プロが教えるわが家の防犯対策術!

大学教授の経歴などを見ると、

博士課程、単位取得中退??とかいう表現のものがありますが、博士課程は単位を一通りとれば卒業しなくてもいい、というものなんでしょうか?

また、単位取得うんちゃらがあるということは、論文一発で博士課程卒業と認められるということもあるんでしょうか?

博士課程の卒業の仕方で、何か身分的な違いというものはありますでしょうか??

A 回答 (15件中1~10件)

ソースを思い出した



「現代の大学のモデルは、イギリスモデル・ドイツモデル・アメリカモデル・日本モデルじゃないかと思う。
これは、私が勝手に今思いつただけですが。」
http://orfeon.blog80.fc2.com/blog-entry-14.html
ここに 世界の大学危機という書籍のまとめがあります。これを読んだ記憶です。
フランスモデルというのが抜けていた。
フランスは、大学とは別に高等教育システムを創っている。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

参照URLを拝見しました。
とても面白かったです。
何よりも、競争がない環境は質が低下するということはどこでも同じなんだな、と感じました。
共産主義の質低下もこういったところに垣間見える気もしました。。

というより、日本は競争環境だけでいえばそこそこあるっぽいなぁ

お礼日時:2011/06/21 09:07

教授生成工場だったんですね。



これは、二つの意味で正しい考えだなぁと得心しました。

現代の大学のモデルは、イギリスモデル・ドイツモデル・アメリカモデル・日本モデルじゃないかと思う。
これは、私が勝手に今思いつただけですが。

イギリスモデルというのは、ケンブリッジ・オックスフォードが典型で、中世のギルドの教育版です。
後継者の育成が主目的ですので、「教授生成工場」といいう表現も可。教育ギルドである各カレッジが再生産していく場が大学となっております。
ドイツモデルは、イギリスにキャッチアップするために「教育と研究」をコンバインするという物。
アメリカモデルは、後発国として大学生のレベルが低かったので、「ごめん、大学院も作ります」というモデル。
日本モデルというのは、発展途上国が先進国にキャッチアップするモデルです。世界で最初に工学部を作ったのが実は日本だったりするのは、キャッチアップのために何が必要かを考えた結果です。で、海外からのお雇い外国人をいち早く日本人に差し替えるというのが、明治政府の方針だったので、日本の大学の最初の目標の一つが「日本人教授生成」となっておりました。
イギリスモデルと日本モデルの意味で大学は「教授生成工場」です。

博士号は、教授生成の副産物なんです。

グローバルスタンダードではありませんが、欧米はわりと博士号を濫発します。ニューヨークでは博士号を持ったタクシー運転手がいるなんて話がありましたが、まぁその程度に濫発。

しかし、欧米の経営者や官僚が普通に博士号を持っているのに対して、日本では取得者が少なく「日本の官僚は世界一学歴が低い、学部卒しかいないから」という揶揄もあります。

文科省としては、まぁグローバルスタンダードにしたいわけでしょうが、大学側は「教授生成工場」の副産物とか理解(理解できてもも実感)できないので、オーバードクター問題が生じます。
ドクターを企業が採用しないという問題もありますが、アカデミックポストが増えないという需要と供給の問題もあります。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

>ごめん、大学院も作ります
笑ってしまいました。。。

明治時代とは教育体系も全然違うのに、いまだに当時の感覚が残っているとしたら、
いい風にとらえたら学問の独立は守られていたということ
悪い風にとらえたら悪しき風習が抜けきらないということ
でしょうか。

結局のところはドクターを持っていても結局それをもって何をしたか、が重要ということですね。
タクシー博士なんてちょっと粋な気もしますが結局何がしたかったんでしょうね。。。仕事をするのが嫌だったのか、目的無く単純に勉強が好きだったのか、それともちょっと頭がおかしいのか。。。いい意味で

