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自分は震災で身内をなくしたものです。単刀直入に訊きますが結局のところ復興の哲学は何なんですか?
大学の哲学者とかいうのと同様、こうした質問サイトでも相変わらず何かよく分からない議論が続けられているようですけど、なんで震災復興の哲学については語られないのでしょう。
梅原猛とかいうのも、原発にケチをつけたのは結構だが、えらそうに哲学者を名乗りそれ以上のことは何か言ったのでしょうか。こんな重要な時に社会の役に立たないなら、そんな下らんことはやめてしまえと思いますが間違っているでしょうか

A 回答 (18件中1~10件)

自分はたまたま仙台空港で津波に巻き込まれまして、水と爆発の中で直接人が死んでいくさまや、


それ以上に死んで放置されているさまも見たり
物資の無い千人超の閉鎖空間で1晩過ごしたり、脱出した先々で物資を奪い合うさまをみたり
そのまま原発を見に行って日本政府の作戦の失敗や混乱、水素爆発を目撃したり、
米軍の作戦能力の高さや日本の統治能力の欠落を目の当たりにしたり、
その後も腐乱した友人を確認したり、たまたま立場上復興最中の制限区域の中で
何が行われていたのかを見る機会もあったので、まぁステレオタイプな被災の在りようの
あらかたは通常以上にたっぷり経験できたかと思うんですが、
それでもやっぱり暖かい部屋で題目を唱え続けたであろう坊主や哲学者さんとまったく同じく
万人に共通する哲学なんぞを語った時点で、質問者さんにはやっぱり
何をえらそうに、と言われてしまうと思うんです。
私がどんな行動を取ったか、私の言葉を聴いただけでは明確にイメージできないでしょうしね。



つまりは、えらそうに、と言われない資格を持ちえる人間はいないと思います。

いろんな方にお話を伺っていると、我こそが一番の被災者、といわんばかりに窮状を聞かせて
いただけるんですが、一言に被災、といってもその体験は様々ですよね。
街中で棚が崩れて大変だったー、エレベータが止まって階段で降りた、というのも被災者でしょうし
質問者さんのように身内を亡くされても被災者でしょう。
ですが我々は語ることでもなお、その経験を完全に共有できるわけではありませんから
自身で経験した以上の鮮烈さをもって、他者の痛みを完全に理解することは不可能です。

(まぁ私が見たまま、複数折り重なったまま腐乱した人間がどうなるか、なんて言葉で説明しても
ドン引きされるだけでしょうしねー。)

ですから、"語ることが認められる明確な資格"なるものは
象牙の塔に篭っていようが失われるわけではなく、
瓦礫の中を這いずり回っていようが、得られるわけではない。
"被災者様"であらせられる質問者さんを満足させるような、そんな資格は平等に存在しないと思うのです。



ではこの前提の下、復興の哲学とは何ぞや、と問うと
万人に資格が存在しない、その上で復興の哲学を俎上に載せるのですから
それは主張する人間の性質は論ずるに値せず、ただひたすらに内容に対する検討であるべきですよね。
私はヒサイシャだが、身内が死んだが、大学教授だが、専門家だが、なんていう
枕詞はまったくの不純物であって、語る人が偉そうだからだめとかいうのはまったくもってナンセンスです。

万人に資格は存在せず、だからこそ万人に語る機会があるのです。
質問者さんは他者の主張を腐すだけはなく、自分自身でその哲学を見つけるべきですし、また主張されるべきです。
そのときは、私が逆に何を偉そうにいってるんだこのバカは、クソの役にも立たねーな、と言ってあげますので安心してください。
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この回答へのお礼

>語る人が偉そうだからだめとかいうのはまったくもってナンセンス

そうかもしれません。亡くした身内といってもほとんど知らない人ですし、元から自分にも切実さが人よりあったとは言えません。自分にはインターネットを利用して得た学しかなく、探してはみても自分でそれを唱える気はなかったですし、多少のひがみがあったかもしれません。ともかく色々な意見を聞けたことは参考になりました。他の方にもそうなればと思います

