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こんばんは。

東京生まれ、東京育ちの50歳です。下町です。
私は「山の手」とはある特定の地域を指す言葉(だった?)と考えています。
でも実際「山の手」はほぼ形容詞にしか使われていません。

「山の手」のお屋敷、「山の手」のご令嬢、「山の手」のオボッチャン、等々。
この場合の「山の手」は今風に言えばセレブと置き換えても大きくは違わない。
この実際には形容詞にしか使われない「山の手」とは何処か?何処だったか?
今は無いのか?

私は漠然とは、下町から見て西の方、山手線の西南部(渋谷駅前後の辺り)、
と言うイメージを持っています。
新宿とか池袋付近ではダメ、ちょっと違う、イメージ悪い。
かと言って多摩の方まで行くとセレブ感も弱まり田舎っぽくなってしまう。(失礼)

「山」の「手」なのだから台地の裾野辺りなのか?
そうすると山手線からかなり私鉄を乗らないとならない?
やはり皇居辺りから徒歩圏(昔の人の)ぐらいか?
渋谷は谷だった訳だからその付近の高い所を指したのか?

引けばそれなりの推測(ズバリ答えがあるとは思いにくい)が紹介されているとは思います。
それではつまらないので皆さんのイメージする、 「山の手」とはココだ、を聞いてみたい。

では宜しくお願い致します。

A 回答 (5件)

PAPATIN329さん こんばんは



 「山の手」も「下町」も名前の成りたちは、今の東京ではなくて江戸~明治初期の頃の東京を指しています。つまり今の江戸川区や荒川区・墨田区の一部(下町方面)、世田谷区・板橋区等が東京と呼ばれていた地域に含まれて無かった時代の話です。

 東京を地形的に言うと武蔵野台地から0m地帯と言う事になります。0m地帯(今で言う所の中央区・江東区・台東区や墨田区の一部等)は例えば神田とか日本橋・銀座・浅草・蔵前・両国等は商業の盛んな土地でした。そして今の九段坂を境にして市ヶ谷駅方面の麹町・四谷等は江戸時代は各藩の藩邸があり、明治期は元々は武士だったお金持ちがお屋敷を持っていたお屋敷町だった訳です。そして海抜的な言い方をすれば神田等は海抜0mに近く、麹町等は海抜数10m有ります。麹町等より神田等は海抜が低いと言う意味で海抜的に下にある町つまり「下町」、神田等より麹町等は海抜的に高い位置にある(高い=「山」と例えて)と言う事で「山の手」と呼ばれていました。町的に言えば特に江戸時代~明治初期では、神田・浅草等の下町と呼ばれている地域には三井呉服店(のちの三越デパート)等の商店が立ち並び、また長屋(今で言う所のマンションでしょうか??)に庶民が多く暮らしていました。麹町・四谷等の山の手と呼ばれる地域には、江戸時代は各藩の藩邸・明治時代には江戸時代の武士から進展したお金持ちのお屋敷が多く存在して居たお屋敷町だった訳です。東京がそう言う成り立ちより出来ている関係で、「下町」は商業の町・庶民の町、「山の手」がお屋敷町・お金持ちの町と言うイメージが作られて行ったわけです。

 明治・大正・昭和と東京も発展し徐々に東京と呼ばれる地域も広がって行きます。下町方面では江戸時代は隅田川までだった東京も、荒川を超えて今で言う所の葛西・柴又地域へと広がって行きます。同様に山の手方面では昔は渋谷村・目黒村と呼ばれていた地域も東京に含まれる様になります。江戸~明治初期の頃は江戸の住人が今で言うピクニック等のリクレーションで遊びに行く観光地だった柴又等にも庶民が住む様になり、徐々に下町と呼ばれる地域が広がって行く事になります。

 ご質問の「山の手」ですけど、明治期までは麹町・四谷等のお屋敷町の事を言っていました。下町と呼ばれる地域が広がるのと同様に東京も広がり発展し渋谷・新宿(昔の内藤新宿で甲州街道の1番の宿場町)等山の手と呼ばれる地域も広がりを見せる様になります。大正時代になると今で言う田園調布の高級住宅街の基礎となる開発が今の東急グループの創始者五島慶太氏によってはじまります。元々は中堅層向けの住宅街としての開発だったのですが、何時しか高級住宅街(お屋敷町)として開発される様になって行きます。お屋敷町と言えば明治期までは麹町・四谷等の江戸時代各藩の藩邸があった地域だったのですが、高級住宅街(お屋敷町)が田園調布等武蔵野よりの東京に作られる様になり、かつてのお屋敷町のイメージよりそれらの振興高級住宅街も「山の手」と呼ばれる様になって行き、現在に至っています。

