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高校の世界史資料集でインドの各王朝の勢力図を見てから抱いている疑問があります。
マウリヤ朝、トゥグルク朝、ムガル朝など、インド亜大陸のほぼ全域を一時的にしろ支配した王朝の版図がいずれもインド南端部に達していないのはなぜなのでしょうか?

地形を見てもデカン高原を支配下に治めるだけの力があればあとはそのまま南端部まで征服、統治下に置けそうな印象を受けるのですが。

A 回答 (2件)

インド南部は、北部とは、異なる人種、民族になります。


言葉も、考え方も全く異なる外国といってもよいほどです。
また、インド南部は、アラブや東南アジアとの交易を積極的に行っており、経済的にも豊かてで、文化的にも比較的高い地域でした。
また、インド南部は、半島になっているため、海軍がなければ、なかなか攻略することが難しい地域です。(地政学の常識)
インド北部では、海軍など必要ないため、海軍力の無い北インドでは、南部の制圧は、困難でした。
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インド南端を制圧する前に「内憂外患」によって国が滅びました。


特に統治に問題があったようで、デカン高原を平穏に完全に支配する事には失敗しています。

「マウリヤ朝」・・・紀元前317年頃に興ったマウリヤ朝は、紀元前261年にカリンガ国を征服したまではよかったのですが、なかなか国を平穏に保っておくのは難しかったらしく、反乱も起きたようです。結局、紀元前230年頃ぐらいに、デカン高原にアンドラ朝という国が興り、マウリヤ朝に抵抗するほどになりました。
外敵としてはセレコウス朝のインド侵入などがあり、結局、内部と外部の問題からインド南端を征服するまでには至りませんでした。

「トゥグルク朝」・・・1320年に成立したトゥグルク朝ですが、反乱が相次ぎ、1336年には早くもヴィジャヤナガル朝が興り、1347年にはデカン高原でバフマニー朝が興っています。つまりデカン高原を30年以下しか支配できていません。
トゥグルク朝はイスラム王朝でしたが、デカン高原の民はヒンドゥー教が多かったので、宗教面からも対立があった模様です。
しかも1380年頃からはティムール王国がインドに侵入を開始します。それなのにトゥグルク王朝では1388年に王位継承争いが発生しています。結局、その隙に地方がで独立していき、インド南端を征服する前に国は分裂滅びました。

「ムガル帝国」・・・ムガル帝国は1619年にはビシャプール王国、ビタール王国を滅ぼしインド南端に近づきます。
しかし、デカン高原などでは幾たびも反乱が起き、その鎮圧を余儀なくされています。しかも王位争いなどもあり1627年にはムガール継承戦争が起きています。
その上、隣国のサファヴィー朝がカンダハルを奪うなどしています。これは後に奪回しますが、この頃からデカン高原での独立運動が激しさを増していきます。
この頃のムガル帝国皇帝アウラトグゼーブはイスラム教徒で、異教徒に対してかなり厳しい宗教・統治政策を行っていました。そのため、ヒンドゥー教徒の多いデカン高原の民は激しく抵抗した模様です。シヴァージという人物がデカン高原の民をまとめマラータ同盟を結成しムガル帝国に対抗しました。
結局、ムガル帝国はインド南端まで征服するには至らず衰退していきます。

このように、どの王朝も外敵との争いや、内乱が発生し国力を疲弊させています。
しかも、結局、どの王朝もデカン高原を支配し国力を増大させるどころか、逆に統治に失敗し反乱され、国力を削がれる結果となっています。
デカン高原を完全に支配できなかったものですから、その先のインド南端も征服できない結果となりました。
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