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ソクラテスの無知の知についてです。
高校の倫理でソクラテスのことを学び、
その中でソクラテスの思想に「無知の知」というものがありました。

ソクラテスは、
「あなたは自分の無知を知らないが、私は自分の無知を知っている(=無知の知)」
と習いました。

しかしここで思うのが、
ソクラテスは自分が無知であると言うことを知っていると言いましたが、
これを同じく返されたらどうなるのでしょうか?

ソクラテスは無知について知っているとは言えないのではないでしょうか?
ソクラテスに対して、
「あなたは実は無知であることを知らない」
と返した場合無知の知は無くなってしまうのでないでしょうか?

A 回答 (7件)

有名な『ソクラテスの弁明』に出てくる「無知の知」ですね。




おそらく、本来の意味とは少し異なった意味を教えられたのではないのかと思います。

無知の知はソクラテスの哲学を表す重要な言葉で一文節を取り出して、そこだけで解釈すると誤解が生じてしまうので『弁明』の全体を見て解釈するのが大事だと思います。

お粗末ですが、軽く無知の知に至るまでを説明しますね。


ソクラテスは神からある言葉を授かります。その言葉とは
「ソクラテスより知者はいない」
というものです。

ソクラテスは考えます。
俺が一番賢いわけがない。


ソクラテスは、この神の言葉は間違いであることを証明しようと試み、自分より知者であると思われる、評判高い人々を訪れるわけです。その人達の職業は詩人であったり大工であったり様々です。


ソクラテスは彼らが自分よりも知者であることを期待して訪ねたのですが、話をしてみるとどうも勝手がちがいました。


といのも、彼らは確かに専門的な知識はソクラテスよりも優れていました。しかしそれに奢って
「徳であったり、本当に善いものに関する知識」
を持っていないにも関わらず知ったかぶりをして話をしていたのです。


その一方で自分は、徳とか善きものについて知らないということを自覚している。
その点で彼らよりも自分は賢い。
ソクラテスはそう考えました。


ここでソクラテスに初めて「無知の知」が自覚されます。


「無知の知」は「不知の知」とも表記されていて、私は後者の方がしっくりきます。

といのも、
「知っているものが何も無い」
という状態ではなく
「知らない(不知)ということを知っている」


と解釈しているからです。

ですから、質問者さんが問うように
「ソクラテス、あなたは無知(不知)を知らない」
と言われれば、きっとソクラテスは
「いや知っている、自分は善とか徳については何も知らないことを知って(自覚して)いるよ」
と答えると思います。


付け加えるなら
「ぜひ教えてくれないか、君も知らないならば一緒に探求しようではないか」
とも言いそうです(笑)



気になるようでしたらぜひ『ソクラテスの弁明』を実際に読んでみてください。文量は多くないので気軽に読むことができると思いますよ。


長文失礼しましたm(__)m
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他の回答者様も書いているように、ソクラテス自身は「無知の知」などという言葉は使っていません。

倫理の教科書を書いた人が、勝手にそういう要約をしただけのことです。

ソクラテスが言ったのは、”俺は、自分を賢いと思っている人や、世間が「あの人は賢い」と評しているしている人々を訪ねて会話をしてみたんだけど、どうもそういう人たちは、よく知りもしないことについても知っていると思い込んでいるだけだったなあ。少なくとも、自分は、そういう思い込みはしていない”ということにすぎません。

ソクラテスが、「俺は、無知の知だ!」などと言って威張ったわけではありません。(そんな人がいたら、みんなが「こいつ馬鹿だな」と思うだけのことです。)まあ、これも私の要約にすぎないので、ご自分で『ソクラテスの弁明』を読んでみるとよいいと思います。

あなたの質問に正面から答えていないので、申し訳ないのですが、私が察するに、あなたは、「無知の知って、そんなにすごいの?意味あるの?」という疑問を感じた、ということなのではないかと思います。その感性はまったく正しいです。教科書のその部分は、わたしも出鱈目だと思います。でも、教科書なんて(というか、誰かが他人の言葉を勝手にまとめた場合なんて)、そんなものです。大事なのは、「この人はこうまとめてるけど、正確にはどうなのかな」と調べることです。この場合、文庫本でその部分を探してみればよいだけなので、簡単です。

(といっても、じゃあなぜ、倫理の教科書が「無知の知」などという強引なまとめをすることになっちゃたのか、という経緯を推察するとなると、なかなか込み入っています。私の予想では、「ソクラテスは誰よりも賢い」と神託(神様のお告げ)があった、というのがそもそも話の発端だったから、「ソクラテスのどこが賢いんだ?そうか…知らないってことを知ってる、この点だろ!→無知の知!」と要約したのだと思います。でも『ソクラテスの弁明』をよく読むと、どうもそうじゃないと思う。ソクラテスは、とりわけ神を敬う人間だった(そもそも、ダイモンと呼ばれる、下級の神のような、妖怪の声みたいなものに憑き纏われていた)から、「人間の知識なんて、神様とくらべれば、無に等しい」とよく知っていた。その点が、神様から、「よしよし、ソクラテスはわかってるな、でもほかの人間は思い上がりすぎ!」という趣旨で、「ソクラテスは誰よりも賢い」というお褒めの言葉をかけた、それがくだんの神託だったのではないか。まあこのへんは私の読みにすぎません。推理小説みたいで面白いですよ。)
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この言葉は『心の在り方』を説いています。