お礼日時:2012/08/29 17:39

No.4 , No.16です。



あえて追記させていただきます。
No.4にて
>>>
、「間違っている」とか「間違っていない」とかいう問題ではなく、「勘違い」というレベルの話
<<<
と記したことについて、蛇足かもしれませんが詳しく述べさせていただきます。

幾人かの回答から、さらには、部分的な消去に至った経緯から、既にお気づきかもしれませんが、

1.広義の哲学(philosophy = 智を愛する)は、狭義の哲学(世間一般で言われる哲学)とは異なり、「智」というものを求めて止まない「情」のようなものを含む。このため、元来の広義の哲学は「何かを求めようとする」全ての知的活動全般をさしている。(wikipedia等を参照して下さい)

2.したがって、このカテゴリーを「哲学」とするのは間違っている。「教えて○○」という「智を求めようとする全てのカテゴリー」が「哲学」という概念そのものといっていい。

3.また、ここ「哲学カテゴリー」で質問される内容の多くは、狭義の哲学(大学で専門にされているような哲学)とは無関係で、回答者も狭義の哲学者でない、私のようなものが含まれている。特にあからさまに、トップダウン的に「宗教のカテゴリー」が合併させられていて、中途半端な状態。

4.したがって、狭義の哲学者と目されている人に対する怒りを本「哲学カテゴリー」でぶちまけても、何の解決にもならない。「間違っている」とか「間違っていない」ということ以前の問題。

5.質問内容の前半は、「哲学」概念について、特に「震災復興の哲学」について、ですが、これについては、御自身が既に「政治哲学」という概念で捉えておられることと存じます。字面からはトップダウン的なイメージが強いですが、wikipedia等を見ても分かるように、
>>>
政治哲学は政治学の一分野であると同時に哲学の一部門である。哲学とは物事の根本を明らかにし、かつ全体の包括的な枠組みを示すための知的な取り組みであり、政治哲学は哲学的な立場から政治を研究するものである
<<<
とあり、「たぎる思い」を抱え、現場で奮闘努力し知恵を絞っておられる多くのボランティア活動や、ボランティア活動を取りまとめておられる方々の統括的な知的活動全般もまた、「震災復興の哲学」に基づいているといって過言ではないでしょう。
ようするに、既に「震災復興の哲学」は、語る以前の状態で進行しているといっていいでしょう。忙しい現場から、このような「教えて○○」に質問が飛んで来れば「なんで震災復興の哲学については語られないのでしょう」といったことにはならないでしょうが、今のところ、そのような余裕すらないのかもしれません。今回のように質問が立てられれば、何らかのレスポンスがあると思います。今後は、阪神淡路大震災後の老人の孤独死に対する取り組み等にも見られるように、多くの長期的な問題が発生することでしょうから、このようなカテゴリーにも質問として投稿され、一緒に考えていこうとする人々が増えるかも知れません。

6.ご質問の後半は、そういった進行途中の事象について、いわゆる専門家とお考えの一部の方の発言のみを取り上げて批判しようとし「間違っているでしょうか」とされていますが、「哲学」の部分の「知的表現」の一部を取り上げて批判されたとしても、何の問題解決にもならないということです。
また、大学で特定の学問を専門にされておられる先生方にも、震災復興活動の現場に身を投じておられる方々が多くおられます。
狭義の哲学関係(に近いところ)であれば、たとえば、西條剛央氏等が含まれるでしょう。
http://wallpaper.fumbaro.org/
西條氏の持論とされる構造構成主義については、私もネット上で複数のコメントをブログやMixiにて記述させていただいていますが、学術的には分かりにくく、実践的には分かりやすいというものかもしれません。
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まず、お悔やみ申し上げます。

しかし質問ですが、間違ってはいないが、的確ではないと思います。哲学者が指針(思想なり、政治哲学なり)を掲げ、人々を先導するという時代は、とっくの昔に終わったのです。上から目線で道徳なりをいわれても、もう誰も聞かないでしょう。哲学者の方もそれをわかっていて、言い聞かせたくないでしょう。