 今回の質問の回答ですが、かつては麹町・四谷近辺の下町から比べて海抜が高い所に有るお屋敷町の事を「山の手」と言っていました。時代がさがり昭和になり田園調布や渋谷の松濤等高級住宅街があちこちに出来る様になり、かつてのお屋敷町のイメージよりそれらの街も今では「山の手」と呼ばれています。現代に生きる私としては、東京の高級住宅街の事を「山の手」と言っています。でも正確には麹町・四谷等明治期のお屋敷街の事です。
 以上よりお屋敷に住む住人のイメージですから、「山の手」をセレブ的な形容詞として使ってもあながち間違えではないと思いますよ。同じ東京生まれ・東京育ちな私から見ても、田園調布や渋谷の松濤の住人はお金持ちのセレブと思いますもん。

 以上何かの参考になれば幸いです。
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この回答へのお礼

山の手がけっこう近いと言う認識を得ました。
麹町、四谷、他の回答では文京区辺りまでが山の手。
現在ではイメージ的に大分西方に寄っている感じがします。

若い頃松濤美術館に行きましたが廻りの家がすごいので驚きました。
その印象が強くてこの辺りではないかと。

いまや形容詞ですから何処か場所を特定するのも現在では無意味かもしれません。

どうもありがとうございました。

お礼日時:2012/06/26 23:10

もともとは商人の街に対して武家屋敷の並ぶ台地につながる地域を山の手と称したんじゃなかったかと思います。


今の文京区あたりです。

よく下町情緒に引き合いに出される谷中、千駄木、根津なんかは本当は山の手なんだ、と聞いた事があります。

また、隅田川を越えた千葉側、今の江東区、葛飾区、江戸川区、墨田区なんかは現在は下町と言われますが、台東区や中央区のひとに言わせるとあちらは下町じゃないそうです。

今は山の手と言われる中野や杉並、目黒なんかは明治中期あたりまでは郊外というか田舎だったようです。
そりゃそうですよね。新宿や品川なんかの宿場の先なんですから。


と、いうような事はありますが現在は下町山の手って違う意味合いがありますよね。

そんなわけで、私は下町と山の手の区別は駄菓子屋にもんじゃ焼きがあったか否かで区別すれば良いと思います。
あれ、東京の名物みたいに言われますけど、昭和の時代には山手線の西側にはなかったんですよ。
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この回答へのお礼

谷中、千駄木、根津は下町ですよね、扱われ方が。
だからだいぶ昔の示していた所と変わって来てますね。
だいぶ西に寄った感じがしますね。

どうもありがとうございました。

お礼日時:2012/06/19 19:55

武蔵野台地の端っこが低地と接するあたりになります。



具体的には、南から久が原台、田園調布台、目黒台、淀橋台、本郷台、豊島台等の崖線の上部が本来の山の手です。現在は再開発が進んで古いお屋敷がほとんど再開発されてしまいましたが、これらの位置にはお屋敷町がありました。
ですから、山手線の西側はイメージとしては山の中ですね。
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この回答へのお礼

本郷とか豊島は今は見る影も無く。
淀橋台って今の新宿西口の辺り?

どうもありがとうございました。

お礼日時:2012/06/19 19:58

ウィキペディアでは麹町・牛込・四谷・赤坂・麻布・芝・本郷・小石川などと


なっていますが、私はずっと世田谷だと思っていました
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この回答へのお礼

本郷とか小石川って下町とかなり近いです。
標高差はありますけどね。

どうもありがとうございました。

お礼日時:2012/06/19 19:52

JR山手線の内側と外側で、住民の雰囲気が変わると聞いたことがあります。

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この回答へのお礼

あっ内側です、今現在は。
あるかもしれません。

どうもありがとうございました。

お礼日時:2012/06/19 19:50

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