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肉体が亡びても魂は永遠なら、永遠の世界に魂が溢れてしまいます。輪廻転生で説くなら世界人口の増加に伴い新しい魂が生まれているのでしょうか?個人が誕生したときその魂はそこから始まった真新しいものなのか、輪廻転生により繰り返す生への歩みなのか悩んでしまいます。学のない私ですが、『それでも僕はいきてゆく』という野田啓介さんの本を読み哲学の魅力を感じています。

A 回答 (17件中1~10件)

>輪廻転生で説くなら世界人口の増加に伴い新しい魂が生まれているのでしょうか?



野田啓介さんの本は知りませんが、輪廻転生については諸説あります。
転生と言っても必ずしも人間に生まれ変わってくる訳ではありません。
それまでの行いによって天上人になる者もいれば、畜生として生まれ変わる者もいます。
だから、動物でも人間に生れ変わる物もいると言う事だと思います。

まあ、これは昔の人が考えた哲学の一種ですから何を信じるかは貴方次第です。
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この回答へのお礼

御回答ありがとうございます。
私は信心深い方ではないのですが、今の時代、宗教が誤った解釈で暴走し、危険な方向へ進むことがあるので、生や死に対して哲学で納得したいという気持ちがあります。目に見えない世界にリアリティを求めるのはおかしいですが…
では星のように多い魂の数は一定で、人口増加分は、他の種が減少した分となるのでしょうか?

お礼日時:2010/10/13 22:47

>肉体が亡びても魂は永遠なら、永遠の世界に魂が溢れてしまいます。



○ そうですね。放置すると永遠の世界に魂が溢れてしまうのですね。そこで、そうならないように転生輪廻のシステムが構築されたのですね。このシステム作ったのがお釈迦様なんですよ。日本人の殆どの人は数十万回以上の転生を経験していますね。
でもまだまだ迷っているでしょ。システムを知らない人は洗濯機を回すようにぐるぐるやられるのです。洗濯機の転生と呼んでますね。このシステムに気づいた人はちょっと別格で扱われるようになりますね。洗濯機から出て、生まれたい時を自分で選べるようになるということですね。これを解脱といいますね。
こんなのがあの世の常識ですね。

>輪廻転生で説くなら世界人口の増加に伴い新しい魂が生まれているのでしょうか?

○ ある程度魂修行が進むと、つまり霊格があがるとあなたが二人、三人に分かれるのですね。分光とかみたまわけ、と呼んでますね。分かれたあなたたちがまた転生して個性化していくのですね。つまり、鼠算式に増えているのです。
進化した魂は地球も飽きてくるでしょうから他の星にということもあるのですね。
中国やインド、アフリカで人口が増えているのは、ちょっと違って宇宙からの魂の移民を受け入れているからなんですね。だからあの人達は少し変わっているのですね。
こんなのがあちらの世界の常識ですね。
あの世の常識を知るものもいますから、気軽に質問してくださいね。
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この回答へのお礼

聡明な方とお見受けしますが、不器用で理解力のない私に、寛容で解りやすい説明に優しさを感じます。

<中国や―だからあの人達は少し変わっているのですね。>のところが面白かったです。

今日、質問コーナーサイトに初めて登録しましたが、mmkyさんのおかげで嬉しくて楽しいです。
ありがとうございました。

お礼日時:2010/10/14 01:07

その永遠の世界がそもそも、有限の広さだという前提が正しいのですか?


死後の世界も「ビッグバンで生まれた宇宙の一部」ではないでしょうか?
お題が成立するには、死後の霊界も宇宙の始まり(誕生、というのは語弊があるかと・・・)と終わりをまたがり続けなければならないはず、という考えもできると思います。

そもそも死後の世界が、大航海時代の西洋人が行こうとした地球という「枠」においての「異郷の土地(土地=枠です)」のような「物体的なもの」としてあると言い切れるのでしょうか?
SFで宇宙に進出した人類が植民地にしてる惑星もいいきれば「物体=モノ」です。
死んで零体になった死者の住む世界もまた、零体としてのモノからなる「土地」と同等なら理屈上いつかはそうなる、に違いないでしょうね。

