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江戸時代以前の江戸とはどのような所だったのでしょうか?

歴史に殆ど登場しないので、太田道灌が江戸城を築城したことくらいしか知りません。

徳川家康は当時無名だった江戸をなぜ選んだのでしょうか?

A 回答 (3件)

 もともと江戸は、寂しい漁村に過ぎず、江戸という地名も「入江の門戸」の村を意味していました。



 鎌倉時代に江戸氏がこの地と関わりを持ちましたが、とくに長禄元年(1457)に上杉氏の家宰太田道灌が江戸城を築いてから城下町が出来ました。

 その江戸城は、戦国時代には小田原の北条氏の一支城となり、遠山氏が上代を務めて支配していました。

 家康が天正18年(1590)に江戸に入府した頃は、「町屋なども、かや葺きの家百ばかりもあるかなし」で、「城も形ばかりに、城のようにこれもなく」というありさまだったということです。 

 なお、徳川家康が江戸を選んだのではなく、豊臣秀吉から領地替えを命じられ、苦渋の思いをしながら江戸に入府したのです。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

豊臣秀吉が家康に命令したんですか、知りませんでした。

お礼日時:2004/01/19 00:15

かつての東京は武蔵野台地-低湿地-海だけの土地だったそうです。



特に今の「都心部」(江戸中心部)は
高輪・赤坂・上野・本郷・麻布・湯島などの細かい台地と
それらの間を隔てる川とも海とも泥ともつかぬ湿地しか無かったそうです。

湿地というのは今の私たちでは想像もつきませんが、
常にジメジメしていて..
足を踏み入れれば足元の地面からじわーと水が染み出してくるような..
腰を下ろせばおしりが濡れるような..
夏場は湿気で立っているだけで病気になりそうな..
葦という背丈よりも高い草がただただ広がっているだけの
薮蚊だらけの土地だと言うことです。

また、今のJR大井町-品川-新橋-東京駅あたりは湿地どころか「海」でした。

要するに、にんげんの住める土地はそこには無かったのです。

徳川家康は秀吉より関東を与えられ、まず始めたことは土地改良でした。
湿地には川や運河を掘って水が海に流れやすいようにし、
樹を伐り、草を刈り、根を掘り出し、土を盛りました。
遠浅の海を利用して新たに海を埋め立てたりもしました。
大変な努力だったと想像できます。

江戸時代に入ってようやく都市として体裁が整うようになってきたのですが、
それでも
渋谷には文字通り目黒川が作った「谷」があり、
六本木ヒルズのある狸穴は「狸の巣のありそうな草っ原」で、
赤坂のそばの溜池山王には本当に大きな「溜池」があったそうです。

なんか「~だそうです」ばかりで恐縮ですが、まぁ当時の江戸は誰も
住みたがらない最悪の土地ではあったようですね。
秀吉が嫌がらせに利用したのも肯ける気がします。
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この回答へのお礼

ありがとうございます

お礼日時:2004/01/19 00:18

安土桃山時代(織豊時代)前期


徳川家康は、駿河・遠江・三河
以上三国を領していました。

その後、豊臣秀吉の小田原征伐により
北条氏が滅びました。

その論功行賞の名のもとに、家康に
北条氏の旧領である関八州を与えると言いました。
褒美であると言われれば、辞退する事も
かなわず、不承不承先祖伝来の土地から移った
のでありました。
当時の江戸は、♯1さんの言われる通りでした。

秀吉としては、家康は実力者であり危険で
あったので、中央から遠ざけ、自家の安泰を
図ったつもりだったのですが・・・。

「災い転じて福と為す」
後の結果は、歴史が示す通りです。
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この回答へのお礼

ありがとうございます

お礼日時:2004/01/19 00:16

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