人生のプチ美学を教えてください!!

洋の東西を問わず、時代劇には大嘘が多いと聞きます。

代表的なのが西部劇で主人公が愛馬に跨って単独で隣の町まで何日もかけて旅をするシーンがありますが、これは大嘘とか。

当時の人が長距離の移動をする時には、必ず予備の馬を1頭連れて行ったそうです。 たしかに砂漠の真ん中で愛馬が倒れたら、万事休すになりますよね。 これは納得です。

日本の時代劇では 「お歯黒」 でしょうか。 今の女優は白い歯のままで登場していますが、当時の既婚女性は全てお歯黒をしていたようです。 でも美人女優が歯を真っ黒にして登場したら、気持ち悪いですけと ・・・

私がいつも 「これって本当?」 と感じているのは、侍どうしの戦いの場面で、両者の刀と刀をシャキーン! と合わせて、じっと睨み合うシーンがよくありますよね。 でも実際の刀でそんな事をしたら、両方とも刃こぼれして使い物にならなくなるように思うのですが、どうなのでしょうね?

あと何でも結構なのですが、時代劇の大嘘を指摘して頂けないでしょうか? 教科書に載らないような歴史の勉強になると思います。

A 回答 (23件中1~10件)

こんにちは。


私は、自称「歴史作家」です。

>>あと何でも結構なのですが、時代劇の大嘘を指摘して頂けないでしょうか?

☆江戸時代「将軍」のことを「将軍さま」とは呼ばなかった?
時代劇では、「将軍さまのお成り・・・・・・」などと仰々しく台詞を言いますが、実は、「公方(くぼう)さま」または「御公儀さま」「大樹(たいじゅ)さま」と呼ばれたのが正しい。正式には、「征夷大将軍」といい、蝦夷(えぞ=東北地方)を征伐するという役職名でした。足利義満が将軍となった時、「公家に摂政なる棟梁あり、沙門(さもん=寺院)に門跡なる棟梁あれども武家になし、何とぞ公方の号を・・・」と第98代長慶天皇に願い出たのが最初だとか。

☆大奥は男子禁制?
確かに「男子禁制」でした。「表(おもて)」と「大奥」の中間に「中奥(なかおく)」というのがあり、ここが公方さまの寝所ででした。「表」と「中奥」の先を仕切ってあるのが「お鈴口」。このお鈴口を公方さまが入られるときに、合図として鳴らされたのが鈴で、「奥」の廊下の鴨居つたいに鈴が幾つもぶらさがっていましたので、この廊下を「お鈴廊下」と称しました。そして、公方さまは中奥の「蔦の間」で寝起きをし、子造りにも励まれました。大奥は「御殿向(おとのむき)」「長局(ながつぼね)」「御広敷(おひろしき)」と分かれており、「御殿向」は御台所様の居室。その他の女性たちは「長局」で起居していました。「御広敷」は玄関口などを警備する男性役人の詰所でした。唯一男性が入れる場所であった。大奥は10歳以上の男子はいっさい出入りが禁止されていました。しかし、老中などの位が高くなると、役目上の御用で、特別に大奥に入ることが許されました。また、警備上の理由で月に一回は「老中見回り」、三ヶ月に一回は「御留守居見回り」があり、男子が「女の園」に入ることができた。男に飢えたお女中たちが、この時ばかりと、特別に着飾って色目をつかったが、見て見ぬ振りをすることが義務付けられていた。

☆大奥の廊下で御台所様やお中﨟と出くわした下級お女中は・・・
下級お女中がバッタリ廊下で御台様などと出くわしてしまったときは、女中はバタッと腹ばいになり、顔を床に押し付けて、ただただ御台様一行が通り過ぎて行くのを待ちました。これには、「下品な者」が御台様などの目に入らぬようにとの仕来たりでした。しかし、御台様などが廊下で立ち話などをされていると、さあ大変。急用などでどうしてもというときは、腹ばいになったまま後ずさりをして、廊下の曲がり角などに身を隠してから立ち上がり、別の廊下を通って御用に走りました。

☆公方さまの食事
公方さまの食事には必ず「鱚(きす)」が付いた。これは、言わずと知れた喜ばしいという字が付くので縁起かつぎであった。また、朝食には味噌汁に落とし卵が定番だった。奥向きで作られる公方さまの食事は、いつも同じものを10人前ほど作り、1膳は「公方様御膳所掛」という台所の責任者が食べ、「お毒見役」が2膳に少量ずつ箸をつけて毒が盛られていないか、または、腐ってはいないかを確かめた。そして、中奥で公方さまの前には2膳が用意され、公方さまは1品に二箸をつけると、「お代わり」と称して、そばにはべるお女中が、もう一つの膳の品と取り替えて出されました。また、公方さまの食べるころには、すっかり冷え切っていて、味もそっけもなかった。落語でおなじみの「目黒のサンマ」は温かいものを食べたことのない公方さまを皮肉った話である。ちなみに、10-1-2-2=5人前残るわけですが、お勝手方の上級者がいつも「ありがたく」食べていました。
なお、御台所さまにも「御台様御膳所掛」、「お毒見役」がいて、公方さまと全く同じように膳が運ばれました。