零体だろうが物理的なモノによる枠と同等なら、懸念のとおりでしょう、宇宙の生成・終焉が繰り返すとして、それを越えても続くなら。

もしもそれぞれの霊魂が見てる、明晰夢のように自分の意思が働く「夢を共有化したような」のが死後の霊界なら、その辺は無問題でしょうか?
そもそも零体はとにかく、その大元であろう「魂」に「物理的な大きさ」という概念を適用できるのかどうか・・・
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この回答へのお礼

私は宗教や哲学に無頓着でしたが、世界で過激な解釈で暴走する宗教より、
誰もを納得させれるような哲学があり、生や死や真理を世界を諭すことが出来たら平和なのかなあなんて、足りない頭で漠然と思います。
哲学も全然知りませんが、生きる意味という観点でたまたま読んだ本が哲学色が強かっただけです。
私の質問を根本的に覆すような答えに、なるほどと何度も読み返させてもらいました。
貴重な意見ありがとうございます。

お礼日時:2010/10/14 01:24

あくまで私の空想ですが、質量保存の法則のように、この世界における魂の数(量かもしれない)は常に一定だと考えています。



たとえば、たまに何かが大量発生する現象が起きたりしますよね。そんな時は、どこかで何かが大量に命を落としたのではないかと思っています。何か、というのは人に限らず、動物、虫、魚、木など、生きとし生けるものすべてです。
今回発生した岡山のザリガニ大量発生。あれはもしかしたら、ロシアの山火事で燃えてしまった木々たちの魂が転換したものかもしれません(自分で書いておきながら視野が狭いと思いますが)
もっと視野を広くすれば、一定の魂は地球内だけではなく、地球外の生命も含まれているかもしれません。
まあ、真実は神のみぞ知るってやつですが。

実のところ、最近になってエジソンがこれと似たようなこと言っていたのを知って驚きました。
「エジソン 魂 不変」などで検索するとヒットするかと思われます。
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この回答へのお礼

そうかもしれない!と感銘しました。
絶滅危機の野生動物とは相対称に人類が増えているのかもしれません。
参考になりました。ありがとうございます。

お礼日時:2010/10/14 01:30

「魂は来世で未来永劫に存在する」という考えは、


国家体制を統治する上で便利なシステムです。
民衆は圧制でも納得しやすく、兵隊は命を投げ出して闘います。

古代エジプト文明やそれ以前からあったとされるマヤ文明などでも、
そういう世界観(宗教というよりは常識)で統治されていました。
現在でもイスラム教やキリスト教右派で利用されています。

権力と宗教の合作といえるシステムであり、
先祖を敬うという民衆の嗜好にも合致します。

一方で、仏陀という王族出身の哲学者が発見したのが「食物連鎖の法則」です。
この法則に人類も囚われていて逃げることができない、というのが「悟り」です。
科学的考察方法も無い当時では画期的な世界観です。

これを広く民衆に理解させながら統治にも利用しようとして誕生したのが大乗仏教であり、
捻り出されたのが曼荼羅の世界観でした。
そしてやはり、輪廻転生という考え方で民衆に解り易く解いて成功しました。

ここでも国家統治側と教団が合作して、大商人の資産も利用しながら宗教設備を整えていきます。
超古代文明の時代から科学的考察方法の仏教に至るまで、
「魂」という概念は形を変えながら国家権力に利用され続けてきたわけです。

魂の存在を疑えば砂漠のような人生観になってしまいがちで、
現実主義が極まれば欲にまみれた退廃的な世界になってしまうのかもしれません。
それでも、真実こそ真の哲学であると奮起すれば、
魂という便利な言葉(システム)を使わずに世界観を構築できるかもしれません。
(H.ヘッセの「荒野の狼」という作品もあります)

似非宗教や擬態宗教でも魂は雄弁に語られますが、
魂を定義しようと思えば生物学を極めねばならず、
生物学を極めるには宇宙物理学も極めなくてはなりません。
(オウム教団が独自の方法でエリート達を利用できたのも、そういう理由です)

まず第一に、「肉体が亡びても魂は永遠」などという安易な考えは棄てた方がいいです。
そこから自分の頭で世界観を構築していくのが哲学の道だと思いますよ。
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この回答へのお礼

すごく奥が深いですね!
今の時代、宗教を誤った解釈で危険な方へ暴走する過激な衆愚があるから、哲学を崇高すればという、学のない私の短絡的な考えですが、宗教も哲学もかなり共通項を持っており境界が曖昧ですね!