お礼日時:2011/06/21 03:16

> 何やら博士課程の意義がよくわからなくなりましたよ。

。。

その疑問は良く判ります。

文科省の役人の保身的なかっこつけの思いつき政策や直ぐに役に立たない研究をしている大学教員の給料のため、博士課程の意義を強くしているだけと思っています。

少子化のため大学生が減り、中国の台頭で相対的な日本の技術力低下が叫ばれると、博士課程で高等教育を受ける人を増やせば技術力が上がると勝手な論理を展開する文科省の役人があり、また社会人を博士課程に呼び戻せば学生が増え、学校収入が増えるという打算的な考えのもと論文博士が廃止され博士課程の学生を増やそうとしているのです。

昔、博士号取得者の就職口を用意せず、博士倍増計画を打ちたて、多くのプータロー・フリーター博士を倍増させ反省したはずなのに、また同じような過ちを繰り返そうとしているのです。

博士課程は時代ごとに上手く利用されるところなのでしょう。

大学で世界最先端の研究もできますが、企業でも世界最先端の製品開発はできます。技術者としての醍醐味が少し違うかもしれませんが、製品を世に出して、新聞で、世界一とか世界初、世界最高性能とか、大きな見出しが踊るとこの上もない喜びが湧き上がってきますし、今の開発も成功させるぞと奮い立つことにもなります。

学会でいくら良い賞を幾つもらっても企業人が大学の教授と論文の優劣で競う人は居ないでしょう。

企業人がドクターを取りたい理由の1つとして、自分のやってきた専門を論文という形で整理して、少しだけ世に認めてもらいたいという気持ちがあると思います。そういう人向けなら、博士課程の門戸が広がっているのは良いことかなと思います。



昔は博士号がなくても教授になれる大学がありましたし、博士課程に行かなくても論文が認められれば博士になれました。そして共に優秀な人がいて、また正規の博士号という称号では優劣は無いということです。ただなにかにつけて区別や差別をしたがる人がいるというだけです。
    • good
    • 1
この回答へのお礼

>昔、博士号取得者の就職口を用意せず、博士倍増計画を打ちたて、多くのプータロー・フリーター博士を倍増させ反省したはずなのに、また同じような過ちを繰り返そうとしているのです。

これって昔どころか今も、じゃなかったでしたっけ。
実際に博士課程を出ても就職先が決まらない人が急増、なんて新聞記事を読んだことがあります。
というより逆に専門性が高すぎて扱いづらいから、企業としてはせめて修士くらいでいいって思うようなことも書いてありました。

博士課程って単なる名誉と賞状をもらうためみたいな。。。

>ただなにかにつけて区別や差別をしたがる人がいるというだけです。
そういうことなんでしょうね。。
今の大学レベルからいえば、学士と修士の差は大きく、修士と博士の差は大したことないことも多いって感じでしょうかね。

お礼日時:2011/06/21 00:13

何やら博士課程の意義がよくわからなくなりましたよ。

。。

制度史的に言えば「教授を作る」というのが「主」で「博士号を授与される」というのは「従」です。

岸の前に岸なし、岸の後に岸なし
※ だいたい東大の法学部で伝説的に成績の良かった人間には、上記のような言い伝えがあるが。
その岸信介と成績を競ったのが、我妻栄大先生。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%91%E5%A6%BB% …


1920年:東京帝国大学法学部法律学科卒業
1922年:東京帝国大学法学部助教授
1927年:東京帝国大学教授
1957年:東京大学名誉教授(定年退官)
1961年:法学博士(東京大学)

たぶんWIKIPEDIAでは1920年助手になるというのが抜けていいる。伝説の四行教授ですが、法学博士になったのは、定年退官したあとのようです。

No10の方の

「東大は教授全員が博士である珍しい大学」

というのも、「東大の教授になるには(他の大学では不要な)博士号が必要なのだ」という事ではなく、「東大の教授は、博士号を授与する方の人間だから、博士号を持っておくようにしよう」(という学科の方針である)というように、かなりひねって読み込まないと誤解すると思う。

