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伊藤博文は、なぜ下級武士出身で総理大臣になれたのでしょうか?
長州藩出身ということが影響しているのか、大日本帝国憲法の起草への貢献が買われたのか、また起草過程で自らの影響力を強化したのか、
といった辺りが思いつきますが、
よろしくお願いします。

A 回答 (6件)

他の方もおっしゃられていますが、明治の立役者である志士が


次々と亡くなったのが一番大きな要因かと思います。
内閣制度が実施されるまで、長生きしたことも大きな要因でしょう。
長生きしていれば、明治三傑と呼ばれた「西郷隆盛」「大久保利通」
「木戸孝允」の誰かが総理大臣になったことは間違いないかと思います。
また、影で大久保と暗躍していた「岩倉具視」なども候補に上がりますね。

伊藤博文の特徴として、非常に人懐っこいところがあるました。
長州にいたころは高杉晋作を兄のように慕い、また木戸孝允とも主従と
いうより、兄弟のように親しくしていました。
明治になると、岩倉使節団として海外に渡航に広く見聞を広めるのですが
その際に、木戸とは険悪になり、大久保と親しくなります。また、明治
天皇にも気に入られており、新政権の中で着々と人脈を拡げていったのも
大きな要因です。

木戸が亡くなり、大久保が暗殺され、岩倉も病死すると、明治政府の中では
大久保の内務卿を引き継ぐ形となり、すでに最高指導者の地位を確立させて
いました。政敵であった、大隈重信を下野させるなどして、自分の地位を
絶対なものにしました。内閣制度が創設されると、当然の如く、総理に就任
したわけです。

余談ですが、誰よりも長生きした山縣有朋は、軍部・政界に君臨し、日本を
戦争至上主義にしたてていきました。。。実力者の割りには人気ないよね。。。
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 やはり長州藩出身ということが一番大きいでしょう。


 倒幕に活躍した長州の人材は軒並み、明治の世を見る前に死んじゃいましたし(吉田松陰、久坂玄瑞、高杉晋作などが代表的ですが・・・・)、明治になってからも萩の乱などで吉田松陰の教え子たちは死んでしまい、あんまり長州には人材が残ってなかったんです。伊藤は吉田松陰の教え子、教え子と言っても実際に学んだのは1ヶ月半だけだったんですけどね。
 伊藤は英国へ密航して留学した経験がありましたし。
 下関戦争で長州が4カ国艦隊に負けて和平交渉をしたとき、英国は長州に対して彦島(ひこしま、下関の関門海峡にある小島)の99年間割譲を要求します。彦島を香港化しようとしたわけです。これを長州が「戦に負けたから仕方ないのかなぁ」とのんでいたら、その後日本は大変なことになるところでしたね。
 でも、上海で列強に呑み込まれていく中国を実際に目にした経験のある高杉晋作が、猛烈に反撃の弁をまくし立てたためその気勢に押されて英国は彦島割譲条件を引っ込めます。そのときの通訳をしたのが伊藤でした。
 そんなこともあって、当時日本に一番心配な独立を保つということに関して伊藤だったらちゃんと仕事してくれるんじゃないかという期待があったんじゃないでしょうか。
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長州藩出身でなおかつ維新の功労者だったからでしょうな。


とりわけ、四国連合艦隊が下関を砲撃したとき
急いで、留学中のイギリスから井上聞多と共に帰国し、
藩のために奔走したのが、その後の伊藤博文の
長州藩での立場を抜き差しならないものにしたという説もあるようです。
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伊藤博文は最初は武士ではないそれ以下の身分であった。



>長州藩出身ということが影響しているのか、大日本帝国憲法の起草への貢献が買われたのか、また起草過程で自らの影響力を強化したのか、

・・・もちろんこういうことは影響していますが、大きく言って実力と運があったということです。有力な諸先輩が死んでしまったしね。
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伊藤博文生涯を調べてください。

あなたが上げたことでなれたとは、書いていません。
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http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E8%97%A4% …

ま、英語が喋れたからですね(^_^)v
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