが手に取り読んでいる法華経を、現・法華経とし、その現・法華経の中に記され語られている法華経を、記・法華経とすれば、これらは明らかに現・法華経≠記・法華経となります。しかし現・法華経において、この≠な関係は曖昧であり、むしろ=な関係であるかのように記述されており、これは法華経の根本的な矛盾だと思いました。現・法華経=記・法華経という関係はあり得ませんから。なので、この矛盾を解明した論説などがありましたら知りたく思います。

Yahoo知恵袋でも同様の質問をしてみましたが、あまり意を得たご回答を頂けませんでしたので、質問の内容を若干あらためまして、失礼ながらこちらでもお願いいたします。
  

A 回答 (9件)

 私の専門は浄土教のほうなんですが、鎌倉仏教全体を勉強しようと思いしばらく日蓮聖人の法華経理論の勉強をしておりまして、その中で法華経に触れているうちに同じ疑問を抱きました。

質問を読んで感銘いたしまして筆を執った次第です。

>>しかしこの法華経の中で法華経自身が語られるという矛盾について、全く納得ができませんでした。

 ヤッパリそこで引っかかりますよね??私としては『妙法蓮華経』だけでなく、異訳の『正法華経』『添品妙法蓮華経』や梵本の法華経も比較検討してからここで質問してみようと思ったのですが、『妙法蓮華経』の資料が多すぎて抜け出せない所です。
 異訳経典との比較について言えば、日蓮聖人の『法華取要抄』には「羅什三蔵は広を捨て略を好む」とあり、『妙法蓮華経』を訳した鳩摩羅什三蔵は逐語訳よりも意訳を好んでいると指摘していますから、日蓮聖人自身は『妙法蓮華経』のみではなく他の異訳の法華経の研究もされていたことがうかがえます。
 
 これを踏まえましても、『妙法蓮華経』を含めた「法華経」にはいろんな分からないことがあります。一つにはこの質問にあるような疑問。もう一つよく言われる疑問は「法華経には法華経の内容が書かれていない」一口にこれを「法華経無内容説」といったりするんですが、この質問もこれに付随するものだと私は考えています。
 なぜなら、「法華経」の内容と、現在説かれている状況(お釈迦様が説いている状況)、過去に説かれていた状況が記されていれば、この質問も生まれなかったはずです。『妙法蓮華経』を読むと、お釈迦様が説法されている状況と、過去に「法華経」が説かれた経緯しか記されていないのが問題であると言えます。

 では、「法華経」内容はいかにして読み解くか。
 これに日蓮聖人は「身読」ということを説かれておられます。『単衣抄』には

法華経の第四に云く「如来の現在にすら猶怨嫉多し」等云云、第五に云く「一切世間怨多くして信じ難し」等云云、天台大師も恐らくはいまだ此の経文をばよみ給はず、一切世間皆信受せし故なり、伝教大師も及び給うべからず況滅度後の経文に符合せざるが故に、日蓮日本国に出現せずば如来の金言も虚くなり多宝の証明もなにかせん十方の諸仏の御語も妄語となりなん、仏滅後二千二百二十余年月氏漢土日本に一切世間多怨難信の人なし、日蓮なくば仏語既に絶えなん

とあり、また『寂日房御書』には

日蓮は日本第一の法華経の行者なり。すでに勧持品の二十行の偈の文は日本国の中には日蓮一人よめり

とあり、日蓮聖人の思想の中核を表すといわれる『開目抄』にも

末法の始のしるし 恐怖悪世中の金言のあふゆへに但日蓮一人これをよめり

とあって、天台大師智ギ(ギの漢字は化けてしまうのでカタカナ表記にします)や伝教大師最澄は「法華経」を読誦して居られましたが、「法華経」に説かれているような時代とは相応していない方々であって、自分(日蓮聖人)こそが「法華経」に説かれている法華経の行者が遭遇するはずの受難に遭い「法華経」そのものを身をもって体験した唯一の法華経の行者であるとしています。
 このように身をもって「法華経」の内容を体験することを「身読」といいます。これをもって日蓮聖人は「法華経の内容」を感知感得し「南無妙法蓮華経」の題目を広めていかれます。