☆大名行列も回り道
江戸市中で大名行列同士が行き違うことはしばしばであった。この時は、お互いが籠を開けて双方が目礼をした。しかし、籠を止めることは絶対にしなかった。また、相手が御三家や格式が上位の場合は籠を降りなければならなかったので、ややっこしい、めんどうくさい。そこで、御三家などとわかると下級の大名行列は、あわてて、横道へ逃げ回った。

☆大名屋敷の内に農家?
大名屋敷というと、豪華な庭園などを思い浮かぶ方も多いと思いますが、大名屋敷、特に、下屋敷内には百姓が住んでいて田畑を耕していました。これは、殿様に農業の辛さ、厳しさを見てもらうためでした。こうした百姓は住所があって無いようなものでしたので、「○○守殿百姓」と呼ばれていました。

☆テレビの中の大嘘
「したに~」「したに~」とやってきた大名に宿の玄関に「○○守△△様御宿」などと書かれているのは「もってのほか」である。現代の旅館で「××会社御一行様」という景気づけを真似たもので、江戸時代の大名行列はあくまで行軍だったので、看板を立てるとすれば戦場になぞらえて「本陣」「脇本陣」であった。さらに、テレビなどでは、好色大名が宿に着くと芸者を揚げて・・・なんてえのは、目も当てられない。芸者が許されたのは江戸、京都、大阪の三大都市だけで、街道筋の田舎に芸者はいない。いるとすれば「飯盛り女」であるが、こんな安物は大名は銭を出して買わなかった。また、戦時の行軍ととらえられていたので、女は禁物であった。現代ではよく「大名旅行だ」とか「殿様気分」などというが、それは、大名行列では飲料水から料理材料、料理道具一式、風呂桶、殿様専用の便器まで持ち歩いた。つまりは、すべてに行き届いていることを指すものをなぞらえていることである。大名行列は不意な出来事があるときは、野宿もしたので、常に、戦場の心構えで行軍にのぞんだ。そして、宿に宿泊しても、宿の料理人ではなく、供をしてきた料理人が食事を作って差し上げた。

☆大岡越前守が有名になったわけ
享保十六年(1731)、無宿の伝兵衛という者が火付けの罪で、江戸市中引き回しのうえ火焙(あぶ)りの刑を火付盗賊改から言い渡された。しかし、越前守の部下である手付同心が「伝兵衛にはアリバイがある」という噂を聞き、越前守に上申した。そこで、密かに、越前守は証拠集めを指示し、吟味のやりなおしをして無罪を言い渡した。当時は、1審制度だったので、再審まで断行し無罪を言い渡した越前守は、当然、庶民から人気の的となった。

☆女の取調べ
女に対しては、原則的に、責問や拷問はしないことになっていた。そして、取調べの最中、少しでも膝小僧から上を出すと調べは中断された。そこで、両膝を縛って取り調べをした。しかし、そのことを承知している女は、わざと後ろにそっくり返って、取調べをたびたび中断させたとか。

☆遊女の起源
遊女の起源は何と「巫女(みこ)」であった。寺社は、当時、遊覧地で人が多く集まった。だから、隠れて商売をしても儲かった。また、寺社の門前町は寺社奉行の支配で町方役人の手入れができなかった。隠れ「売女(ばいた)」の取り締まりは町奉行所の管轄で寺社奉行には、「風俗取締り」の権限がなかったことから、安全地帯というわけです。

☆吉原の誕生
慶長5年(1600)に家康が関が原の戦いに出陣したとき、東海道の鈴ケ森八幡神社の前に茶店を造り、揃いの赤ダスキに赤手ぬぐいを被った遊女8人にお茶を出させた。家康はこれを大変気に入り、戦いで勝利して江戸に帰ると、その男に遊女屋の開業を許可したのである。男は当時、柳町に遊女屋を営んでいた「庄司甚右衛門」という者で、許可がおりたのは元和3年(1617)だったという。日本橋葦屋町(ふきやまち)に公認の遊女屋を造ることを指示したが、このあたりは、まだ一面の葦(よし)野原であった。そこで、めでたくもじって「吉原」としたのである。