確かに天国も地獄も民衆を導くのに、あまりに都合のいい道具のような気がします。

絶望した人を救うため、生きる意味を解き明かす、何かを信じる必要があります。
それはひょっとして哲学的じゃなく、単純なものかもしれません。
目に見えないものだからいろいろな考えが生まれるのですね!

大変参考になりました。ありがとうございました。

お礼日時:2010/10/14 17:15

人が理性を持っていることに古代の人は着目をし、それがどこからきているのか考えてイデア論が出たんだと思います。



イデアは従って場所を占拠するものでもカウントできるものでもないと思います。

イデアとは何かという問題で、美・優秀性と考えました。
馬にとってのイデアは早く走ること、ならば人間にとってのイデア(美・優秀性)とは何かを次の人が考え、「善く生きることが人間にとっての美(優秀性)である」と考えたんです。

では「善く生きるとはどういうことか」とさらに展開して、徳を持って生きることであるとしたんです。


そしてその美・優秀性は普遍であるとしたんです。

普遍とは増えない・減らない・時代にいよって変わらないもの。

何かの条件で美となるものは、何かの条件が消えたとき美とならない。
こういうものには普遍性が無い。

イデアは普遍なので何にも依存しないんです。


それから人間の徳をイデアとし、人間の徳とはどういうことかとなり、アリストテレスの中庸論になっていったわけです。

中庸論とは例えば不正を見ても注意しないのは、その人が悪だからではなく、勇気が欠如した状態だから。
徳(イデア)が足らない状態なわけです。

かといって恐怖政治をする人に、1人ではむかっていったら殺されてしまいますので、この場合つっこんでいった人は勇気がある人ではなく勇気が過剰すぎた無謀な人。

不足と過剰がイデアから離れるとしたんです。

永遠に存在するものはイデアのこと。
消えるというのは普遍じゃないってことですよね? 存在した状態から存在しない状態に<変化>したので。
普遍の属性を持っているものは、変化しないんです。
永遠性を持っているんです。
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この回答へのお礼

勉強になります。
イデア自体の意味が、学のない私にとって調べてもいまいちピンとこないのですが、
その意味を敷衍することができました。

何度も読ませてもらい、認識が深まったような、まだ漠然としているような感じです。

大変、貴重な説明で大切にさせてもらいます。ありがとうございました。

お礼日時:2010/10/14 17:23

自己流でふるえながら、ビビりながら、恐れ多くも日頃感じていることを言わせてもらいます。



「肉体を滅ぼしても魂を滅ぼすことのできないものを恐れるな」という言葉があります。
 私は魂を神のみ心に適う志の様なものではないかと思います。その志は又それを引き継ぐ他者
 によって生きつづけます。魂は風船のように軽くてふわふわその辺を漂うようなものではなく
 愛と力による思慮分別のようにずっしりと重いもので、その価値は永遠のものだと思います。
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この回答へのお礼

御意見ありがとうございます。
目に見えないものだからこそ、人それぞれ様々な発想が生まれるので参考になります!

私は魂はもっと自然に近いような気がします。

信心深い訳もなく、宗教や哲学に縁が遠いというか、勤勉じゃない私が、
肉体とは別に魂があると思うのは、現実主義や唯物主義では行き詰ってしまうからです。
ジョンレノンの、天国も地獄もないという考えに感銘したときもありましたが、
死んだら無になるのなら、墓参りの意味さえ希薄になってしまいます。
幽霊などいるのだろうか?と自問すれば、世に蔓延している怪談のほとんどが作り話にせよ、
実際に起きた事実もあると信じています。今時、全く霊の存在を信じない人は皆無に近いと思いますが…

成仏してない魂が霊となるなら、肉体が亡びても魂が存在することが明白になります。
そう考えると、成仏した魂はどこへ行くのだろうという疑問にぶつかります。

死んだ後の世界なんか信じないとか言いながら、供養しないと罰が当たるとか言う、
矛盾だらけの人がたくさんいます。

魂の概念もいろいろありますが、死んだら悪い魂も善い魂も肉体から離れてどこかへ行くのでしょうね!
風船のように軽くてふわふわの方が私のイメージに近いです。

お礼日時:2010/10/15 18:47

宇宙以上に広いものはないのでは?