 つまり、
>>現・法華経=記・法華経という関係はあり得ませんから。なので、この矛盾を解明した論説などがありましたら知りたく思います。
ということを考えるとき、「身読」という解釈をもって「現法華経=記法華経」の式が成り立つわけですよ。また、「法華経」には内容が無いのではなく、読み解くべき者(ここでは日蓮聖人)が現れたときその内容(ここでは「南無妙法蓮華経」)も明らかになるってことですね。

 私自身は専門ではなく、あくまで勉強途中なのですが、「身読」ということについて御紹介させていただきました。私もまだこの質問の答えの出せないのが現状で、ここに書いたのは参考意見程度に受け取っておいてください。
 法華経系の研究者としては田村芳郎氏、末木文美士氏の二人を推薦いたします。田村氏は法華経の信仰者であり仏教学者としても幅広く研究されておられます、また末木氏の『日蓮入門 現世を撃つ思想』(ちくま新書)などは読みやすくとても参考になりますよ。
 それでは失礼いたします。

合掌 南無阿弥陀仏 

この回答への補足

 
ご回答ありがとうございます。

「身読」ですか、それはピンときますね。
今のところ、日蓮の著作など詳細について何も調べられておりませんが、この「身読」から私が感じる考え方、もしくは思いつきのイメージですけれど、下に記してみます。

現・法華経は、文章で著されているという限りにおいて、凡夫でも、記されている範疇については認識が可能である。
では、記されている範疇とは何かといえば、妙法=記・法華経が存在するらしいということ、凡夫がその妙法へ至るための修行法、この2点のみである。肝心の妙法そのものの内容については、文章で凡夫に説明できる方法が存在しないため、現・法華経の範疇外となる。
そこで凡夫にとって、妙法=記・法華経の内容を知る唯一の方法としてあるのが、まず現・法華経に記された妙法=記・法華経の存在を信じること、次に現・法華経に記された修行法をそのままに実践すること、となる。これらの修行の結果、凡夫も菩薩へ、菩薩から如来へと成長し、遂には妙法蓮華の花が咲く、という帰結になる。
つまり、現・法華経と記・法華経は表裏一体、そして陰陽あるいは顕密という関係にあり、現・法華経≠記・法華経でもあれば、現・法華経=記・法華経でもある。そのため、それらを総じて、法華経と呼ぶ。

さらに、月の例えで考えてみました。

夜空に浮かぶ月を、現・法華経としてみる。凡夫は誰でも皆その月を観ることができる。しかし地上からでは、その月の裏側=記・法華経を伺い知ることができない。まして凡夫には、知りたいと思う者などいないに等しく、裏側があるということにさえ中々想像が及ばない。
そこへ一人の聖者が現れ、その月の裏側を見たと言い、それはとても素晴らしい世界であると言う。凡夫らはこぞってその聖人を狂人とみなし、排斥を始める。
しかし凡夫のうち僅かな者は、月に裏側があるという話しに魅入られて、聖者に指導を請う。
聖者はそこで、月の裏側を見るに至る困難を思い、当初その凡夫らの要請を断るが、あまりの熱心さに指導を開始する。
それから修行を続ける凡夫らの幾ばくかは脱落、離反するも、聖者を信じ実践を怠らずに努めた者らが、長い歳月をかけ遂に月の裏側を見る時が来る。
修行者の眼前へ月の裏側が如実に現れると、それまで平板と思い込んでいた月は、実のところ球という裏表に境のない立体であり、振り返れば、これも平板だと思い込んでいた自分たちの大地さえ、実は青く輝く美しい巨大な球だったことを知る。
そして周りを見渡せば、太陽を始めとする無数の星々が、全て正確な軌道を描きつつお互いが緻密な関係で結ばれており、宇宙はどこまでも果てしなく続き、それでいて完璧な調和を保っている。
「ああ、これこそ法華経…」
凡夫から菩薩へと成長した者たちが、ここからさらに、如来への道を歩み始める。

こんな感じでいかがでしょうか?

