プロが教えるわが家の防犯対策術!

筆文字を教えています。(遊書などども、言われ、教育書道より、個性を重視した書です。)

  生徒を増やしたいのですが、筆文字がどうしても、
必要なひとというのはいるのか?どんな人か?教えてください。

A 回答 (3件)

私は、学校の書道の教員免許だけもっています。


幼い頃から、書が大好きで、やはり遊書は好きになれません。

特に、
地方へ行けば行くほど、
遊書というインチキにダマされている人が多い点に腹が立ちます。

へたくそ以外の、何ものでもない字とはいえない模様を書いて、
まったく資格も経験もない詐欺師が、自分を「先生」と呼ばせ、
いろいろな物に落書きしてお金をとるなど、許されないことです。

けっこう、そういう人って、多いんですよ。
特に、都会から地方に出掛けていって、金儲けする詐欺師が多すぎます。

もしも遊書を続けていけば、そんな人達と、どんどん知り合って、
その仲間のように思われてしうので、自分のためにならず、損をします。

つきつめれば、「『遊書』は、書に対する『冒涜』」です。

やはり何ごとも「基本」があって、その上に、個性や遊びが成り立つと思うんです。

書に、たずさわる者が、決して忘れてはいけないことの一つに、
書は、日本だけのものではなくて、
中国はじめ、アジア各国のものでもあるという点もあります。

人に笑われることや詐欺、あるいはそれに荷担することは、避けるのが得策かと。

そもそもデザインとして考えればいいのですが、
「書」という字が遊書に入っている点と、「筆を使う」点から、
けっして書ではないのに、知らない人が誤解しやすいのです。

特に、遊書の、もっともまずい詐欺的行為が多いのは、その体質です。

通常、書の道は、書道教室などに通い、書写からはじまって、
こつこつと鍛錬を積み重ねて、字の基本を、習得していきます。

その上で、書道の段階に進んで、古典的な臨書を学びます。

さらに、
たとえば、前衛だとか、近代詩文といった、自分の書の基本をつくる方々などもいます。

忘れてならないのは、そういった方々は、きちんと字も書けるという点です。

そして、師範の免状を頂くと、いよいよ「書の技法」を「教え」て月謝を頂く。
それが、書の世界の基本のはずです。

ところが、多くの遊書家と名乗る連中は、
正しい書を教えず、正しい字を教える技量もまったくなく、
ひどくなると片っ端から、何かに字ではないものを書きつけて、お金を取っったりします。

「価値なき物」を人に売りつけて、お金を得る、それは詐欺です。
「価値のない技術や字体を教えて、それが美しい字なのだと吹き込む」、それは詐欺です。

しかも決まって、口先だけの、弁が立つ詐欺師の場合が、少なくありません。

そして必ず、字が下手な、ダマされやすい信者の取り巻きがいます。

信者は、遊書という新興宗教を、せっせと広めてさらなる信者を増やす、それが実体です。

こういった信者は、被害者であると共に、布教しているので、加害者でもあります。


批判ばかりになってしまったので、少しだけ、補足もしておきます。

さまざまな書体とは、かけ離れていても、
やはり、個性的で、味のある書体というものは、あっていいと考えます。

さらに、書の範疇をこえてしまっている、面白い書体も、実はあっていいわけで、
ただしそれは、書ではなくて、デザインとしてなら、問題はないと思います。

つまり、絵画教室で遊書ならOKで、書道教室で遊書はNGということです。

もちろん、デザインといっても、筆を使う以上、筆を使う基本がその人にあるかどうかは、
少し書の心得がある者なら、一発で見抜いてしまいます。

そもそも、きたない筆の入れ方や使い方は、やはり、ぞっとします。
字は言葉同様に、人の心や魂が、よく表れますから。

まとめとして、
なにも遊書に限ったことでは、ありませんが、
どんなに、
ある遊書に人気が出たり、面白がられたり、それなりに有名になったところで、
いざ、楷書・行書できちんとした字を書こうとして、書くことが出来ないならば、
結局、はずかしいだけのことだと思います。

ですから、しっかりとした、筆文字の正しい基本を、
生徒さん達に、ぜひ教えていっていただきたいと願ってやみません。

そうしませんと、
あなたに師範の免状を下さった流派の方々にも、ご迷惑をおかけすることになってしまいます。

では、今後の健闘を、お祈り致します。

参考URL:http://okwave.jp/qa/q5894457.html
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 「芸術としての書道」と「教育としての習字」を切り分けて考えた方がよいのではないでしょうか。


柳田泰雲や手島右卿の書が持つ意義を学校で教えません。学校書道の立場かみれば、むしろ眉をひそめてしまう可能性もあります。
 企業でも筆耕といって筆文字を書く専門の人をおかないでもありませんが、それはごくごく限られた会社の総務などの部門です。
 遊書にいたる前の過程、楷書が行書に変化しそれが最終的に草書へと連なる一連の「崩し」とルールを教えることが生徒の個性を引き出す第一歩です。いきなり生徒の個性から入ったら出鱈目な崩し方や書き癖までも個性だとの拡大解釈にもつながりかねません。誤字をそのまま正しい文字と憶えてしまったらそれで最後です。基本は大切です。
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「どうしても必要だ」と思う方は、もうあまりいないのではないでしょうか。



身近で「書道でも習うか~」と言うような人は、たいてい悪筆の方です(私も含めて(^_^;))。
字を綺麗にしたいという思いがある人は、書道に多少なりとも興味を持つと思います(ただ、昨今は筆を使うよりもペン習字の方が実用的ということで、そちらに流れる方も多いようですが)。

「遊書」というのがどのようなものか分かりませんが、「個性を重視した」ということは芸術性に重きを置いたものということでしょうか。
書道をしたいと思う人の大半が「字を綺麗にしたい」というところから出発していることを考えると、基本をしっかり教えるということを謳い文句にした方が生徒さんは集まるような気がします。

あとは、どのような年齢層の方を対象に考えていらっしゃるかでも多少違うと思いますが、お子さん相手ということなら、「字も綺麗になって、忍耐力や芸術性も養われる」ということを謳い文句にすれば、親御さんは興味を持たれるかもしれません。

いずれにしろ、今の世の中、「筆で文字が書けなければ社会に出て肩身の狭い思いをする」ということはあり得ませんから、「必要な人」は皆無に近いと思います。

そういう「必要な人」を探すより、とにかく数打ちゃ当たる的に「必要でないと思っている人に興味を持ってもらえるように営業活動をする」という方向にしないと、生徒さんは集まらないと思います。
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