というのは、私のでた学科では私立大学の教授が博士号を取りに来て(論文博士ね)落とされたものだから、自分から身を落として自殺するという事件も起こっています。ではその博士論文を落とした教授たちが全員博士号を持っているかというと、そうでもない。
博士号を持っていない教授もおりまして、大学に残って教授をしている友人から聞いた説明が
「○○先生、博士号を持っていないこと、知っていた?○○先生の業績を評価して博士号を与えるような能力の人がいないからなんだって」
というもの。名誉教授になっても、いまだに博士号を取る気はないみたいだ。

制度史的に言えば「教授を作る」というのが「主」で「博士号を授与される」というのは「従」です。

と書いたのは、最近は、博士号を持たせてやれよ、世界的にそうなっているから。
というのが文部科学省の方針でして、No3以下の、文科省ボランティア広報官の書いてあるとおりです。
んで、最近は社会人博士課程というシロモノも出てきまして、ドンドン大量生産です。
私も友人に「修士号を持っていれば簡単だよ」と言われました。
私でもなれる、クソ博士というやつです。
博士号認定は教授会で行いますが、相当にひどくない限り「指導教員が言うなら否定しません」という事だそうです。


===話は戻って
「博士課程の卒業の仕方で、何か身分的な違いというものはありますでしょうか??」
例えば
http://jrecin.jst.go.jp/seek/SeekJorDetail?fn=1& …
応募資格は
(1)博士の学位を持つか、これに相当する学力・業績があり、
博士課程前期後期の授業が担当できる者。

http://jrecin.jst.go.jp/seek/SeekJorDetail?fn=1& …
博士またはPh. Dの学位を有する方。国籍は問わない。


人文系などは、博士あるいは同等というような応募資格。
工学などでは「有する方」というようにしているのは、それぞれの研究分野で、博士授与に関する「文化」が違うからです。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

>制度史的に言えば「教授を作る」というのが「主」で「博士号を授与される」というのは「従」です
なるほどなるほど。。全く勘違いしてました。
博士課程というくらいですから、当然博士号取得が前提だと思ってましたよ。。。

教授生成工場だったんですね。。

理系文系で、学部学科でニュアンスが違うのもびっくりです。
将来司法試験も同じような道をたどって粗悪な弁護士とかでてくるんですかね。。余談ですが。

結局は博士課程に行くレベルの人間になるとよほどの人間以外は大差ないって印象を受けました。

お礼日時:2011/06/21 00:08

修士課程修了の私が書くのは烏滸がましいですが。



大学教授(ないし准教授)という職と学歴という事で書けば。

学部や学科でいろいろなのよ。
としか書きようがない。
そして、学会という狭い世界だと、公式な肩書きよりも学術論文で評価されれば、それでOK。

東大で言うと、法学部は四行教授の伝説があります。
http://www.j.u-tokyo.ac.jp/about/professors/prof …
たとえばこのかたなどが典型。大学から大学院に所属組織が変わったので、五行になっているのはご愛嬌かな。
学部をでると、即、助手採用となり、給料をもらって助手論文の作成のみを行います。
めでたく助手論文が評価されれば、助教授となります。
博士号を持っているかどうかは不明ですが、「博士号を与える立場」というお偉い方です。
※ 東大の法学部の場合、憲法とかいわゆる六法関係の法律の根幹に関与する先生がこのケースが多い。保守本流です。

文学部だと、戦前においては「我が研究生活の掉尾を飾る大論文が博士論文である」として、退官直前に博士論文を出す人もいたそうだ。その伝統のためか、東大の文学部は博士号を持たない教授が結構いる。