引き続き、よろしくお願い申し上げます。
 

補足日時:2010/06/11 18:05
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 最後にもう少しだけお話させていただきます。



>>>「修行法」が記されていれば、それをやれば言いわけなんですが、
>>>「修行法」が書かれていないからこその「身読」なわけです。
>>というと、体験と修行とは違うものなのでしょうか?

 確かにおっしゃっている意味は分かります。行住坐臥全てが修行となると言う考えは仏教の中にもあります。しかし、ここで私の言っている「修行法」と言うのはそういうことではないんですよ。

 私の専門は浄土教なので浄土教の『観無量寿経』で少し説明をさせていただきます。
 『観無量寿経』の中には数多くの修行法が説かれています。例えば、日想観(日没を見て浄土を観想)・水想観(水を見て瑠璃の輝く浄土を観想)等の「十六観」と言う瞑想法や、持戒や大乗経典の読誦、六念(仏・法・僧・戒・施・天を念ずる)等々、枚挙にいとまがありません。
 では、「その数ある修行法の中でも、なぜ念仏なのか?」もちろん浄土三部経の内『無量寿経』のなかで阿弥陀仏が念仏するものを助けると誓いを立てられたことも理由の一つですが、『観無量寿経』の中だけでも説明がつけられます。それは、『観無量寿経』に

佛告阿難。汝好持是語。持是語者、即是持無量壽佛名

とあり、お釈迦様は最後のまとめのところでアナンに向かって「このことをよく心にとどめておきなさい。このこととは阿弥陀仏(無量寿仏)の名前を心にとどめておきなさい。」と説かれるのです。お釈迦様は最後に「阿弥陀仏の名前」即ち「南無阿弥陀仏」の念仏を心にとどめよと説かれるのです。これに対して念仏以外の修行法はお釈迦様のお勧めがないということになります。これを親鸞聖人は「勧無勧対(念仏は仏がたが勧めておられ、諸善は勧めておられない)」と説かれています。この理由をもって浄土教において中心となる修行法は「念仏」となるわけです。

 つまり何が言いたいかというと、これは他の経典解釈においても同じことです。教えがあってもお勧めがないということは、「修行法」が載っているわけではないということです。ここが法華経の無内容説につながる部分です。「法華経」にも多くの菩薩が修行している姿は記されていますが、お勧めを見るとほとんどないのです。
 ここは、メジャーどこの常不軽菩薩で考えて見ますと「汝当に作仏すべし」と数多くの人々に言ってまわる。これは確かに「修行法」と捉えることが出来ます。しかし、これをしなさいというお勧めはないのです。確かに、この常不軽菩薩の姿をもって修行とする宗派も長い歴史の中から見ればあったかもしれませんが、日蓮聖人自身はそれを修行法としたわけではありません。日蓮聖人が「お勧め」のない「法華経(現法華経と言い換えてもいいでしょう)」から、お釈迦様の真意(記法華経と言い換えてもいいでしょう)を読み解いて広められたのが「南無妙法蓮華経」の題目であり、題目こそが法華経の真意を表す「修行法」となるわけです。
 確かに日蓮聖人は自分と常不軽菩薩を重ねて、

不軽菩薩は過去に法華経を謗じ給う罪身に有ゆえに、瓦石をかおるとみえたり。

と述べておられますが、常不軽菩薩と同じ事をしていたわけではありません。あくまでしつこいようですが、日蓮聖人の言う「法華経」の修行法は「南無妙法蓮華経」の題目でありそれ以外のものではありません。この題目という真実の仏法である「法華経」の修行法を広めることで降りかかる法難に遭う自分の姿と常不軽菩薩の姿が重なっていく事が「身読」なわけです。


>>自らが修行と期して体験すれば、それは何でも修行になるかと思いますので、身をもって「法華経」の内容を体験する、これを修行だと捉え実践することが身読、だと考えていました。