魂=気は無限にあるのではないでしょうか。その中のほんの少しがとりあえず分かる限りでは地球上に生命として現れるのでは?
その気は宇宙に戻りまたいつの日か地球上又は他の星で生命体になるのでは?
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この回答へのお礼

私は肉体が亡びても、魂は存在するというこを自明の理とし、
そこからいろいろな意見を参考にさせてもらってます。
前掲したように霊の存在からそう思います。
テレビで語られる心霊体験を、疑いながら文句を言うタイプの人間ですが、
身近な人の話など、実際に霊がいると信じているからです。

誰も確信を持って知ることができない魂の行き先ですから、
いろいろな発想が生まれています。

ztb00540さんの意見でイメージが膨らみました。
そのような気がします。ありがとうございます。

お礼日時:2010/10/17 14:40

『それでも僕は生きてゆく』の著者の野田啓介です。

グーグルで偶然、このページに出会いました。本を読んでくださってありがとうございました。感想など聞かせていただけたら幸いです。次の本の参考にしたいとおもいます。ご質問の直接の答えではないことも含めて、参考となることを書いてみます。

死後の世界の問題は、宗教哲学のテーマの一つです。その存在や様相については、ほとんどの宗教哲学者は「よくわからない」という立場です。ただ「自分はこう信じている」という個人的な信仰として、それぞれの立場をとっています。(「説明できること」と「説明は出来ないが、自分ではこう思う」ということにずれがあります。ちなみに哲学では、誰もが同意できる「答え」はありません。勉強すればするほど、分からないこと不思議なことが増えてくるから、おもしろいですね)

カントは若い時にスウェーデンボルグという霊視者に興味を持ち、霊界の実相について研究しました。しかし、哲学では扱えない課題である考え、あきらめます。そこで認識論(人間がものを知ったり、理解したりする仕組みを扱うもの。そこから「知りうることの限界は何か」というカントが挑戦した課題が生まれてきます。結局この問いに10年かかりました)を日常的に経験できる範囲に限定しました。ただし、倫理学では、どうしても死後の世界の存在、霊魂の永遠性を前提としないと、道徳が成り立たないことから、霊界の存在を理性的に要求されることがら、「理性的信仰によって要請されることがら」としました。キリスト教の立場に立ち、輪廻転生は信じていません。プラトンは、輪廻説をとっています。

哲学では確とした論がありませんので、ここからは私見です。死後の世界が地上と同じような世界であるならば、当然、容量の物理的限界の問題があります。問題は、物理世界の空間概念を、(霊魂の世界を含め)精神の世界に当てはめられるのか、という点です。有限でありながら膨張し続けている宇宙のように、広がり続けているのが霊界なのかも知れません。物理的な大きさや距離が、異なった原則で成り立っているのかもしれません。いずれにせよ、心の世界と物の世界はそのあり方が違うように思います。

主題とは少しずれますが、こんなこともあります。物は、自分が誰かに与えると自分の手元からなくなり、持分は減ってしまいます。しかし、与えることで、心は(比喩的な言い方ですが)大きくなり豊かになります。与えると減るのが物ですが、与えると大きくなるのが心だというのは不思議ですね。これも比喩的な言い方ですが、物理的な物は、同じところに同時に存在することは出来ません。一つがあれば他は排除されます。心は、重なったり、ひとつになったり、物体とは違うあり方をしているようです。

「自分」は、肉体としてはアパートなり、家なりに住んでいますが、心は、自分の愛する家族や、親しい友人の心に住んでいます。自分の心にも、愛する人が住んでいます。心は、過去を引き寄せたり、未来に先駆けたりする不思議な世界のように思います。「それは記憶でしょ」と片付けないで、じっと心のあり方を見つめてみるところから、思考が広がるように思います。心がつくる「世界」というものがあるとしたら、物体によってつくられている世界とは、違うものではないだろうか、という疑問をもっています。心のつくる「空間」や「時間」はどんなものだろうと、興味はつきません。