経済学部は、「アメリカに行ってPhD取ってこい」というのが伝統らしく、日本の博士号を持っている人のほうが少ない。
http://www.e.u-tokyo.ac.jp/fservice/faculty/kuni …
こんな感じ。
※ 今見たら、東大経済学部出身少数派なのか?
※ 一橋のほうがちゃんと博士教育しているなんて記事を読んだのだが、ほんとだなぁ。

工学部だと、普通に博士課程三年で博士号を取るというのがオーソドックス。

理学部だと、学科による違いがあるみたい。
駒場時代の友人の一人は、博士課程二年の途中で助手になっている。もう一人は博士課程の一年の途中で助手になっている。博士号は一人は修士修了の丸三年後、一人は修士課程が修了してから丸五年半後にとっている。
「理学部は、博士途中で、給料がもらえる助手になるというルートがあるのか?」
と、聞いたが「ニヤリ」としか返答されなかった。
この二人は、課程博士でなくて論文博士ということになるだろうが、授業料をはらわせないで助手の給料を払いますという人だから、課程博士だ 論文博士だというのは関係ない世界だなぁ。
要は、実績が凄いらしい。COEやっていたりERATOだったりするから。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

これまた面白い話をありがとうございます。

>東大で言うと、法学部は四行教授の伝説があります。
つまり、優秀な人間は間隔をあけずにとんとん出世していけってことでしょうかね。。

博士課程の途中で助手になるっていうことは博士課程を中途退学しているわけですよね。
それほど優秀な人間ということでしょうか?
それともその人が研究している内容があまりに素晴らしいということでしょうか??

何やら博士課程の意義がよくわからなくなりましたよ。。。

お礼日時:2011/06/20 14:12

今は多様性が売りになってきたので変わりましたが、我々が大学に居た頃は、


「東大は教授全員が博士である珍しい大学」
と言うのが売りでした。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

>東大は教授全員が博士である珍しい大学
・・それが当たり前だと思っていたのですが違うんですね!
博士にならなくても教授になれると。。。
じゃ、博士ってなんなんでしょうね。教授ってなんなんでしょうね。

お礼日時:2011/06/20 14:07

大学による、というのと、私は理学系の今年か分からないという前提で。



> 単位取得で世に出た場合、これは修士扱いになるということでしょうか?

いいえ。いきなり博士課程に進んだ場合、修士扱いではなく、博士課程を学んだ人、です。
これが就職には不利なので、修士課程を卒業してから、博士課程に入る人もいます。その場合、博士課程は修士課程の年数分短縮されます。


> この場合、博士課程を学んでいないことが何かデメリットになることはありませんか??

研究においては、教授や研究室とのつながりが弱いという面で、博士論文を取る上での弱みになります。取った上では、基本的に差はありません。
ただ、理系の場合、紙だけで学士論文を取った人(実験を経験していない)は、差別されることも多いです。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

>いきなり博士課程に進んだ場合、修士扱いではなく、博士課程を学んだ人、です。
つまり修士→即、博士課程へ進むと、まだ修了せず途中の状態、つまり卒業上は学士、ということでしょうか?

>理系の場合、紙だけで学士論文を取った人(実験を経験していない)は、差別されることも多いです。
数学の人間は低いってことなんでしょうかね、、

お礼日時:2011/06/20 14:06

だんだん腹も立ってきたので(爆),さらに加筆。



>などなど。+

「課程のくそドクター」を粗製濫造する手段は,いろいろあります。大学院定員拡充の実態がこれです。むろん立派な業績の課程博士も多いですよ。

だから,「くそドクター」さえとれなかったとすれば,ほとんど○○とみなされても仕方がない時代でしょうね。思い立って論文博士をとる人には,学歴上は「くそドクター」以下とみなされることに激怒した人もいるでしょう。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

>思い立って論文博士をとる人には,学歴上は「くそドクター」以下とみなされることに
あ、そうか、論文博士の学歴上は学士または修士までなんですよね。。

課程博士の中でも粗悪な博士より学歴上、下にみられるなんて嫌でしょうね。

お礼日時:2011/06/20 14:01

> この場合、博士課程を学んでいないことが何かデメリットになることはありませんか??