 ですから、確かにmyo_hoのおっしゃる通りで、全てを修行としてしまうことも出来ます。私も「そういった解釈ができる(もしくは「ある」)」という事に異論を挟んでいるのではなく、日蓮聖人の「法華経教学」の立場に立ったときその解釈で良いのかということです。
 私もまだまだ勉強中のなものでうまく言葉に出来ていないのですが、私としては「法華経」(特に後半部)に記されていることは「修行法」と言うより「因縁」であると考えるほうが自然なんですよね。

 あぁ~、なんだかホントまとまらなくてすみません。私も勉強を続けたいと思います。急ごしらえの文章のため誤字脱字乱文どうぞご容赦ください。

合掌 南無阿弥陀仏
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この回答へのお礼

 
ご回答ありがとうございます。

なるほど。
突き詰めて行くと、なかなか厳密なものなんですね。

私などは、例えば観無量寿経を現代文で読むと、九品往生に「何だか階級制みたいで、阿弥陀さん、そりゃイメージ違うよ」などと突っ込みつつも、木津川の浄瑠璃寺でズラリと並ぶ九体の阿弥陀像を目の前にするや「こりゃよっぽど薬師如来さんコントロール悪いね、阿弥陀さんも分身の術9人がかりでキャッチャーとは、何とも恐れ入った、有り難いお姿」と感激する始末ですから。

そんな私が法華経に興味を持ったのは、近くの妙見さんへお参りするのが好きでたまに足を運ぶんですが、そこは日蓮宗なものですから、ご挨拶としては「南無妙法蓮華経」となるわけで、このお経に南無をつける感覚が自分としてはどうにも納得いかずに、困ったことからです。

お経を大事にして感謝し丁寧に取り扱うのは当然としても、肝心なのは内容や仏さん自身であってお経そのものだとは思えずに、こりゃともあれ法華経を読んでみるしかないか、と何冊かの解説書に当たり、幾度か通しで読経してみると、やはり“変”なんですよ、漠然とですが。
そこでハッキリさせなきゃと現代語訳(図説法華経大全)を読んでみたら、やっぱり間違いなく“変”でした。

この“変”と思う点を細かく上げればキリないんですが、とどのつまりは、現・法華経=記・法華経とされる1点に集約される問題だと思い至り、ようやくこちらで質問させていただいたような次第でした。

このような素人の疑問へ、お忙しい中ご丁寧にお付き合いくださいまして、本当にありがとうございました。
私としては、身読を始めとした様々な要点をアドバイスいただき、今後の課題として取り組ませていただきます。

それでは、いったんこの質問はお開きということで、ご回答いただきました皆様にも厚く御礼申し上げます。

と言いつつ、最後に蛇足ではありますが、私がこれから法華宗系のお寺へお参りさせていただく際には、是非ともこのようにご挨拶させていただこうと思います。

「南無妙法蓮華」(ナムミョウホウレンゲ)
 

お礼日時:2010/06/13 14:22

 詩人ですねぇ。

月の例え等は私には出来ない表現です。

 一応最初に確認だけ、他の方の回答を読んでいると、「記法華経」の定義が少し分からなくなりそうなので記しておきます。
 「法華経」の中に「法華経」が出てくるのには大きく二つに分けることが出来ます。
(1)法華経ってすばらしー!!
(2)過去において誰々が法華経を説かれました。
(とっても乱暴な言い方ですが・・・)この二通りです。ここでの質問の「記法華経」は(2)のことをあらわすもので良いんですよね??(1)の意味で答えていらっしゃる方もいるようなので、確認のために。

さて、
>>引き続き、よろしくお願い申し上げます。
とのことですが、私の言いたいことは大体ご理解いただけていると思います。本来付け足すようなことはないのですが(と言うより知識がないのですが)、言葉尻を付くような話になってしまうのですけれど少しだけ微調整させていただきます。悪しからず。