☆吉原の初めは金持ち専門
吉原ができた当初は、大名や裕福な武士、豪商などしか相手にされませんでした。つまり、幕府としては、裕福な大名や武士などが居ては、いつ幕府転覆をされないとも限らない、と言う事情から、とにかく、銭を使わせて「貧乏にさせる」と言う政策だった。
庶民に開放されたのは、元禄年間のことでした。

☆飯盛女
江戸四宿、つまり、品川、千住、板橋、内藤新宿、が四宿(ししゅく)であり、ここには「飯盛女(めしもりおんな)」という宿場女郎がいた。宿場の活性化のために黙認されていて「一軒に付き二人」と決められてはいたが、見世の表に顔を出すのは二人で、裏に回ればぞろぞろ・・・。

☆人を斬った後の刀の処理
「馬糞で拭うか、藁の灰で何度も脂のとれるまで拭うと良い」・・・と幕末の書に出てくるが、馬糞はともかく、どちらも「藁」なので、「藁」が効き目があったようだ。よく時代劇で、懐紙で拭いてポイ・・・実際にはあれだけでは脂はとれない。刀の手入れは中々面倒だったのである。

まだまだありますが、字数制限がありますので、これっくらいで・・・。
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この回答へのお礼

有難うございました。
凄いですねえ。
こんなに江戸時代の風習を教えて頂いたのは初めてです。
有名な吉原は、元々は葦原だったのですか。
それと、今では大名旅行と聞くと予算無制限の金持ち旅行のようなイメージがありますが、本当は戦争をイメージして、全て「自己完結型」の旅行だったのですね。
今の自衛隊が自己完結型の組織なので、もしかすると大名旅行組織(?)と言えるかも知れませんね。

でも、よくご存知ですねえ。感服しました。
また、次の機会があれば宜しくお願いします。

お礼日時:2011/05/16 13:52

#17の者からの再投稿です。



手裏剣の投げ方が紹介されています。
http://search.yahoo.co.jp/search?fr=sb-kingbrw1& …

そして「活人剣」の考え方にも注目なさって下さい。

http://www.kitensha.co.jp/column/column1.html
『生命知としての場の論理~柳生新陰流に見る共創の理~』

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%89%A3%E8%A1%93
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この回答へのお礼

有難うございました。
手裏剣の投げ方のサイトを拝見しました。
凄いですねえ。
投げる時は上を向いているのに、的に当たる時は4分の1だけ回転して真っ直ぐに当たる。
しかも距離に応じて微調整が可能。
これだと拳銃に立ち向かう事が可能かも知れませんね。アッと思った時には手裏剣が目の前に来ているわけですから。

でも映画に出てくる忍者が投げるのは、左手に重ねた星型の手裏剣を右の親指でシュッシュッと前に送り出すような感じで投げています。
あれでは何も投げられないですよね。

日本の古武道の凄さが分かりました。

お礼日時:2011/05/19 13:42

横から#21さんのアドバイスありがとうございます。



たしかにフロートガラスが量産される以前のガラスは平面度が悪く、透視象が歪んで見えるので、年代物の硝子であることが判ります。
しかし、戦前に建てられた民家に使われている当時のガラスも中性洗剤を使って洗い、拭きとるだけで透明度は非常に高いものだということが判ります。

フロートガラス以前の像が歪むガラスを演出するとなれば、そうとうマニアックな大道具さんということになりますが、実際に当時のガラスを知ってみれば、それは曇ったような、汚れたようなものではありません。

ドラマのセットは、陽子ちゃん達が住んでいる住宅であるにもかかわらず、「10年間無人の家」みたいに汚いのです。
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この回答へのお礼

有難うございました。
疑問に感じておられる窓ガラスですが、これは室内の建具ではなく、外に面した窓のガラスという事で宜しいのでしょうか?
だとすれば、当時の道路は舗装なんてしていなくて、雨が降れば泥道、晴れた日には砂埃が舞い上がるような状態だったと思います。
今とは全然違う状況ですね。
昔の男性がみな帽子を被っていたのは、多分、髪の毛が砂で汚れるのを防いでいたからだと考えます。
もしかすると、当時の人は「窓ガラスをピカピカにしても1日もすれば砂埃で真っ白になる、だから窓ガラスの掃除なんてしない」と考えていたかも知れないなあ、とコメントを拝見して感じました。
ちょうど、現代人が家の屋根瓦や外壁を頻繁に掃除しないのと同じですね。
ただ、NHKがそこまで考えて時代考証をしているのかは疑問ですが。