人間の意識(心)が何によって導かれているのか?と云う事です。科学的な文献を載せておきます。

ウイキペデアからです。


”ロジャースペリー 分離脳
ノーベル賞受賞者
受賞年:1981年
受賞部門:ノーベル生理学・医学賞
受賞理由:大脳半球の機能分化に関する研究

ノーベル賞の受賞理由となった業績として分離脳研究がある。てんかん治療の目的で半球間の信号伝達を行っている脳梁を切断した患者に、片方の脳半球に依存することが知られている作業を行ってもらい、二つの脳半球が 『それぞれ独立した意識』 を持っていることを実証した。”

右脳の意識(人格)は仏教においては『仏性』キリスト教においては『神』と言う名前で呼ばれています。今風に言うなら『命そのものを働かせている者』と言う言い方も出来ます。その意味は、『身体的な命も、精神的な命も、行動学的な命も』全て握っていると言う意味です。

その事を日本では『禅』或いは禅問答が答えています。ソクラテスが言うところの『汝自身を知れ』と云う事と、『禅問答を解いた事』は一つの事実として、その人本人の脳内では確認できている事実があります。

右脳の人格が書かせた言葉が『禅問答』だからです。左脳に存在する自我意識が如何いう風に努力をしたところで、右脳の意識に出会う事は難しそうです。

左脳の意識が『出来ない』と言う判断を下した場合、『右脳の意識が出てきて全ての問題の処理をしてくれます。』是が『魂の救いです。』

禅において『生死の問題が解決した事』を意味します。キリスト教においては『神に会う』事を意味します。

右脳の意識を体験している人の動画が在りますので参考にして下さい。悟ると云う事は『右脳の人格と左脳の人格とが手を繋ぐ』と言う意味があります。脳科学で説明するなら、二つの脳を繋いでいる脳梁の中にホットラインという回路構成が成立した事を意味します。

その回路構成は一度繋がった場合、終生切れる事がありません。その意味は『知識としてではなくて、体得できた事を意味するからです。』その心境が仏教では涅槃と表現されています。

キリスト教では『神の僕となる』と表現されています。その心境(境涯)は心の中で争いがなくなるという意味です。心の中はいつも『穏やかで静まり返っている。』と言う意味です。

心の矛盾を人間は苦しんでいると言う意味になります。

URL:

尚補足として答えておく事があるなら、NO5さんの『「無知の知」は「不知の知」とも表記されていて、私は後者の方がしっくりきます。』と云う言葉の方があっていると感じます。
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ソクラテスに対して私たちが「あなたは自分の無知を知らないが、私は自分の無知を知っている」と言い返したからといって、それだけでは私たちの発言が真であることは保証されないと思います。

なので、仮にソクラテスが無知の知を持っているのだとすれば、私たちがそう言うことによって、ソクラテスの無知の知がなくなってしまうとは考えにくいのですが。

それと文献上のことをいえば、「無知の知」というのは後世の人がそういう表現をよく使うだけで、プラトンの対話篇に登場するソクラテスは、「知らないと思っている」と言っていて、「知らないと知っている」とは言っていません。
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 こんにちは。



 既知の知は持っているが 未知ないし無知の知は 持っていないか それとも持っていてもあまりそれを認めたがらない。それでは 互いの対話がすすまない。――と言おうとしているのではないですか?

 分かりやすい話としては 無知であるのに知っているふりをして そのまま話をすすめていく場合です。

 なんぢみづからを知れという指針ではないでしょうか。
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その通り。



>「あなたは自分の無知を知らないが、私は自分の無知を知っている」


 「あなた」が真に無知であるか否か「私」は知り得ないのです。

 「私」が自分の無知を真に知っているなら、「あなたは自分の無知を知らない」とは言えない。
 「私」が自分の無知を知らないからこそ、「あなたは自分の無知を知らない」と推定で言葉にする。
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1つ確かなのは、世の大衆は基本的に中庸の知識で


充分なので、ちょっと学んだだけで周りより突出して
感じられ、天狗になりがちだという事。
そうした現象において、「大して知っちゃいない」という
自覚を持って、探究心を抱き続ける事は難しく、また
重要な事なのだ。
(まさか「無知」だからといって、何も知らないと言って
いるのではありません。それじゃ言葉もじゃべれない)
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