実際、あなたも梅原の指針に納得いかないと書いていらっしゃいます。失礼ながら、梅原に限らず、どこぞの思想家が何を言っても、聞き入れることができないのではないですか。実際、私自身、参考意見以上に聞こうと思いません。思想家の意見を聞いて、何か行動を起こそうという気になりません。「ふーん、そうなんだー」という以上の反応はしないでしょう。哲学者がリーダーシップを発揮しなくなった時代。これが現代です。

これは過去に比べて、現代の哲学者の質が悪いということではありません。民衆の教養レヴェルが上がった結果、前ほどに哲学者の助言を必要としなくなったという事でしょう。梅原がちょっとものを言ったくらいでは、「そんな事はもう知っているよ」となってしまった。リーダーシップを発揮する職種が、哲学者ではなく、作家だとか、実業家だとかに移ってきたというだけの事に思います。
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政府、東電の次は哲学者?


こういう被害者意識を断ち切らないと復興は難しいのでは。
こういう復興哲学も必要なのではないですかね。
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No.4です。



少し追記させていただきます。
#5,#9での補足にて記されておられますように「政治哲学」といった範疇として捉えられていいと思います。
ただし、「政治哲学」といった名称は「トップダウン的」な意味合いが強いと感じます。
思索というものに命名すると、一方的な概念として一人歩きし始めるので、気をつけられた方が良いかもしれません。そもそも、このカテゴリーに「哲学」という命名が為されていること自体に問題が潜んでいます。

ご質問と直接関係はしないかも知れませんが、よろしければ、下記質問も参考になるかも知れません。

どうして世は乱れてしまうのでしょうか…
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/7656739.html
(私は、No.8にて回答しています)

抗えない運命
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/7658119.html
(私は、No.1にて回答しています)

「どうして世は乱れてしまうのでしょうか…」では、他の方々も触れておられるところの「倫理」という概念が話題の中心になっていると思います。「倫理的な思索」は、広い意味での哲学に含まれることになります。被災当初の日本人の行動に対する世界の賞賛とは裏腹に、問題を抱え込んでいるのは、皆、感じているところでしょう。

「抗えない運命」については、この後、どのような展開になるのか全く分かりませんが、私がリンクしている「偶有性」に関する記事は、今回の震災や、その復興に関し、まさに哲学的な視点で切り込むための、一つの足がかりになるのでは? と思っています。

こちらにも、リンクを記しておきます。

リスクを抱えて生きる――確率と偶有性
http://genxx.com/blog/archives/000186.html

原因追及のスペクトラム――言葉足らずだったので
http://genxx.com/blog/archives/000188.html
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<br /> OK,OK<br /> 貴方が本気なら逆に教えてほしい<br /> 震災復興の哲学とは逆に何ですか。<br /

か。
被災者ですか?
どんな哲学がほしいのでしょう。

この回答への補足

補足日時:2012/08/23 07:46
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この回答へのお礼

お礼日時:-0001/11/30 00:00

NO.9 です。



震災復興に役に立つ政治哲学を世の哲学者たちに提案して欲しい、といわれるのでしょうか。

梅原猛氏の専門は政治哲学ではないと私は思っています。ともあれ

復興を急がねばならないし、その復興で得られる未来をよく見据え、可能な限り良質のモノになるようにしていかねばならないと思います。何が良質なものなのかをよく考え、地域の意見をまとめていくという政治のちからと同時に、どのような未来にしていくかという理念(例えば、以前より儲かる形にするか、安全を第一にするか、昔の町並みをまず忠実に再現するかとかですね)を地域のひとたちに提案していくという哲学的なリードも必要になってくるでしょう。この哲学は政治哲学ではありませんが、役人たちの役目であり、やはり政治家の役目かもしれないとは思います。基本的には、やはり地域住民のひとたちがどんな先行きの暮らしを願い、子孫にどんなものを残すかを選択するという幸福についての価値観がとわれているのでしょう。私見では、そう難しい哲学が必要だとは思えないのですが、思い違いかもしれません。
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自然は厳しいけど人間だって人間を慕うように自然を育んできたのですよね。