論文博士で課程博士に対してデメリットはありません。

> 学問的に低いハードルで合格できるということです。

課程博士の規定の年数3年で、基準の論文数の例えば3本(passersby2さんの場合は5本らしいですが)に満たなかった場合、+何年まで、その本数で博士論文の審査を受けられるという意味です。3年って短いですよ。学会の論文審査って短期間でやってくれないので、落ちたら指摘に従って修正しますが、その審査もまた時間がかかる。なのでそういう救済処置があるのです。学会で論文審査する方もほぼボランティア状態なのに責務だけ負って大変ですし。

たぶん学問的に低いというのは、研究の探求度が途中課程でも、そこまでの研究成果でまとめられるという意味と思います。それはそれで大変ですので、博士号の優劣にはなりません。

どんな研究だろうと終わりはなく途中経過になります。新製品開発見れば判りますよね。次々と新しい技術や機能が搭載されてくる。つまり、博士号取得後に出す論文など研究開発の実績を積み上げる方が大変なのです。


> 課程博士<論文博士

論文って学術的な新規性があるかどうかを人に認めてもらうのですから、こういう方程式は成り立たず、”=”か”?”で、その人の研究実績が第一だとと思います。

> 50歳くらいかな?どんな功績があるかわからないような大学教授でしたので気になって。。

その先生が博士号がなくても教授になっているということは、その先生の学術的な貢献度をその大学として認めているのです。博士号はそういう判断の1つになるでしょうが、必須条件ではないということです。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ほかの方の意見をみると、学歴上は課程博士>論文博士になることが多いみたいですね。

実際は論文自体の優劣だから単純比較はできないよってことでしょうか。
同じ数学者でも、世界的に有名な人と、論文をほとんど書かない人では天地の差でしょうね。

>博士号はそういう判断の1つになるでしょうが、必須条件ではないということです。
しりませんでした、、博士号は教授になるために必須だと思ってましたから。。

お礼日時:2011/06/20 14:04

補足。



>公刊論文が3本以上あること

いま,3年でドクターがとれないと指導教員の指導が悪いとか,大学院の体制・実績が悪いなどと非難されますので,「水準には目をつぶっても博士をだしたい」という雰囲気が蔓延しているでしょう。学位請求論文(合格したら博士論文)を提出する条件にも,前述した「3本目が投稿中でも可」といういがいの緩和策はあります。ファースト・ペーパーから「論文といえば単著の査読論文」を常識としてきたぼく(文系でも単著が当然)からみると,笑っちゃいますけすけどね。

・研究室の連名で書き,指導教員や先輩の実験の手伝いをしただけでも1本にカウントする。共著者が指導教員であれば,いわば自分で自分の論文を審査することになりますから,不思議なはなしです。だから,「3本のうち1本は筆頭著者(または責任著者)であること」と,注記で釘をさされるでしょう。

・査読論文でなくても1本とカウントする。したがって,これについても「3本のうち1本は査読論文であること」と釘をさされることもあるはずです。

・同人誌まがいの学術雑誌に投稿して1本とカウントする。大学自身でも「大学院生にも投稿資格がある大学紀要」をつくって,内部のお手盛り審査で論文を掲載して1本とする。

・学会の口頭発表の概要をまとめた,数ページの「要旨」でも1本とカウントする。

などなど。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

なんか、高校みたいですね。

高校に入っちゃえばあとはそこそこやってれば(最悪、赤点をとっても)お情けでも卒業をさせてくれる。
高卒認定の人は必死に勉強して一個ずつ科目を合格する必要がある。

卒業ありき、の世界なのは残念ですが、博士号を持っていて実力がない人間はそのあと苦労しそうだから結果的に優秀な人間だけが残るんでしょうね。

お礼日時:2011/06/20 14:00

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!