お礼日時:2011/05/19 13:21

 脇ですが#19ガラスについて。

現代のような平滑表面の板ガラスを大量生産できるようになったのは1959年のフロート式製法確立以降。それまでは表面が滑らかでないままにするか、磨き上げて平らにするかのどちらかでした。それを表現しているのでは。

http://www.agc.com/kingdom/manu_process/
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この回答へのお礼

有難うございました。
そう考えると、ピカピカのガラスにすると逆に時代背景に合わなくなるという事になりそうですね。

お礼日時:2011/05/19 13:12

No.16で回答した者です。



江戸初期の民衆や武家の髪型は、今のロングヘアに近いものです。垂らして後ろで結びます。大河ドラマの江がそういう髪型ですよね。
花街や役者は髪を結っていたそうです。
3代家光の頃から、戦がなくなり落ち着いてくるにつれ、町人に富が回り始めます。芝居見物も一般的になりはじめ、簪や櫛など飾り物が使われ始めるにつれて、髪が結われるようになっていきます。
変遷が書かれているHPもありました。
http://www.geocities.jp/hairheart1/newpage26.html
残念ながら絵はほとんどありませんね。絵があると笑えますよ。江戸時代も終わりになると、今の「日本髪」のイメージですが、中期までは、とんでもない髪型もあります。

話が横道にそれますが、今「日本髪」と言うと芸妓さん舞妓さんですよね。京都では、舞妓さんは自毛で結いますが、芸妓さんになると基本はかつらだそうです。舞妓さんの髪型は年数で決まっていて、最後にお相撲さんのように断髪を行って、芸妓さんとなるのだとか。

他の方のご回答を見ていて、思い出したのもありました。
刀ですが、刀が業物(いわゆる名刀)であることと、使い手の力量で、切れ味の持ちは変わってくるそうです。「据え物切り」と言って、わらを束ねたものを切るそうですが、師範クラスでなければ切り落とすことはできないのだとか。
出刃包丁でも、板前さんだと鯛の頭を簡単に割りますが、素人だと普通の骨でも切りにくいですから、そう考えると、不思議でもないのかもしれません。

裸を気にしなかったという説は私も聞きました。
女性でも平気で肌を見せていたそうです。お風呂は混浴が当たり前だったとか。さすがに江戸市中では分けてあったようですが、与力や同心は女風呂に入ることができたらしいですね。

300年も続いたのですから、ずっと同じ風俗のはずがないのですけれど、面白いものですね。
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この回答へのお礼

有難うございました。
何度もお答え頂き、恐縮です。
こうしてみると、ヘアースタイルの歴史も結構面白いですね。
ご紹介のサイトを拝見したのですが、おっしゃるとおり絵が無く、説明を読んで想像するしかないのですが、基礎知識がない私には少し難しかったです。
女性の裸ですが、昔は若い母親が人前で胸を出して赤ちゃんにオッパイを飲ませていたようです。
当時の人には、エロチックなどではなく、微笑ましい姿として写っていたのでしょうね。

時代が変われば、風習や考え方が変わると聞きますが、本当ですね。
有難うございました。

お礼日時:2011/05/17 09:24

面白い質問なんで、よこから便乗質問させてください。



昭和10年代に信州の安曇野ってところで学生時代を送った少女の物語がNHKで放映されております。
これを見ていて気づいたのですが、家の窓ガラスが汚いんです。汚れている。曇っている。何年もガラスを拭いていない感じ。
主人公の陽子ちゃんは母を亡くして、家族の為におさんどんをする良い子なんですが、窓ガラスは拭かないようです。

今の時代の片親家庭ではなくて、戦前の躾の行き届いた家庭で、ガラス拭きを全然やらないというのは、大嘘じゃあないでしょうか。

NHKの大道具が、なぜ、ガラスを汚れたままにしておくのか知りませんが、なにか私の知らない事情があるのでしょうか?
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この回答へのお礼

有難うございました。
今やっている連続テレビ小説でしょうか?
私は見た事が無いのですが、窓ガラスが汚れたままになっているのですね。

私などには理由は分かりませんが、テレビなのでNHKがそれで「古さ」を演出しているのか、あるいは当時、「窓ガラスを拭いてきれいにする」という発想が無かったのではと感じました。
私の小さい頃の記憶を辿っているのですが、年に一回の大掃除以外で、親が窓のガラスを掃除しているのを見た記憶がありません。
もしかすると、「窓ガラスってそんな物だ」という考えがあったかも知れないなと思いました。

