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 物と心

 宇宙万象は本、絶対観念態より主観客観の二象は現じたるものとす。客観的観念を物象と名づけ主観的観念を心象と名づく。もと一大観念態が意志の力によりて実現せられたる客観々念態を現象宇宙と云う。
 
 万物の固形即ち質碍なるものは、この力が地水火風の堅湿暖動の質は即ち力なり。力とは意志なり。観念の力によりて実現せるものが物質の現象となるを云う。若し、本質と意志の力のみならば、物質には盲動にして象相なく、色もなく声もなき、天に太陽なきが如く、物的盲動のみにして、花も色なく、宇宙万象なく、唯、物体動と分子動のみの盲動ならん。

 絶対観念態ありて天に太陽の照らす如く、万物が心象を現わし、物と心との二現象が種々の象相をなすは、観念態の実現する所なり。同一の観念態が物象と心象の二方面に現れたりとす。是の絶対観念態を大円鏡智と名づく。

 大円とは宇宙全体が同一観念態なり。観念態を鏡に例う。鏡とは相対的の甲の鏡に乙の物象を映現するが如くに非ず。宇宙全体が即ち観念態なり。一切森然たる物と心との二象は即ち観念態の力によりて実現せられたる影像なり。

 故に今、宇宙の万象が即ち宇宙という観念鏡の影像に外ならず。力によりて現るゝ万象は新陳代謝して無始より已来種々に転変するも、其の内容は同一の観念態なり。森羅万象、若しは客観物象、若しは主観の衆生の心象、内観も外観も同一観念の両方面に顕現したるものなり。
 この全体を統一して惣体なるは即ち大円鏡智、即ち絶対観念態なり。

 ☆ これは明治から大正にかけて活動されたお坊さんの文章ですが、文全体の内容も漠然としか受け止められませんが特にわからないところがあります。
 表題の次から五行目の
 「若し本質と意志の力のみならば、・・・・・唯、物体動と分子動のみの盲動ならん。」までが特に分かりません。
 
 ☆ 本質と意志の力のみ・・・・・ということはそれ以外に何かの力が有る、ということなのでしょうか。
 よろしくお願いいたします。

 

 

A 回答 (8件)

> そして、その観念態の働きは意志と、それに“本質”と云ってますが、その本質がなんなのだか、それにも一つがなんなのか・・・・・嗚呼、頭が弱いからどこかでそれに接しているはずなんだけど、記憶していない。



○「本質」とはお坊さんの文章では「万物の固形即ち質碍」つまり、物質のことですね。また、この場合の「意思」とは物質に働く「力」、つまり核力、電磁力、引力などの力ですね。
物質や物質の意思(力)だけでは秩序ある宇宙や鉱物、生物は存在しないといっているのですね。花が花として、人が人としてあるのは絶対観念態(根本仏)がかくあれと思ったからそのように存在する。それが絶対観念態(根本仏)の意思ですね。
物質にも意思があるという観点が理解できれば、読み解けると思いますよ。
これが「山川草木悉有仏性」の意味なのです。各々は各自の意思で自由さを持っているがそれは統合体としての絶対観念態(根本仏)の意志のもとで存在を許されているという意味になるのです。逆に言えば、存在を許されない形態は存在し得ないということですね。
まあ、石や岩にも意志があることがわかれば、芭蕉の「静けさや岩に染み入る蝉の声」の本当の意味がわかるようになりますね。引力や核力が物質の意志の現れと言っても科学者には理解不能かもしれませんが、実際には、すべての存在物に意志があるのですよ。

このように考えるといいですね。「絶対観念態が一部を使って物質と力を創造した、それだけでは世界は無秩序な世界(物体動と分子動のみの盲動)であった。そこに絶対観念態の「かくあれ」という意識を与えた。その意思により世界に秩序がもたらされ、ありとあらゆる生き物が生まれた。」そのように訳せますね。


参照部分:「万物の固形即ち質碍なるものは、この力が地水火風の堅湿暖動の質は即ち力なり。力とは意志なり。観念の力によりて実現せるものが物質の現象となるを云う。若し、本質と意志の力のみならば、物質には盲動にして象相なく、色もなく声もなき、天に太陽なきが如く、物的盲動のみにして、花も色なく、宇宙万象なく、唯、物体動と分子動のみの盲動ならん。」
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この回答へのお礼