>>現・法華経は、文章で著されているという限りにおいて、凡夫でも、記されている範疇については認識が可能である。
>>(中略)記されている範疇とは何かといえば、妙法=記・法華経が存在するらしいということ、凡夫がその妙法へ至るための修行法、この2点のみである。
 ここに少し引っかかる所があります。「法華経」には「凡夫が妙法へ至るための修行法」は書かれていません。このことは、江戸時代に大乗非仏説などを日本において提唱した富永仲基や、幕末から明治にかけての神道家で法華経無内容説を説いた平田篤胤などの指摘するとおりです。
 「法華経」に書いてあるのは(特に後半部は)「過去にどのような状況において法華経が説かれ、法華経の行者(菩薩)がどのように生きたか」と言うことです。これは、仏教のお説教の区分で言えば「因縁(因縁談とも言います)」と言われる部分になり、「妙法に至る修行法」が載っているわけではないのです。
 「修行法」が記されていれば、それをやれば言い訳なんですが、修行法が書かれていないからこその「身読」なわけです。末法と言う時代背景と日蓮聖人に降りかかる法難が、「法華経」に説かれている因縁と一致すると言うことで、「身読」は成立するわけです。
 日蓮聖人は法難に遭えば遭うほど自身の自覚を「法華経の行者」→「地涌の菩薩(「法華経」の中でお釈迦様に後年の「法華経」流布を託される菩薩達)」→「上行菩薩(地涌の菩薩のリーダー)」と深めていかれます。

 あと、もう一点。ここで、私が申したのは「日蓮聖人の法華経理論」の一端であって、「法華経理論」としてはほんの一部に過ぎません。「天台法華理論」においては、「法華経」の実践はと言えるものは日蓮聖人の言う「題目」ではなく、天台大師智ギの言う「止観」ですし、それぞれにも相違点が見られます。ですから、この質問に対してもっと他の答えも方あると思います。私自身ももう少し調べて行きたいと思います。(誰か天台宗専門の方、答えてくれませんかねぇ。ちょっと期待してます。)

 読み返してみるとたいしたことは話していませんね。すみません。
合掌 南無阿弥陀仏

この回答への補足

 
ご回答ありがとうございます。

>「法華経」には「凡夫が妙法へ至るための修行法」は書かれていません。

あれ、そうなんですか?

> 身をもって「法華経」の内容を体験することを「身読」といいます。

ということから、私は体験=修行だと一人合点していましたけれど、

>「修行法」が記されていれば、それをやれば言いわけなんですが、
>「修行法」が書かれていないからこその「身読」なわけです。

というと、体験と修行とは違うものなのでしょうか?

例えば、本人が期せずして偶然に出会う体験を修行とは言えないと思いますが、自らが修行と期して体験すれば、それは何でも修行になるかと思いますので、身をもって「法華経」の内容を体験する、これを修行だと捉え実践することが身読、だと考えていました。

多分「身読」の本当の意味が私には分かっていないのだろうと思います。
けれど、身読=現・法華経の実践=妙法への修行、と捉えると、私にはとても気持ちよく理解できるんですが。

以下のように現・法華経を、修行者への体験課題=修行法、と見ることができますので。

序本では、瑞相を感じ、白毫の光に映し出される一万八千の世界を見、 日月灯明如来の説く四諦と縁起を理解し、六波羅蜜を修し、分からないことがあれば弥勒のように文殊師利へ問うという体験課題。
方便品では、仏の智慧は限りなく深く難解難入であると知り、三止三請のように諦めず、五千起去のような者らがいることを考慮し、如来の法は一仏乗と知り、方便をもって衆生に説き、他に依ることなく如来を信じるという体験課題。
譬喩品では、何者も積み重ねた身読により舎利弗のように授記されると信じ、三車火宅の譬えの通り方便をもって衆生を救い、衆生を阿耨多羅三藐三菩提に導くため諸仏は方便により一仏乗を説くために三乗をもってすることを知り、この経は智あるものに説き浅識のものには説かないという体験課題。
信解品では、長者窮子の譬えの通り、如来を父、窮子を自分自身だと気付くという体験課題。
薬草喩品では、三草二木の譬えのように仏法の功徳を衆生へ平等に注ぐという体験課題。
授記品では、如来たる者はどのような国を創造すべきかを知るという体験課題。
化城喩品では、大通智勝如来と十六王子それぞれの修行と説法から学び、化城宝処の譬えのように如来の方便という配慮により進むという体験課題。
五百弟子受記品や授学・無学人記品では、これらのようにして修行に励むものは衣裏珠の譬えの通り皆等しく阿耨多羅三藐三菩提の記が授けられることを信じるという体験課題。
法師品では、さらに法華経の一句一言でも聞いて心から歓ぶ者には阿耨多羅三藐三菩提の記が授けられることを信じ、弘教の際に悪口、罵り、刀・杖・瓦・石などで害を加えられても仏を念じ耐え忍ぶという体験課題。ヽ(´_`;