未曾有の大震災と津波で東北の厳しくも豊かな自然に
育まれたな愛すべき人たちが譲り合ったり辛抱してくれたり
人の強さ美しさに一杯涙しました。
同じ日本人も世界中がですね!
もっと強く優しい人になりたくなった。

そういう意味で可愛そうという同情の気持ちより
ごめんなさいね、やっぱり自分がそうなれて想いが報われます様にと
今も名も無い偉大な多くの人達への感謝の気持ちばかり。

哲学はモラルの蓄積で根拠であり目的で
過去を辿ると未来を反映していく。

先に眠った人は働く人がいてくれるから仕事を放って眠れます。
そして後から起きた子供は成しえなかった仕事(未来)をし遂げてくれる。

全然偉くなく弱さも認める普遍なことこそ証明しえますし、逆に言えば
出世が目的の報われ(自立)とする人に絶対無理なのが哲学。

残されしもの粋にあれ!
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震災復興において、政府や官僚がうまく機能せず、


対応が遅れたり、最も重視すべき被災者の救済が
後回しになったりしたのは、日本社会そのものが、
高度経済成長の期間を通じて、資本主義や貨幣経済
にどっぷり浸かり、経済効率優先の体制や考え方に
なってしまったからです。

今回の震災において、そうした政府の鈍重な対応に
業を煮やした庶民が、募金やボランティアで何とか
救済したいという意志を表明したように、本質的に
人の生きる目的は、お金を稼ぐ事=働かずに生きら
れるようになる事ではなく、生きる喜びを感じる事
=社会生命としては助け合う事なのです。

ところが原始共産制の助け合いから、組織が分業化
&拡大する上で、人の意識の社会性を発達させずに、
お金や権力といった“馬車馬の目の前のニンジン”で、
他律的に社会行動をとらせる道をとったのです。
お金は、本来助け合うために集まったはずの社会に
おいて、自己チュー的な意識のまま社会行動をとら
せるための“矯正具”として発達したものなのです
(社会生命として生きる事である労働(助け合い)を
お金をもらうために嫌々働くものにする)。
社会的生命として助け合うために集まっている人々を
して、弱肉強食のジャングルに変える悪魔のツール。

今回のような大震災は、そうした貨幣経済の、目先の
人との短期的なギブ&テイクを逸脱した、社会全体の
“助け合うためのものとしての本質”が問われる事態
なのです(通常は“社会的弱者”を救う福祉で済んだ
ものが、大きな社会全体が対象になる)。
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>自分は震災で身内をなくしたものです。

単刀直入に訊きますが結局のところ復興の哲学は何なんですか?
>なんで震災復興の哲学については語られないのでしょう。

災害でご家族をなくされたこと深くお悔やみ申し上げます。

被災地を再び人々が繁栄する社会にするために国をあげて知恵を出し合い、税金や寄付金、ぼらんてあの労力を投入して再建を始めている状況で、復興の哲学はあなたにとってどんな役を果たすのかとお考えでしょうか。
仄聞するところでは、新しい町をつくるにあたって、住民の方々のあいだにも考え方の違いがあって、なかなか進んでいないということです。そういった住民のひとたちをひとつの方向に向けさせる強力で有効な指導方針といったものを望んでおられるのでしょうか。

梅原猛氏が何かそれに関することを言ったら、住民の方々はそれに従うのでしょうか。

多くは哲学の問題ではなく、政治の問題ではないかと思うのですが、どうでしょうか。補足いただければまだマシな回答が出るかもしれません。

見当違いの回答なら失礼します。

この回答への補足

色々調べてそれは「政治哲学」と言うべきものだと理解しましたが、どうでしょうか

補足日時:2012/08/20 08:22
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