 回答ありがとうございます。
 mmkyさんはこのお坊さんの文章を理解されているようで、だからこその回答かと思いました。

 この宇宙の存在に“秩序”あり、という事はちょっと“なにそれ?”って云うのが普通だと思いますが、それも理解されているように感じます。

 「本質」を「現象」と捉えてみるのはどうでしょうか。

 ありがとうございました。(2012/10/06 11:53)

お礼日時:2012/10/06 11:53

 こんばんは。



 分かりづらいと思います。が次のように読むよりほかにないのではないかと。


 ・森羅万象・・・物象および心象

 ・物象:客観物象
 ・心象:主観の衆生の心象

  ▲ この全体を統一して惣体なるは即ち大円鏡智、即ち絶対観念態なり。

 したがって
 ・絶対観念態―→森羅万象:物象および心象

 つまり 人びとの心象については 《観念》のハタラキが及んでいると見られるはずだが 物象についても同じくである。と言おうとしているのではないかと。
 すなわち

 ・絶対観念態(その本質=力=意志)―→心象(その本質=力=意志):その行為現象
 ・絶対観念態(その本質=力=意志)―→物象(その本質=力=意志):その現象

 物質の現象は 物質だけの自己運動であるに過ぎないと見られがちであるが そうではなく その物象にも 観念態の意志がはたらいているのだと。

  ▲ 若し、〔* 絶対観念態の意志=力が及ぶことなく 物質じたいの〕本質と意志の力のみならば、物質には盲動にして象相なく、色もなく声もなき、天に太陽なきが如く、物的盲動のみにして・・・

 どうも《本質=意志=力》が 観念態にも物質にもそれぞれあると言っているようで そこがややこしいように思われます。 
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この回答へのお礼

 回答ありがとうございます。
 賞味期限をだいぶ過ぎてしまいましたがこれで締めますので、感想を述べてみようと思います。

 皆さんの回答に接し、そのうえで質問に取り上げた文章を何度か読み返してみましたが、そうすると「本質」と云う言葉をどう捉えたらいいのかが、疑問となって残ってしまいました。

 今は“総括する”と云った感じの観念態を想定せずに、物象、心象は個々に存在するとしたのであれば、それらは「盲動」と云える、と云っているように受け止めてみています。
 「本質」についてはまだ上手く捉えられませんが。
 また「盲動」については秩序がないという意味で云っているんだなと思いました。

 宇宙は「絶対《相対ではない》観念態」である、という事へのブラジュロンヌさんの評価が気になりますね。
 ありがとうございました。(2012/10/06 11:40)

 

 

お礼日時:2012/10/06 11:38

失礼致します。




>「こうして回答いただいたのも何かの縁、このお坊さんの「哲学的部分」ではなく宗教家としての文章を紹介してみます。

 お釈迦様がこの世に現れた“意味”についての文章です。

 釈尊出世の本懐
 釈尊この世に出でましなされて、生涯に亙(わた)って一(もっぱ)ら御力を尽くしなされた御本懐は那辺にありやとなれば、そは世のもろもろの衆生が心の闇と悩みと罪とにより、闇の裡(うち)にさまよいあるを憐み、すべての人類を明るきと安きと聖きに復活させ、しかして円満なる人とし永遠の光明に導かんがために、世にお出ましなされた。
 経に『如来無尽大悲を以て三界を憐み、光(ひろ)く道教を開き群萌(ぐんもう)を救わんと欲し、恵むに真実の利を以てす』と。

 恵むに真実の利とは如来の慈父の光明を獲得して聖き人と生まれ更(かわ)って現世を通じて永遠の生命を得せしめんとのお慈悲なり。」


凄いですね。これは仏教じゃなくて、一神教ですね。

この回答への補足

 回答ありがとうございます。

 このお坊さんは自身の宗教を

 確か・・・

 超在一神的汎神教、と云っていたと思います。
 他の表現では円具教(円満具徳の教)とも。

 このことを、天台や華厳にては円教と名づけているようですが。

補足日時:2012/09/29 22:55
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申し訳ございません。

私では色んな意味で判断しかねましたので、お答えできませんでした。

この回答への補足

 感想ありがとうございました。

 いきなりこうした文章に接すると何のことやら、と思うことでしょう。
 私は何年もこのお坊さんの文章に接しているので、抵抗ありませんが。

 こうして回答いただいたのも何かの縁、このお坊さんの「哲学的部分」ではなく宗教家としての文章を紹介してみます。

 お釈迦様がこの世に現れた“意味”についての文章です。

 釈尊出世の本懐
 釈尊この世に出でましなされて、生涯に亙(わた)って一(もっぱ)ら御力を尽くしなされた御本懐は那辺にありやとなれば、そは世のもろもろの衆生が心の闇と悩みと罪とにより、闇の裡(うち)にさまよいあるを憐み、すべての人類を明るきと安きと聖きに復活させ、しかして円満なる人とし永遠の光明に導かんがために、世にお出ましなされた。
 経に『如来無尽大悲を以て三界を憐み、光(ひろ)く道教を開き群萌(ぐんもう)を救わんと欲し、恵むに真実の利を以てす』と。