ちなみに空間を空き箱のように考えたのはニュートンです(これが一般的です)。ライプニッツは、物があるから空間が生まれると考えましたし、カントは、人間が物をとらえるときの認識の仕組みだと考えました。(だから、「宇宙の果てはどうなっているんだ」と考えた途端、その向こう側を考えてしまい、「宇宙のはじまり」を思ったとたんに「その前は」と考えてしまう。カントは、それは人間の思考の仕組みがそうなっているからだと考えました)。(蛇足ですが、ハイデッガーは、空間よりも時間がもっと根本にあり、私たちは、距離も時間で測っていると考えました。東京からニューヨークまでの距離を、「飛行機で13時間」と時間で考えるなど。これは人間の存在ー生きていることーが時間(死)によって限界付けられているからだと考えました。)

輪廻説の難点のひとつは、自分のアイデンティティーの問題です。自分が誰か(あるいは何か)の「生れかわり」だとしても、「自分」にその先人の記憶も意識もありません。自分が仮に「誰か」に生まれ変わったとしても、それは新しく生まれた「その人」であり、自分の意識の足跡もありません。ならば、無名の生命の連続はあったとしても、アイデンティティーをもった固有の自己は、死と共に終結する、ということになります。
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この回答へのお礼

野田啓介さんありがとうございます。

まさかとびっくりしてしましました。
私は生きる意味として興味を持ち本を読ませてもらいました。
正直、難しかったけど、健太に感銘することが多くて、楽しく読ませてもらいました。
疑問を抱く健太と一緒になって自分も疑問を抱き、答えが欲しくてこういう質問サイトに初めて投稿しました。
私は健太のような苛めにあったことはありませんが、少年期のときから優しい少年であり、健太ほど鋭く優れた思考力がなかったけど、成長するにつれ同じようにシニカルに大人を見ていました。小学校で最初に思ったのは、自分は優し過ぎて周りとは違うと感じていました。仲間外れや苛めなどを見て心を痛めながらも、注意したりすることはありませんでした。小学一年生のとき運動会で肥満の子が走るのをクラスのみんなが笑っていた光景が、ずっと心に残っています。男の子も女の子もみんなが笑っていたので、笑えない自分が人と違うと実感しました。

成功する生き方を語る書物は成功人生を送っている立場で説いているので、弱者には厳しい内容の本が多かったけど、自殺者の立場に真剣に向かい合っている、野田啓介さんに感動しました。
何か一つ取り柄があればいいと言った先生がいましたが、何の取り柄もない人はどうするのだろうと思っていました。学校で優劣を刻まれ、健太のような苛めに出くわしたとき劣等感しかなく希望の持てない人が、自殺してしまうと思います。得意、不得意に関係なく自分なりの生き方というのが大切だと思います。

この本は私にとって大切でもっと認識力を高めようと、再度読み直しています。

『魂が永遠で人間がイデアに目覚め生きていくことに意味があるなら…』と、
もう一つ質問させてもらってますので、恐れ入りますがそちらの方もお願いします。

お礼日時:2010/10/17 15:37

 精神世界を物質世界に置き換えて見ても、結構面白い。



 宇宙は空間。
 そこに銀河が。
 
 銀河は星の集団。
 星は宇宙のチリ“物質”の集りとか。

 そこで

 精神宇宙にも空間が。
 そこにも銀河が?

 その銀河は魂の集団。
 魂はこの宇宙のチリ“精神”の集り。

 物質が互いの持つ引力により「星」となるように、精神のチリが引き合って魂となる。
 星が永遠でないように魂もいつかは消滅する。

 ☆魂は永遠ではないのでは?
 

 
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この回答へのお礼

回答No.9のztb00540さんの見解を更に敷衍するような意見ですね!
大きな視野で見ることができ納得させられます。
確かに“永遠”って考える方が不自然な気がします。

ありがとうございました。

お礼日時:2010/10/17 15:43

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