疲れたので(笑)この辺でやめておきますが、以降にも、堤婆達多、竜女、摩訶波闍波提比丘尼、耶輸陀羅比丘尼、、無辺行、浄行、安立行などから、久遠実成の釈迦如来自身、そこで最も分かりやすい例が不軽菩薩です。
さらに、香料を十二年間飲んだ上に自分の腕を七万二千年も燃やし続けた一切衆生喜見菩薩、妙音菩薩や観世音菩薩、妙荘厳と浄徳夫人と二人の子、そして普賢菩薩など。
これらは「因縁」と言われる区分だとのことですが、この「因縁」も含め、全てが修行者への具体的な体験課題だと捉えれば、現・法華経そのものが「How to be Buddha」という指南書に早変わりしてしまいます。

不軽菩薩のように信じ、一切衆生喜見菩薩のように供養し、観世音菩薩のように救う。

もちろん、そのような修行が真っ当なのか、成し得るのかどうか、私にとっては不明ですが、ともかく現・法華経を深く信じて釈迦に習い、数え切れない転生をも繰り返す覚悟のもと、凡夫には計り知れない本気をもって、それを達成しようと固く決意し死に物狂いの情熱で実践したのが日蓮だった、ということのように思えます。

身読とは、そのようなことだと感じたので、ピンときた、つもりになってました。
現・法華経の実践=妙法への修行、と捉えれば、あの宮沢賢治による「雨ニモマケズ 風ニモマケズ」も、そのままとして理解できますし。

またそこから、日蓮宗系の方々に独特の性向も、それを生み出す理由が分かるように思えました。
「法華経を信じ実践せよ。解釈不要、題目唯一、実践あるのみ!」
そうなれば当然、日蓮宗系以外の方々とも考えは違ってくると思います。

以上、どうやら勘違いのようですが、私の身読理解についてでした。


> 読み返してみるとたいしたことは話していませんね。すみません。

私にとっては重大なご指摘でした。ありがとうございます。
もし宜しければ、またご意見をお寄せくださいませ。
 

補足日時:2010/06/12 19:08
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法華経とは題号、つまりその経典のタイトルであり、その中で法華経を説いていたとしても何ら矛盾は無く、また屋上、屋を重ねたとしても法華経こそ釈尊の真意、本意である以上、その重要性からして当然かと思われます。


大体、法華経とは簡潔に言えば、『妙法蓮華経』という大宇宙、森羅万象を統括し秩序たらしめている根本の精神的実在(これを宗派や民族によって『神』とか『仏』、『天』あるいは『創造主』等と呼ぶ)について説き表しているものですから、くどいぐらい、しつこく法華経をその中で、その内容について説明していてこそ至極当然であって、何ら矛盾は無いかと思われます。
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「しかしこの法華経の中で法華経自身が語られるという矛盾について、全く納得ができませんでした。