お礼日時:2011/05/16 14:47

 ご回答になんば歩きと屋外内の照明がありました。

これを研究しているひとがおりますね。大分違うそうです。
 敗戦後の映画と今の映画では喋り方、発声のしかたが大分違いますから、時代劇の喋り方は全く現代のものでしょう。
 喋り方や発声って、関係と心理を出しますよね。そういうことから、時代劇は歴史劇ではなく、現代劇ですよね。現代人の発声と喋り方ですね。
 向島のある施設で、私たち1930年代浅草生まれの者が親しんだ発声と喋りの方がおられ、とても懐かしかった。
 幕政時代、明治などはもっと違うでしょうね。心も関係も。
 今のは現代の若者の喋り、発声ですね。目の遣いですよね。
 わたしはもう、ここ40年ほどテレビも見ませんが、居間で家族が視聴しているのを垣間見て、現代劇だと思っています。
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この回答へのお礼

有難うございました。
たしかに江戸時代の人の話し方と現代人のそれとは、かなり違う面があると思います。
残念ながら当時は録音機が存在していないので、どんな話し方をしていたのか証明できないと思います。

よく時代劇で、身分の高い女性の話し方が男性と同じように「〇〇するのであろう、致し方なかろう」と言うシーンがありますが、本当に女性がそんな話し方をしていたのか知りたいところです。

今の若い世代の話し方ですが、たとえば「んでさあ、チョーKYじゃん!」と言うのを戦前の日本人が聞いて理解できるのか気になります。

でも、逆にあと40~50年もすると、また全然違う話し方になるかも知れませんね。 どんな風になるか聞いてみたいものです。

お礼日時:2011/05/16 14:41

剣豪達が刀を抜く前兆を敵に察知されてしまいましたら、


敵に逃げられてしまう可能性が高まるでしょう。

太刀回りのシーンでは、よく敵の集団が警戒もせず、個別に主人公達の刀の下に飛び込んでいきますが、それだと特攻隊の様で奇妙ですよね。
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この回答へのお礼

有難うございました。
時代劇ではヒーローが敵の屋敷に入って行って、一人で何人もの相手を倒すシーンがあるのですが、どの勝負も常に1対1の戦いになっています。
考えればどんなに強い剣豪が相手でも、例えば5人くらいで周りを囲み、セーノ! という掛け声で全員同時に刀を突き刺せば勝負にならないと思います。
ま、時代劇にツッコミを入れるのはご法度かも知れませんが。

お礼日時:2011/05/16 14:34

建物が気になりますね。



江戸時代、江戸は火事が多かったため、長屋はほとんどが板ぶきだったそうです。そして瓦葺にするくらいの家なら「うだつ」があったはず。
ちなみに、京都や大阪は火事が少なかったために瓦葺が多かったそうです。

面白いのが畳や襖などの建具です。
最近でこそ大手ハウスメーカーが主流ですので、全国的に統一されていますが、昔は江戸、京都、大阪は完全にサイズが違ったそうです。部屋の四隅の柱から柱でサイズは決まるわけですが、柱の外側で、中心で、内側で、と測り方が違ったそうです。
蛇足ですが、京都や大阪は厳密にサイズを測っているために引っ越しの際には建具まで取り外して引っ越したそうです。一方、江戸は火事が多くほとんど損料屋と呼ばれるレンタルで済ませていたため、建具は付いていることが多かったそうです。


もうひとつは着物の着方と髪型ですね。
江戸初期は日本髪を結っていません。小袖ですので「おはしょり」もありませんし、今の小紋のようなプリント柄ではありません。帯は細い紐に近いものでした。
中期以降に髪を結うのが一般的になってくると、髪型で未婚既婚の別や、職業が分かるほど細かく分かれていったそうです。
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この回答へのお礼

有難うございました。
えっ、江戸時代中期以前の女性は日本髪を結っていなかったのですか。
ではどんなヘアスタイルだったのでしょうか?
ちょっと気になってしまいました。

お礼日時:2011/05/16 14:29

洋の東西を問わず夜は暗かった。


しかし、時代劇ではカメラのために照明しちゃってるから夜の場面でも明るい。

どのくらい暗かったかって? 月明かりが「明るい」と思えるほど暗かったんよ。

イリオモテヤマネコの生態を撮影した超高感度暗視カメラで撮影すれば、夜間の場面も撮影できると思うのだが、画面がザラザラになるのを嫌ってんのかね。
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この回答へのお礼

有難うございました。
夜の町は途轍もなく暗かったのですね。
映画では、たとえば吉原を歩くシーンがありますが、今のように足元も明るいです。
当時は灯篭か提灯しか無かったわけですから、本当に真っ暗だったのでしょうね。
でも、そんなところで夜中にトイレに行く時は怖かったでしょうね。

お礼日時:2011/05/16 14:26

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