 恵むに真実の利とは如来の慈父の光明を獲得して聖き人と生まれ更(かわ)って現世を通じて永遠の生命を得せしめんとのお慈悲なり。

補足日時:2012/09/29 21:33
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まるでショーペンハウアーのような感じですね。



意志と表象としての世界を読んだのはかなり前なので
中身を忘れてしまっています。
だから私の説明は間違っていると思いつつ。

カントの物自体は意志
そして意志が己を観照したのがプラトンのイデア

世界は盲目の意志が生んだ幻。

つまりカントとプラトンをウパニシャッドでまとめたわけです。

ショーペンハウアーが読んだのはウパニシャッドのラテン語訳の
ウプネカットです。

アルトゥル・ショーペンハウアー
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AB% …

この回答への補足

 回答ありがとうございます。

 このお坊さん以外からはほとんど学んでこなかったので、こうした回答をいただくと哲学の世界の広さ深さを思い知らされます。

補足日時:2012/09/29 21:08
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☆ 本質と意志の力のみ・・・・・ということはそれ以外に何かの力が有る、ということなのでしょうか。



○「宇宙万象は本、「絶対観念態」より主観客観の二象は現じたるものとす。」
「「絶対観念態」ありて天に太陽の照らす如く、・・」
とあるようにすべてが、「絶対観念態」の意志によるといっているのです。
ここでの「絶対観念態」という表現は、ヘーゲルの「絶対精神」を考慮し使用しているように思いますが、仏教では「根本仏」のことですね。つまり、根本仏の一部が主観客観の二象として表れているといっているのです。元の根本仏の意志がなければ、物でしかないということですね。それが、「本質と意志の力のみならば、物質には盲動にして象相なく、色もなく声もなき、天に太陽なきが如く、物的盲動のみにして、花も色なく、宇宙万象なく、唯、物体動と分子動のみの盲動ならん。」ですね。
仏教は根本仏に至って旧約聖書の創世記にある創造神(仏)の存在になるのですね。
宗教の本質は同じということです。

この回答への補足

 回答ありがとうございます。

 質問文を投稿しながらなんとなくの感じを掴みかかっていたのですが、回答をいただいて言葉にできるくらいにまでなりました。

 「絶対観念態」の働きにある“意志の力”だけでは・・・・・、ということなんですね。

 そして、その観念態の働きは意志と、それに“本質”と云ってますが、その本質がなんなのだか、それにも一つがなんなのか・・・・・嗚呼、頭が弱いからどこかでそれに接しているはずなんだけど、記憶していない。

 情けないね。(2012/9/29 21:00)

補足日時:2012/09/29 21:00
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>「力とは意志なり。



お疲れ様でございます。


あ、もしかして、アニミズムとか、そういう影響でしょうか

この回答への補足

 回答ありがとうございます。

 アニミズムの“影響”は受けていないと思います。
 
 また人の心の働きである“意志”と云うものには“力”と云うもののあることを感じます。
 意志が強い、なんて表現があるように誰でも意識できることかと思います。

 力が意志なのではなく、意志に力がある、と受け止めた方が質問で取り上げた文は、理解しやすいと思うのですが。

補足日時:2012/09/29 20:37
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この回答へのお礼

 失礼しました。

 質問で取り上げた文中に「力とは意志なり」という表現がありましたね。

 この文だけを見ると、いや違うのではと思ったのでした。
 またちょっと分からなくなりました。

 考えて見ます。

お礼日時:2012/09/29 20:45

一念三千、心こそ大切なりと言っています。

この回答への補足

 回答ありがとうございます。

 実は回答をいただいた直後に、「反応早いですね・・・・・」と投稿したつもりだったんですが、画面に表示されてなくて、どうやらしそこなったようです。

 ご回答への感想は、質問で取り上げた文に“一念三千、心こそ大切なり”と云った思いがどこにあるのか分かりませんでした。(2012/9/29 20:28)

補足日時:2012/09/29 20:28
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