○法華経については天台チギでさえ良く理解できなかったと思いますので、叡山天台系のかたがたが理解できるとは思いませんし、解説も不備が多いように思います。そこで、一旦、完全に白紙に戻して「現代的ビジョン」を考慮して俯瞰すると、法華経の中で法華経自身が語られることはおかしくないのですね。
釈尊の晩年に、霊鷲山で弟子を集めて行なった「奇跡的なビジョンを伴う前代未聞の(摩訶不思議な」説法」とその時の状況および登場人物の話を纏めたのが鳩摩羅什訳『妙法蓮華経』ですね。
釈尊が弟子に説法をし、三妙によりビジョンを見せたわけですが、その時、別の仏(多宝如来)が現れて良く法「ここでは法華経と称してますね」を説かれた。といっているのですね。また、他の世界から無数の人々が現れ、同じことをいってますね。
これで法華経のなかに「法華経」が出てくることになるのですが、これは矛盾ではなく訳語の問題だと思いますね天台チギから中身もわからず訳した人ばかりですから致し方ないと思いますね。例えば、『良く妙法を説かれました。』と訳して経典全体を「妙法蓮華経」とすれば問題はないように思います。法華経自体にも多くの混じりが入っていると思いますが、まあ立派な方が新理論をプロジェクターなどを使って講義し、それに感嘆した多くの人々が新理論を褒め称えているという現代的ビジョンを参考にして、その全体を何とか文章にしたと考えればよろしいんじゃないかと思います。

この回答への補足

 
ご回答ありがとうございます。

“立派な方が新理論をプロジェクターなどを使って講義し、それに感嘆した多くの人々が新理論を褒め称えているという現代的ビジョンを参考にして、その全体を何とか文章にしたと考えればよろしいんじゃないかと思います”

まさに状況としては、その通りですね。つまり、釈迦のプロジェクターで映し出される新理論=妙法の解説画面が、私たち凡夫にとっては眩し過ぎて見えず、釈迦の講義も、新理論=妙法の核心へ迫ると、まるで犬笛のように凡夫には聞こえなくなる、ということで、しかしながら、参列した菩薩や縁覚、声聞には、それぞれの能力に応じてその新理論が伝わり理解され、その新理論=妙法を褒め称えている、ということですね。
そこに立ち会う釈迦以外の如来たちも、先に新理論=妙法を完全に理解したノーベル物理学賞の歴代受賞博士のように、その様子を微笑ましく見守り、後輩たちを励ましている、といった感じでしょうか。

ここでの、眩し過ぎて見えない、犬笛のように聞こえない、とは、凡夫にとって経典で単に文章化されていないため不可知、という程度の意味ですが。

そうならば凡夫の読者には、妙法=記・法華経の存在はハッキリと把握されないままですから、現・法華経内で新理論=妙法=記・法華経のことを、何らかの意図を持ってか、もしくは単なる訳語の誤用か分かりませんが、現・法華経と同名で記されれば、それが記・法華経のことだとは気付かずに、現・法華経のことだと短絡的に勘違いするのも避けられません。
まして現・法華経を読み進むに連れて、それは西暦50年頃から150年頃にかけ諸章が付加され現・法華経が成立する過程とほぼ同様の流れだと思いますが、次第に、現・法華経=記・法華経という誤解へと誘導するような記述が増すように思われます。

しかし、そのような誤解への誘導に惑わされる事なく、現・法華経の中で語られる法華経とは、あくまでも妙法=記・法華経のことであり、現・法華経≠記・法華経なのだとスッパリ割り切れば、本件の矛盾が根本から解消される、ということですね。
ここまでは、もちろん私も同意なんですけれど、そこから先がどうにも不可解な点です。

私の質問に戻りますと、“この矛盾に対し、法華経を支持する立場からの論理的な解説などはあるのでしょうか?”ということで、寡聞ながら私の知る限り、法華経を信奉、支持される方々は、上記でのような現・法華経≠記・法華経という割り切りとは全く逆の、現・法華経=記・法華経という認識でおられると思います。
おそらく天台チギ以降、そのような認識が法華経に対する常識ではないかと感じているのですが、それではそのような認識が、本件でいう矛盾をどのように止揚して得られたのか、私には皆目、検討が付きません。
そこで、“法華経を支持する立場からの論理的な解説”があれば参考にしてみたいと思い、質問させて頂いた次第です。

引き続き、よろしくお願い申し上げます。
 

補足日時:2010/06/10 15:46
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先ず法華経の本意ですが、これは「成仏」の本因を説きあらわされています。

それまでの、
教えでは、長い期間をかけて生死を繰り返してその修業の結果得道する事が通説でしたが、
法華経においては、遠い過去世において仏となり、衆生を教化するためにこの世に生を受け
たことを教示されます。

さらに釈迦佛は、この成道の因を上行菩薩をはじめとする地涌の菩薩に付属され、未来に
おいて、この法華経を広める契りを交わします。

鎌倉時代の僧 日蓮 は、「南無妙法蓮華経」を教典より取り出し、本尊として定めこれを
流布します。「南無妙法蓮華経」を流布し始めた日蓮には、他宗の僧や幕府から様々な迫害
を受けますが、“竜の口の法難”を機に、上行菩薩の再誕としてのお立場を表わされ、弟子の
教化、育成に晩年をついやすとともに、人法一箇の御本尊を認められます。

法華経は、今日流布されている「南無妙法蓮華経」が諸仏成道の本因であることを証明して
しているものです。
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え~確かお釈迦様御自身が今から私が語る事は例え話だからと始めに説明があったと言う説がありますよ。

例え話なら矛盾があっても仕方ないのでは?それに元々その時代は文字で残さず口伝えで随分と時が経ってから文字で集約されたはずです。誰の現代訳かわかりませんが、この御時世でさえ英語から日本語の訳でさえ正確さに欠けるのだからその時代のヒンズー~日本語迄のいくつかの訳の間に法華経としての誤訳が生じて矛盾が出来ても不思議ではないのでは。
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翻訳できたとしても理解できているかは別物でしょう。

先生方により教え方…生徒により理解力が違うのは当たり前です。文字通り理解する者や深い認識をした者など説法を理解する資質能力に格差がある。というような記述があります。

この回答への補足

ご回答ありがとうございます。

しかしながら、私の問題とする矛盾については、翻訳、教え方、理解力、深い認識、資質能力など、無関係かと思われます。
私は、法華経に一目瞭然とある、構成上の物理的な矛盾を問題としているわけですから、翻訳の巧拙、教え方の彼是、理解力の高低、認識の深浅、資質能力の格差など、本件について問題外と言わざるを得ません。

引き続き、よろしくお願い申し上げます。

補足日時:2010/06/10 00:37
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論理的な宗教というのは無いと思います。

この回答への補足

ご回答ありがとうございます。
宗教=非論理的、と一言で切り捨ててしまわれると、身も蓋もないんですが、、、

確かに一般的には、教典や聖典、神話など、あり得ない話しや整合性のない理屈が満載だと思いますし、特に法華経など、過大な誇張とこじつけに満ちていると思います。
けれどそれらは、あくまでイメージの世界を表現するため、言葉にできない宇宙や精神の世界を想像させるため、誇張してでも自説の正当性を主張するため、布教のツールとして論理性を逸脱するのだろうと思います。
なので表現上、宗教に非論理性や非現実性があるとしても、私はそれをお約束として納得できるのですが、この法華経の矛盾には、それらと全く違う問題があると思います。

色々な宗教が自己の崇高や正義などを表明するため、非論理的で非現実的な言説を行なうとしても、決してそれと同時に自らが虚偽を騙っていると表明する事はあり得ません。それは行為として矛盾するからです。
しかし法華経では、現・法華経≠記・法華経であるのは自明でありながら、そこで同時に、現・法華経=記・法華経だという矛盾をそのまま説くわけですから、これは自らの言説を、自ら虚偽だと表明していることになると思います。

私は法華経を読んで、このように捉えざるを得ませんでしたが、それではあまりにも不可解に過ぎますので、この問題について、何か解明の糸口が欲しいと思い質問をさせて頂きました。
引き続き、よろしくお願い申し上げます。

補足日時:2010/06/09 16:47
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